みそ そして果実は実りゆく

八津次はつじさん、とうとうやったんなぁ」


 深夜の裏巽うらたつみ家。土間に通じる勝手口から戻ると、信多郎しんたろうが畳に座して待ち構えていた。ねっとりと、よだれを垂らすような暗い喜びが底に這う声音。

 八津次はすでに目出し帽を脱ぎ、青いウィッグを付け直していた。「居そう」という予感はしていたから、信多郎が待ち構えていたことに驚きはない。

 眼球の代わりに綿が詰まった眼窩は、包帯で覆われてなお〝お見通し〟だ。


「ああ、おじいちゃんが憑いてきてる?」

「ええ、首をだらんと垂らして」


 しかも殺し方まで当てている。だが信多郎は鴉紋あもん直郎ちょくろうには言わないだろう、互いに明かすメリットがない。無言の内に二人はそれを了解していた。


「シンちゃんの提案に乗るのは面白くないけど、今の状況はもっと面白くないからね~。でも、ボクが全部片付けた後、自分がどうなるか覚悟しといてよ?」


 ズボンのポケットに手をつっこみ、ひょいと屋敷に上がって、信多郎の横を通り過ぎる。その後ろから、「おや、怖い怖い」と心にもない言葉が追いかけた。

 クソ狸め。いつかその皮、引っぺがしてやる。



 八月十二日。


 を祀る梲鳩つえばと家は、神島かみしま市有数のレジャー施設『メモリーガーデン ふるさと』の経営者である。温泉、プール、レストランにカフェ、バンガロー、オートキャンプ場、グラウンド・ゴルフ場、テニスコート、体育館、etc.


 そのうち温泉旅館『かんらん亭』が、梲鳩本家との邸宅と建物がつながっている。玄関先に植えられたオリーブの大樹が目印だ。

 旅館の側にもオリーブは植えられているが、本宅のそれはひときわ大きい。わざわざ立て札で『つえ橄欖かんらん』と墨書きされている。橄欖というのはオリーブ(Olea europaea)の誤訳だが、これは確かに洋橄欖ようかんらん=オリーブだ。


「当家の人魚實にんぎょざねはこちらです」


 梲鳩老人が鴉紋と佐強さきょうを案内した部屋は、赤い紙人形で満たされていた。

 座敷に入ってまず目につくのは、壁一面丸ごと使った巨大な神棚。神社のミニチュアを思わせるそれの前を、柱と柱の間に張られた注連縄が仕切っている。

 折り紙の「やっこ」を思わせる紙人形は、紙垂の白さと浮かび上がらせるような朱色。それが竹串の先につけられ、畳から天井までずらり部屋の埋め尽くす。


 鴉紋は満開の紅葉を思い描いて、やめた。秋もたけなわに色づく紅の葉と重ねるには、目の前の部屋は陰鬱すぎる。ここには窓がなく、照明も暗い。

 空白を作ることを恐れるような、隙間なく並べられた紙人形は、それだけでも圧迫感がある。オバケ屋敷なら、なかなか気合いが入った美術だ。


「ご存じでしょうが、は出会った人間の姿形を盗みます。それを防ぐため、このように身代わりの紙人形を並べておりまして」

「どうだ、佐強」


 鴉紋は翡翠の鈴を掲げる――傍目には鈴単体が中空に浮いている――息子に問うた。が、訊ねるまでもなく鈴が何の反応も示さないのは明らかだ。

 オイルライターを取り出すと、佐強は心得たように赤い蝋燭を取り出した。少年の肩に紐で吊された物が、すーっと浮かび上がる様に、梲鳩老人はぽかんとしている。


「ははあ、さすが若先生が呼ばれた拝み屋さんですなあ」


――俺たちが本当に、拝み屋なんてやれるような霊能力者なら良かったんだがな。


 言葉を飲みこんで鴉紋は火を灯した。

 ふつっと電灯が消え、窓のない部屋は闇に包まれる。を探しに森へ入った時、同じことがあったと鴉紋は聞いている。

 佐強にもう一度鈴を出すよう指示したが、その前に再び照明が灯った。


 それは十数体ほどだろうか。ひ、と梲鳩老人がしゃっくりのように喉を鳴らす。

 ぼんやりとした、と言うよりも煙のように常に輪郭がゆらめく黒い人影が、室内に出現していた。こちらを覗きこむように猫背の者もいれば、直立不動の者もいる。

 蝋燭の火を近づけても反応せず、男なのか女なのか、ただ人型の輪郭を持っていること以外、何も分からない。


「やれ、佐強」

「うしっ」


 ひゅん、と風切り音と共に使鬼銭が影の頭を貫くと、ぱっとそれは霧散した。一瞬黒煙が舞い、空気に溶けてほどけるように、後には何も残らない。

 仲間? がやられても、他の影たちは微動だにしなかった。

 ただ輪郭がふるふるとゆらめくだけ。こいつらが占めている空間と、通常の空間、その境界線は、こうも不確かなものなのだろうか。


 佐強がすべての影を片付けるまで、数分も要しない。鴉紋が「今まで同じことは?」と訊ねると、梲鳩老人は縮こまって首を振るばかりだった。

 その後しばらく話したが、目新しい話はなかった。出現した影は、神具の蝋燭に反応したのだろうか。紙人形を一つ持っていって良いかと訊ねると、断固拒否された。


「何か可怪おかしなことがあったら知らせてくれ」

「お邪魔しましたー」


 拝み屋父子を見送って、梲鳩老人は大きく嘆息する。赤い雨が降って以来、ろくな事がない。先日の願施がぜざき事件は、のせいだともっぱらの噂だ。

 そして来足きたり有長ありながの死。いったい何が起きている?

 過去、翠良みすら尾瀬おぜで異変があった時は裏巽家や、彼らが協力を求めた霊能者が解決してくれた。これは警察や行政でどうにかなる問題ではない。


 一日も早い終息を願って通常業務に戻った梲鳩老人が、祭壇の部屋で黒く焦げた紙人形を見つけるのは、翌朝のことだ。



 じりりりん、じりりりん、とギザついた音が頭に入りこむ。電話のコール音だ。鴉紋は夜の暗い廊下で、黒電話を探し当てた。

 飴のように黒くツヤのある筐体に、指を入れて回すダイヤル。父が営んでいたカフェには趣味でこれが置いてあったが、佐強は初めて見たと言う。

 鴉紋は受話器を取り上げた。


『もしもし、信多郎?』


 知らない女の声だ。きゅっと引き絞るような、意志の強さがかいま見えるタイプを想像した。凜としたと言うほど冷たくなく、しなやかな。さぞかし美人だろう。


「いや、俺は居候いそうろう宇生方うぶかたという者だ。家主に替わるか?」

『居候――もしかして、松羅まつらさんの関係者かしら』


 八津次の名が出てきたことで、鴉紋は相手の見当がついた。


「そうだな、翠良尾瀬じゃあいつといっしょに拝み屋三人組で通っている。もしかして、裏巽和泉子いずみこさんか」


 信多郎の姉で、裏巽すずめの母。そして実の弟と子をなした女だ。その点を別に責める気はないが、彼女はまだ重要な情報を持っていると鴉紋はにらんでいる。

 一度、八津次に頼んで彼女と会ってきてもらったが、聞くべきことは多い。

「信多郎を信じて」と言う和泉子に、自分たちが当人に隠れて接触してきたことを伏せるよう説得する必要があったが、彼女は快く応じてくれた。


 すずめの足や信多郎の眼が奪われたことは、「心配させたくなくて」と解釈することができる。だが、の儀が失敗したことに、和泉子は不信感を抱いているらしい。本来、それは「あり得ないこと」だと。

 何の用事かは知らないが、この際その点を問いただしておきたい。


「手短に用件を言ってくれ。こちらも訊いておきたいことがあってな」

『出して』


 唐突な言葉に「あァ?」と鴉紋は聞き返してしまう。


『出して……ここから出して』

「おい、」


 言いかけて、はたとの件を思い出す。孵化し損ねたが、水子のと化し、「産んでもらう」ために祟りをなしていた。

 あれがノック音に応えるのがトリガーになっていたなら、「出して」という言葉にも、うかつに応じるべきではない。


『出してぇ――ッ! 出して、出して、出してよぉ――ッ! 出っ……』


 音を立てて受話器を置き、鴉紋は懐の使鬼銭を確かめた。

 特に熱くなってはいない。黒電話につけたが、変わりなし。和泉子が発狂したのか、それとも彼女の声を借りた何かか。油断も隙もない。



 八月十三日、人魚狩りの期限まで、あと二十夜。


 宇生方鴉紋の朝は早い。

 新米刑事というものは、始業の二時間前(朝六時程度)には出勤して、掃除や雑用をこなすのが普通だ。新米の肩書きが取れても、朝早く行動するのは変わらない。


 今日は佐強が体を奪われて見つかった、例の洞窟を調べにいこう思っていた。

 オヤカタサマの一・生口いたこ家が管理しているもので、地図もそちらにあるという。みすらおがみ神社の御前ヶ滝が、洞窟の地底湖とつながっているいわば神域だ。

 複雑で迷いやすいが、翡翠の採掘所があり、生口家の所有地となっている。

 とはいえ、神域。あまり大々的に掘っているわけではなく、道の駅などで細々とアクセサリーを売っているだけだ。神具の鈴もおそらくそこ産だろう。


 その生口家が放火で全焼したのだ。

 祀る人魚實の行方は不明だが、祭壇が焼けたことには変わりない。そして、生口家当主が裏巽家へ相談に来た時、あれは炎に弱い、と話していた。

 翠良尾瀬では鴉紋たちが知らない間にも、次々と怪奇現象が起きている。が既に行動を開始して、生口家の誰かがそれを退治しようと火を放ったのか。

 少なくともそれが起きたのは深夜だ。


ついのラクダはとぼ~とぼと~♪ 砂丘~を越えて~ゆきました~♪ 黙って~越えて~ゆきま~し~た~♪」

「なんだ、それ持ってきたのか、お前」


 鴉紋が八津次の部屋を訪ねると、彼はボクサーパンツ一つで『月の沙漠』のオルゴールをもてあそんでいた。那智子なちこが生前好きだった曲だ。

 八津次がかつて彼女にプレゼントした物で、ラクダに乗った王子さまとお姫さまの磁器人形は彼お手製である。今や那智子の形見だ。


「おっはよー。鴉紋ちゃん、朝早くからどしたの?」

「生口家が放火で全焼したそうだ」

「へえ」


 八津次は食品サンプルのように、できすぎた笑みを浮かべている。


「洞窟の方を調べるつもりだったが、この状況じゃあの家から地図を借りることはできん。今日は裏巽和泉子に話を聞きに行くぞ、ついてこい」

「おっけー、サッちゃんとナオちゃんは留守番ね」


 調べることは山ほどある。オヤカタサマからはこれ以上、人魚實についての情報は期待できなかった。となれば、「人魚」だったとされる裏巽市子いちこのこと、みすらおがみ神社のこと、和泉子や信多郎が知っている何か。

 ありとあらゆる情報を洗い出さねばならない。タイムリミットは着々と迫っているのだ。十日経っても事態が好転しないならば、信多郎を拷問にかけてもいい。


「『月の沙漠』か」


 車の運転席に乗りこんで、鴉紋はぽつりとつぶやいた。今日もネクタイを締めて、身なりを整えている。Tシャツなんぞで聞きこみをする刑事はいない。


「ナッちゃん、好きだったよね。ラクダに乗った二人はどこへ行くんだろう、もしかして永遠に沙漠をさまようのかな、って話してたなあ」


 どこへ行くとも知れぬ旅は、希望のようにも絶望のようにも思える。二人には幸せな目的地があるのか、あてどなくさまよい続けるのか。

 もし自分たち家族が沙漠にいるのなら、必ず幸せな目的地へ連れて行かねばならない。鴉紋は車を発進させた。


「儀式がなぜ失敗したかについて聞きたいのね」


 神島市民病院で挨拶もそこそこに話を切り出すと、和泉子は少し考えこんだ。声で想像した通り、いい女だ。男装の麗人が似合いそうな。


「松羅さんが前、〝適当に〟と言ってあれこれしゃべっていたけれど、の儀が元々生け贄の儀式、ってのは事実よ。今みたいに、蛇の卵を滝壺に投げ入れるようになったのは最近、先々代のころね」


 つまり信多郎から見て、祖父母の代ということだ。和泉子は一つ一つ、迷いながら話していた。何をどこまで明かすべきか、断言してよいものか、と。

 そういえば、裏巽姉弟の両親はこの半年で病死しているが、信多郎が二十八歳、和泉子はおよそ三十歳。だとしたら祖父母は七、八十代で生きていてもおかしくない。


「その先々代は今どうしている?」

「契約をたがえたから……儀式の内容を改変したから、その代償で命を取られた。父はそう言っていたわ。信じられない話でしょうけど、翠良尾瀬はもともと……可怪おかしい土地だし。今だって、次々と事件が起こっているんでしょう?」


 願施崎や来足の件は、彼女の耳にも入っているらしい。一方で、昨夜の電話のことは何も知らない風だった。やはりあれは夢か、だったのだろう。


「あれが生け贄の儀式なのは、かつて受け取った物、つまり翡翠さまね。を粗末にした贖罪しょくざいとしてみすらさまにお返し申し上げ、受け取り直すためだから」


 その続きを話すことを、和泉子はひどく迷っているようだった。長い沈黙を続け、口元を手で隠し、ちらちらとこちらを見る。

 信用して良いのか、面白半分ではないか。そもそも、知り合って間もない見知らぬ男たちだ。そして今の鴉紋は警察官という立場を持たない、一般市民である。

 ならばこちらのことを話すしかない。


「裏巽のお嬢さん。話は変わるが、俺とそこの松羅とあともう一人は、三人で一人息子の父親をやっている。母親は十年ほど前に亡くなったが、大事な家族だ」


 和泉子は物思いを打ち切って、きょとんとした顔になる。まあそうだろう。鴉紋はスマホからアルバムを呼び出し、家族写真を彼女に見せた。

 十年以上前、佐強が小学校に上がった時のものだ。ぴかぴかの制服を着た佐強を、着物姿の那智子と、スーツ姿の鴉紋、直郎、八津次が囲んでいる。


 背景にはまばゆいほどの桜。過去から切り取られた幸福の一角が眼に染みる心地だったが、感傷に浸っている場合ではない。

 鴉紋は次に高校生になったばかりのころ佐強を、そして最近撮っておいた、両手を失った佐強の姿を和泉子に見せた。


「俺たち家族が奇妙なのはともかく、こいつは大事な一人息子なんだ。見ての通り、儀式の失敗に巻きこまれて難儀している。その上、あと二十日もすればになる運命だ。何か知っているなら、話してくれ」

「や、や、いやちょっと待って、父親が三人って所まだ呑みこめない」


 仕方がないので、八津次と二人で彼女が納得するまで説明する。その結果、自分なりに納得を見つけたらしい和泉子は、はぁとため息をついて語り出した。


「生け贄の儀式は、人魚を殺して、食べるのよ」


 その口は、錆びついたかんぬきがかかった扉のように重い。言葉には、翠良尾瀬の血塗られた歴史と闇がこびりついて、足元を霜つかせるような冷気に満ちていた。

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