みそあまりひとつ 食べたものは血肉となり、血肉は食べられる

 鴉紋あもんらが病院から戻り、裏巽うらたつみ和泉子いずみから聞いた話を伝えると、直郎ちょくろうは深刻な顔になった。彼に障りをなしているは、相変わらず変化がない。


佐強さきょうくんを呼んでください。わたしからお話ししたいことがあります」


 直郎の部屋に家族四人が集まると、彼は聖書から得た見解を語った。

 通常、キリスト教に見られる入信の儀は「洗礼バプテスマ」である。

 対して、パンとぶどう酒をキリストの血肉に見立てて拝領はいりょうする聖餐式せいさんしきは、「最後の晩餐ばんさん」をし、共同体の信仰を示すものだ。

 龍神みすらはクリスチャンプロテスタントの直郎から見て異教の神、端的に言えば悪魔である。それは人々を悪の道に誘惑し、全能のしゅに救われぬ堕落へと落とす。


「神道の神を、キリスト教で解釈するというのは筋違いもはなはだしいのですが」と直郎は前置きしつつ語った。


 プロテスタントの聖餐式(カトリックでは聖体せいたい拝領)は永遠の命=魂の救済を信じること、あかしを立てる礼典だ。そしてカニバリズムにはしばしば、「喰ったものと喰われたものの同一化」という側面がある。


「文化の侵略あるいは交流においても、他国の食べ物は重要な位置にあります。悪魔としての龍神は、自らの分霊である翡翠を天から下したパンとして与えた。翠良みすら尾瀬おぜの人々が祟られたのは、彼女を食べたからではなく、血肉を口にしながら信仰を示さなかった。その不敬さゆえ罰せられたのではないでしょうか」


――みんなでいっしょに暮らしましょう。


 那智子なちこの姿を借りた龍神は、くり返しそう言っていた。人魚の娘である彼女を食べたならば、鴉紋たち四人もみすらの信徒


「人魚が生まれる血筋・人魚実にんぎょざね……オヤカタサマの存在も、この説を補強しているとわたしは考えます。彼らは既に、祖先が食べたものと同化している」


 の儀は人魚を、あるいは人魚の血を色濃く引いた近親婚・きょうだい婚の間に生まれた子を生け贄を殺し、その肉を食べるカニバリズム的儀式だ。

 かつて直郎は、ついぐなの儀は聖餐をなかったことにする、贖罪だと考えた。だが、和泉子の話で「人魚を食べる」と分かった今では違う。


「かつて行われたの儀は、聖餐のやり直しだったのです」


 その在り方は、地中に眠りながら胎児としての自己を複製し、喰らい、いつか生まれずる時まで輪廻をくり返すに似ている。

 信多郎の祖父、先々代の裏巽家当主はの儀を改めた。

 年齢から考えれば、信多郎の祖父または曾祖父は、裏巽市子いちこを生け贄として捧げる役割を担っていたはずだ。だが人魚である彼女は、殺される前に村を出奔した。


「もし裏巽市子さんが連れ戻され、儀式で殺されていたならば、那智子さんは」そして直郎自身も。「施設に引き取られず、翠良尾瀬で育っていたはずです。なにしろ貴重な人魚の直系ですからね。そして贄を出せなかった代償に、先々代は亡くなった」


 翠良尾瀬の外で、裏巽市子がなぜ亡くなったかは分からない。少なくとも一度儀式が断絶したことから、死因はみすらとは関わりのないことだったのだろう。

 そして信多郎が儀式を執り行った途端、人魚の血を引く三人の体が奪われた。


「ですから、佐強くんの両手は祟りでも呪いでもなく、信多郎さんが自ら捧げたと考えるべきです。彼の目的と、すずめちゃんまで巻きこんでいる点が不可解でしたが、実は――とすれば、つじつまが合うでしょう」


 半年前の冬。裏巽すずめは行方不明になり、一日経って信多郎が連れ帰った時には、何があったか覚えていなかった。そして彼女が消えてから見つかるまで、裏巽家の祭壇に祀られたご神鏡は、不可解に霜ついていたのだ。


「信多郎さんは、神に連れ去られたすずめちゃんを取り戻したかった。だから、一度途絶えた生け贄の儀式を復活させ、願いを託したのではないでしょうか」


 根拠の一つが、和泉子の話だ。

 八津次が入院中、和泉子と何度かやりとりをし、一同は「信多郎と共謀してはいない」と結論づけるに至った。今現在、彼女の証言は重要な情報だ。

 例えば、は、偽人魚の別名があるように、劣化版の人魚であり、すなわち贄としての価値がある、など。


――「考えてみたのだけれど、生きた人間が体の一部を取られたということは、信多郎自らが生け贄に差し出した。それも、〝前払い〟ということだと思うの」


 とは和泉子の言だ。しかも彼女は「生者が持つ人魚の血は、よりも価値がある」と断言した。だから三人の手、眼、足に見合うだけ、を捧げねば前払いされた肉体は戻ってこない。それには三十三夜ではとても間に合わないだろう、と。

 しかも期限がすぎればになる、という点は正しいままだ。


――「つまり。よりも、オヤカタサマか、市子伯母さんや、その血筋の人を殺してしまうのが、一番早い。体は戻ってくるし、弟は目的を果たす」


 翠良尾瀬に来た当時、鴉紋が「祟りを受けるのも俺たちのはずだったんじゃねえか」と問うと、信多郎は「そういうことになりますね」と肯定した。

 その時、八津次の「今からボクらが食べた分返すんじゃダメ?」という質問を信多郎が否定したが、この点も和泉子は同意見だと言う。

「一度神さまにこれこれこうしますから、願いをかなえてください。と言ったことを、やっぱりやめますなんて、神罰で殺されてもおかしくない」と。


「裏巽信多郎は、最初からほとんど真実を言っていたってわけだ」鴉紋は目鼻立ちの彫りを深めるように、顔をしかめた。「嘘偽りは出だしだけ。上手いもんだ」

「まあ、事情が分かっても、ボクらのやることは結局変わんないもんねー」


 八津次は頭の後ろで手を組んで、ごろりと畳に寝転がった。


「ああ、も一つシンちゃんの嘘あったっけ。ナッちゃんを食べたボクたちじゃ血が薄くて駄目、って言っていたけど、逆だね。んだ」

「つまり、信多郎さんは最終的に、わたしたちを殺したいのでしょう」

「ど、どうやって!?」佐強は目を白黒させた。「今あの人眼が見えないし、オヤジなら一ひねりじゃん。あ、そうだ、オレたちも、ぶっ倒しただけで食べてないよね? 信多郎さんもそれでいいって言ったし」


 直郎の推論は間違いではないか、と佐強は暗に否定していた。

 彼は父たち三人が翠良尾瀬に来るまで、十日ほど信多郎と過ごしている。その時に受けた優しさを、すべて計算尽くだったと思いたくないのだろう。だが。


「おそらく、彼は祖先が交わした最初の契約を解除したいのでしょう。だから食べて聖餐をやり直すのではなく、ただ殺し、受け取った血肉を返そうとしている」


 もしすずめが神に連れ去られただけではなく、死亡しているのなら、それを取り戻す代償は果てしないものになるだろう。そう考えながら直郎は答えた。

 佐強には、直郎が実の父親であること、彼が那智子と双子の姉弟であることは知らせていない。信多郎が息子を救いたければオヤカタサマを殺せ、と言ったことも。

 ごろごろしている八津次を横目に、鴉紋は冷たく言い放った。


「翠良尾瀬は龍神が支配する土地だから、どこだろうとをヤれば、それでみすらに捧げられるとヤツは言っていた。つまりこの村のどこででも、俺たちが死ねばいい。簡単な話だ。と、の時を思い出してみろ」


 最初、が眠る地に案内された佐強、直郎、八津次はまんまとやられて赤ん坊に戻された。その後、屋敷に残った鴉紋を呼び出したのも信多郎だ。

 この一件で自分たちは人魚の危険性を認識した。信多郎が自分たちに嘘偽りを述べていたならば、あの場で一網打尽にするつもりだったに違いない。


「そういえば信多郎さん、とーちゃんが蝋燭食べたら、すっごいキレてたな……」


 大事に祠で祀っていた家宝を「食べる」なんて真似をされたら、それは怒られても仕方がない。だが八津次がに祟られた末、鴉紋たち自身の手で命を絶つことを信多郎が期待していたならば。あの怒り方も見え方が変わってくる。


「にひひ、面白いねえ。うん、すっごく面白い」


 がば、と八津次は起き上がりこぼしのように跳ね起きた。唇をぎらりと歪め、獲物を見つけたネコ科獣のように眼をらんらんと光らせている。


「ボクねえ、シンちゃん結構好きだよ。サッちゃんのためなら、ボクらだって街一つ巻きこんだ怪異を起こしてもいいやって思わない? すずめちゃん可愛いしね。しょーがない、しょーがない、でもボクらを巻きこんだのは間違いだね」

「八津次さん、まさか」

の件がなければ、徹底的にお仕置きしてやりたいんだけどねえ~」


 それが拷問の言い換えだということは、この場の誰もが理解していた。だが、直郎が他人の痛みに共鳴させられるに祟られている以上、それはできない。

 おそらくは直郎と信多郎の距離を離せば、問題はないのだろうが……。


「病院のイズミちゃんを人質にするぞ、って脅しとく?」

「無実の人間を巻きこむんじゃねえ!」


 明るく物騒な提案をする八津次を、鴉紋は腹の底から怒鳴りつけた。冷房が効いた室内の空気が一瞬で沸騰する、誰もが神経を泡立たせる威圧感。


「俺たちがコロシをやってきたのは、善良な人間が傷つかないよう、仇を取れるようにと思ってのことだ。その一線を越えたら、俺たちは人でなしのクズだぞ」

「うん。そうだね、うん」


 八津次は笑う、ニコニコと笑う。愛おしいものを見るように、輝かしい何かを見つけて眼を細めるように、あるいはショーケースに飾られたマネキンのように。

 無機的な硬さと、人間性の温かみが不思議に同居した、はらの読めない面持ちだ。


「鴉紋ちゃんのそういう正義感、ボクは大好きだよ」


 さしずめプラスチックの仮面だ。屋台で売っているような安物で、触れば人の肌ではなく、つるりとプラスチックの感触がしそうな。

 けれど仮面から覗く瞳には、見逃しそうに小さな情が灯っている。


「全員、荷物をまとめろ。いつでも出て行けるようにな。だが、今日一晩はまだここに泊まる――祠と祭壇をもう一度調べてえからな」


 鴉紋はそう言って話をまとめた。信多郎の言葉が嘘か真かある程度判別した所で、重要なのは「佐強を死なせたくない」と言っていたことだ。

 あの男も実際は、佐強が最も価値のある贄だと勘づいているのではないか。視力がないことを差し引いても、信多郎は殺そうとすれば殺す機会はあった。


 佐強をどうするつもりであれ、ヤツは純然たる敵だ。

 ポン、とメッセージアプリの着信が鳴って、鴉紋は何気なくスマホを開いた。急な休職だったから、時折同僚の誰かが送ってくることがある。今回もそれかと思った。


『うぶかたあもん』


 送り主の名前が文字化けしている。ポン、ポン、と連続で通知が鳴る。


  ポン『うぶかたうぶかた』

  ポン『生方亞門』

  ポン『冲方亜門』

  ポン『産形吾聞』

  ポン『宇夫形愛文』

  ポン『あもんあもんあもんあいむあもん』


「……俺の名前を探ってやがるのか?」


 しかも妹の名前まで。八津次も直郎も佐強も、様子がおかしいのを悟ってスマホを覗きこむ。鴉紋は見えやすいよう、それを座卓に置いた。着信は途切れない。


  ポン『宇生方宇生方』

  ポン『あいむあいむあいむ』

  ポン『鴉紋』

  ポン『宇生方鴉紋』

  ポン『あなたは宇生方鴉紋』


  ポン『宇生方愛夢あいむを覚えている?』


 そのメッセージを見た瞬間、鴉紋は頭蓋の底がかっと燃え上がるのを感じた。

 スマホを投げてやろうかと思ったが、落ち着いて手持ちの使鬼銭を押し当てる。だが古銭は熱くならないし、メッセージの通知は続く。


  ポン『もうごうや』

  ポン『いれて』


「あー、これもしかして、?」


 八津次の発言を聞いてなるほど、と得心がいった。とはいえ、あれが電話を使うなどと聞いた覚えはない。


「そいつは確か、行き会った人間に化けるのはずだぞ」

「……電話であれば、向こうからおもむくことも可能ということでしょうか」


 直郎の言葉で、和泉子からの奇妙な電話を思い出す。夢だったのだろうと忘れかけていたが、あれは「出して」だった。今度は「入れて」か。


  ポン『もうごうや、もういいかい』


  ポン『はいりたい』


「……これ、電源落としたほうが良くない?」


 佐強は神具の使鬼銭で、スマホをつつきながら問うた。

 少なくとも反応してはまずいのは確かだ。端末を叩き壊したとて、これはまた別の所から仕掛けてくるのではないか。鴉紋は迷いながら拳を握る。


  ポン『もうごうや、もういいかい。もうごうよ』


  ポン『はいれた』


「ごうや、ふとうたり」


 男とも女とも子供とも老人ともつかない声が二つ、聞こえた。一つは通話画面に切り替わったスマホから。もう一つは、鴉紋の腹から。

 誰もが聞き間違えようのない、ハッキリとした響きと余韻だった。



「おや、鴉紋さん。……られましたね、おめでとうございます」


 信多郎は自分の書斎に入ってきた人物にすぐ気がついた。いや、それは室内に突如として出現したのだろう。

 盛り上がった筋肉と、亭々ていていたる背丈に合わせてあつらえた三つぞろいのスーツ。そして黒いロングコート。傍らには、十二、三歳ほどの少女を連れていた。


「こちらのお嬢さんは?」


 視力を失い、両眼を包帯で覆ったはずの信多郎は、相手をハッキリ視認していた。


「妹の愛夢だ」それは変わらぬバスボイスで答える。「十三で病死してな」

「なるほど、もう別れとうないんですなぁ」


 鴉紋の姿をしたは、妹と呼んだ少女をやさしく抱き寄せた。

 もう二度と手放さない、と雄弁に語る手つきで。渇望し続け、追い求め続けた魂の片割れをようやく手に入れた――そんな仕草だ。

 少女は長い黒髪に青白い肌で、白いワンピースをまとっていた。性差と年齢差で印象は異なっているが、目鼻立ちには血のつながりが面影を落とす。

 大きな瞳を星のようにきらめかせて、少女は微笑んだ。


「おにいちゃん、大好き」



 おまへがたべる、このふたわんのゆきに/わたくしはいま、こころからいのる/どうか、これが兜率とそつの天のじきに変わって/やがては、おまへとみんなとに、きよ資糧しりょうをもたらすことを/わたくしの、すべてのさいはひをかけて、ねがふ ……。


 妹トシの死を歌った宮沢賢治の詩『永訣の朝』。文芸評論家・饗庭あえば孝夫たかおがこの詩を『文学の四季』で引用した時、雪は「水の物質化、美しく無垢な存在のしるしであり、そんなトシと同化して鎮魂のおくりもの」となった、と語った。

 それはまるで「聖体拝領のような儀式」とも。


 直郎が昼間語った推理、彼がかつて姉・那智子と犯した近親相姦、鴉紋の亡き妹への想い。それらが一つながりになっている。

 祟りは報いで呪いは業、とかつて口にした自分の言葉に苦笑した。祟りはなかった。だが、もはや事態は、儀式を始めた信多郎自身にも止められない。

 そして自分たち家族には、これまでの業が跳ね返っている。ああ、笑える、笑える、笑うしかない。今度は鴉紋がにやられた。


(でも、オヤカタサマを殺すってボクの方針に間違いはないってワケ)


 今夜は梲鳩つえばとを殺し、祭壇を潰そう。あれから鴉紋に目立った異常はないが、直郎がにやられている上で、二つ同時に人魚實にんぎょざねを相手にするなんてゴメンだ。


「どこへ行く、八津次」


 土間に降り、勝手口に手をかける寸前、鋭い呼びかけが胸に刺さった。振り返れば、背の高い影と中背の影が二つ。問うまでもなく誰かは分かった。


「誰か、殺しに行くんですね」


 直郎の言葉は質問ではなく確認だ。鴉紋が低くうなりを上げる。


来足きたりのじいさんも、生口いたこの放火も、てめえの仕業か」

「そうだよ。やっぱりオヤカタサマを片付けるのが、一番早いじゃんってね」

「そんなことはさせません」


 直郎も鴉紋も身構えて、八津次を挟み撃ちできる位置に動いた。両手を上げ「まあまあ」と二人をなだめる。


「ボクは逃げないよ。いつか気づかれて、こうなるって分かってた。〝赤観音〟の掟破りは百も承知。ボクを殺すんでしょ? いいよ、山でも森でも連れてって」


 煮るなり焼くなり好きにしろとばかりに、八津次はその場にあぐらをかいた。

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