みそあまりふたつ この雨は汝らを罰す。滴を受けよ
自分の犯行について、
目撃された時のことを想定し、髪を刈ってウィッグを用意したこと。
今夜は斧で
「……巡回も厳しくなっているってのにか。警察舐めやがって」
車の運転席で、
そもそも誰か殺せば、それは霊となって加害者につきまとう。視力を失った代わりに得た霊視で、信多郎は鴉紋たちより先に、八津次の殺人に気づいていたはずだ。
「十年この方〝赤観音〟やってんだよ。ボク、逃げ足にも自信あるし」
「だが俺たちに見つかって、逃げようともしねえ」
車の後部座席、ロープで後ろ手に縛り上げた八津次を、鴉紋はルームミラーごしに見やった。助手席には沈痛な面持ちの直郎が座っている。
明日から八津次がいなくなることを、
「〝あかかおん〟の歌もワザとだろ。よくもやりやがったな、八津次」
「へっへへへ」八津次は笑っている。
第一の殺人、来足殺害の時はまったく気がつかなかった。生口家の放火も、最初は願施崎のように他の怪異が関係していると思って捨て置いた。
だが今夜は、ふと胸騒ぎがしたのだ。鴉紋も、直郎も。皆で話し合って信多郎の目的と嘘を暴き、佐強を助けるために何をすべきか再確認したためか。
オヤカタサマを殺せ、という信多郎の提案は正しかった。自分たち家族がこうも追い詰められ、人魚狩りの期限は刻一刻と迫るばかり。
その時、八津次が何を優先し、どう動くか、二人ともそれを悟りながら違って欲しいと願った。だが結果は、あっさりとした自白だ。
「犯罪者が現れた時――それに制裁を加え、被害者を救済する刑罰権は、国民ではなく国家が持つ。そのための警察だ。俺たちはその前提を破って、〝赤観音〟として活動した。自分勝手に罪人を見定め、裁判を経ず、刑を執行してきた」
集落を外れた森の中、開けた空き地に鴉紋は車を停めた。後部座席から八津次を引きずり出し、適当に座らせる。何の抵抗もしない。
月が明るく輝く中、ランタン型の懐中電灯をつける。ぼうっと浮かび上がる光の輪、その周りを樹木と木の葉の波が囲んだ。
縛られて座る男が一人に、立っている男が二人。まさに処刑場だ。
「俺たちはいつも、標的を選ぶときは慎重に慎重を期して実行してきたな。万が一冤罪ではないように、相手にも不可抗力がないように。反省と償いの余地があるように。だが、てめえはその一線を越えた。決して許せないことをした」
善にも悪にも、すべからく報いがあるべきだと鴉紋は考える。そのために警察を志し、しかして法を裏切った。だから、一度定めた掟まで違えるわけにはいかない。
それが結果的に裏巽信多郎を利することになるとしても。
八王子に、家族の誰も欠けさず帰るという願いを潰えさせてでも。
「
「判決死刑。おっけー、ちゃっちゃと済まそっか」八津次は笑っている。
顔色一つ変えず、この男は明朗快活に応えた。鴉紋の苦渋の表情も、直郎の悲痛な面持ちも、まるでどこ吹く風で、一瞬言葉が通じてるのかと疑うほどだ。
「絞首刑よりはナイフがいいな。あ、スキンヘッドも悪くないけど、元の髪気に入っていたから、ウィッグはつけたままでよろしく。ナオちゃんのがんかじは大丈夫?」
がんかじの障りを受けている直郎は、近くにいる者の痛覚を強制的に共鳴させられる。鴉紋が八津次を刺せば、死の痛みがダイレクトに伝わってくるだろう。
「わたし一人が、鴉紋さんにこんな惨いことを任せるわけにはいかないでしょう。それに、眠れるよう薬を用意しました。本来はかゆみ止めですが」
「あー、知ってる知ってる、オーバードーズするやつだ」八津次は笑っている。
かゆみ止めの薬には、しばしば副作用として眠気をもよおすものがあるが、それを悪用して容量以上を服薬することで睡眠薬の代わりとなる。
医療従事者の直郎としては、あまり良いことではないと分かっているのだが、残念ながら他の手段を選んではいられなかった。
「八津次、てめえはそれでいいのか」
肩を落とした鴉紋は、普段そびえるような長身が、一回り小さく見える。それでも平均よりずっと上背はあるのだが、彼を見知る者ほど、落差に驚かされた。
刹那、八津次の笑みが消える。
鴉紋は二律背反に打ちのめされながら、自分の信条に殉じようとしていた。裏切られたという狼狽と、その行動への理解、怒りとも憂いとも未分化な苦渋。
同じ女を愛した兄弟を、鴉紋もまた愛している。家族として、親友として――だが、同時に彼は共犯者であり、罪を犯す時に交わした約束を破った。
人を殺すという業を自ら背負うと決めた以上、なあなあでは許されない。
感情的にはどれほど殺したくなくとも、ここで処断しなければ自分たちの罪と釣り合いが取れないのだ。それは直郎にも痛いほど分かる。
「……命乞いを見たいわけではありません。ですが、八津次さんはなぜ、そんなに落ち着いておられるんですか。助かる算段があるわけでもないでしょう」
八津次は優しい男だ。今や人間であるかも怪しい裏巽すずめの相手をして、佐強のために体を張って。そして自分の愚かな自責に、血でもって付き合ってくれた。
直郎の左手にはまだ包帯が巻かれ、生爪を剥がされた指を隠している。佐強たちには、うっかり挟んだと説明してあった。だがこれは、八津次がつけた傷だ。
痛みが欲しいならいくらでもくれてやる、という有言実行。年下なのに、ひどく甘やかしてくれたものだ。元々そういう男だった。
佐強にも、こっそり過分なお小遣いを上げたり――そういえば、それがあったから、家出の際にあの子は八王子から滋賀までやってこれたのだ。
笑っていない八津次の顔は珍しい。呼吸を忘れたように固まって、生きたまま屍蝋にでもなったかのようだ。本当に、笑う以外の表情を知らないのだろう。
「これでいいんですか、八津次さん。まるで後悔なんてないように、さっぱりと死の宣告を受け容れて。鴉紋さんは意志を変えないでしょう。でも、あなたを殺すのは八王子に戻ってからでもいいはずです。佐強くんにだって、あなたが必要だ」
「も、いいんだよ、ナオちゃん。松羅のハッちゃんは、ここでお別れでーす」
八津次は笑った。いつものように、何でもないように。コンビニで投げ売りされていそうな安っぽく、変わった所のない、量産品のような笑顔で。
「ボクはさあ、大抵の他人はどーでもいいの。それ以外は憧れの作家とか、陶芸仲間とか、ボクのファンとか色々いるけど、本当に大事なのは、ナッちゃんや鴉紋ちゃん、ナオちゃんにサッちゃんだけ。じいちゃんも、ずいぶん昔に死んじゃったしね」
八津次と実家の仲が悪いという話は聞いたことがないから、そこまで関心がない、優先順位は高くないのだろう。
「でも、鴉紋ちゃんはボクを許せないし、殺すって言ったでしょ。大事な人に嫌われんの、ボクは無理。他の連中ならあっそう、って縁を切るだけなんだけど」
ふう、と八津次は嘆息した。この世でもうあと何度もしない呼吸。
「だから、これ以上ボクを嫌いになる前に殺して」
ああ、と鴉紋は低く音を発した。足元に置いたビニール袋から、錠剤の小瓶と鬼ころし一パック、そして八津次の持ち物だったサバイバルナイフを取り出す。
命じられるまでもなく開かれた口に、直郎はあらかじめ決めておいた量の錠剤を投じる。多すぎず少なすぎず、ただ深く眠れるように。
鴉紋がパック酒のストローを差し出すと、それも素直に口にふくむ。せめてものはなむけを、八津次は急がず遅すぎず、普段通りの速度で味わった。
月は徐々に夜天を巡りゆく。昨日と同じ明日は来ない、鴉紋たちの日々に、これから八津次は姿を消すのだ。その喉は、まだ生きている証にこくこくと上下する。
「ボク年下だからさ、鴉紋ちゃんやナオちゃんより長生きして、二人のことも食べてみたかったんだけどな」
薬が回るのを待つ間、八津次はいつもと変わらぬ調子でおしゃべりだった。
七宝焼のロケットペンダントを鴉紋の手で出してもらい、中に収めた那智子の写真にキスをする。七宝焼は、八津次が彼女の遺灰で作った逸品だ。
「ボクの体はペンダントさえ一緒なら、埋めるなり沈めるなり好きに始末してよ。ナッちゃんの時みたいに、
「バカ言え。〝赤観音〟の裏切り者でも、お前が家族なのは変わらねえ。そうだな、一口ぐらいは食ってやるから、それで我慢しろ」
八津次は「マジ?」と丸く目を見開き、嬉しそうに口端を釣り上げた。
「もちろんですよ」直郎も当然とばかりにうなずく。
那智子を食べた時から、三人とも暗黙の内に了解していたはずだ。この中の誰が、事によると佐強が命を落としても、その遺体は食べて弔おう、と。
「へえ~。じゃあボクの唇、もらってくれる?」
「分かった。生でも柔らかくて食べやすいし、上下二つあるから分けられるな」
鴉紋が大真面目に答えるのを見て、八津次はぶはっと吹きだした。
「いやいやいや、鴉紋ちゃん、今の言葉の並び変だって思わなかった?」
「あァ? 何がだ」
「うひゃひゃひゃ! 鴉紋ちゃんはさ、そういうピュアな所がいいよね」
八津次はダカダカと地面を蹴って大笑いだ。直郎もよく分かっていない。
「四十路の男に言うことかよ」
「いえ、鴉紋さんはピュアです」直郎は真剣な顔で同意する。
「だよねー」
「どういう意味だ、おい!」
鴉紋がいきり立って問いただそうとした時、八津次は大あくびした。薬が回ってきたらしい。別れの時は、もうすぐそこだ。
「はー……もう、思い残すことないや。うん、上々、上々。楽しかった!」
あまりにも湿り気がないカラリとした態度が、胸の内をざりざりとこする。
「大好きだよ、みんな……さっちゃんを、よろしくね」
その言葉を最後に、八津次はごろりと横たわり、すうすうと寝息を立て始めた。しばらく待った後、鴉紋はその頬をつねって直郎に確認する。
がんかじの障りは起きない。完全に、眠りに落ちた。
直郎は八津次の背中を支えて起こし、顎を持ち上げる。以前、のとさまに祟られた彼の腹を裂いた一件から、鴉紋は自分が手を汚すと宣言していた。
鞘から抜き放たれた刃が、月光を青白く照り返す。冥府の灯だ。
月明かりと懐中電灯の薄暗がりに、白く浮かび上がった喉は温かく、まだ呼吸していた。尖った金属はためらいを見せることなく、すっと埋められていく。
血が大地に向かってほとばしった。
黒く見える血溜まりには命が流れ続け、波打つのをやめない。耳を澄ませば虫の声や葉ずれに混ざって、トクトクと音が聞こえそうだ。
鴉紋も、直郎も、傷口から血が流れなくなってからしばらく動けなかった。眠りに落ちた八津次の体は力が抜けて重かったが、死体の重量は、明らかに質が違う。
睡眠中でも活動している不随意運動のすべてが停止して、それは松羅八津次という人格を持った体ではなく、単なる物体と化していた。
これを選んだのは自分たちだ。本人もそれを受け容れた。それでも、なぜこうなってしまったのかと、自問の雨が降り止むわけではない。
これが人の道を外れたお前たちの業だと、のしかかった雨雲が頭上から睨みつける。愚かさの代償は、こうして付きまとうものだ。
だが、ここで八津次を許してしまう更なる堕落は、三人とも選べなかった。
「唇を、もらってやるんだったな」
ぽつりと鴉紋が言って、直郎はようやく八津次だったものを下ろす。刃について固まった血を落とし、鴉紋は丁寧に丁寧に唇を切り取った。まずは下唇、次に上唇。
口を切り取られた人間の顔は、なんとも形容しがたい。まだしっとりと血に濡れたそれを、二人は同時に頬ばった。さほど生臭くはないが、血の味がするばかりだ。
◆
死体を埋めて裏巽家に戻ったころには、朝の四時になろうとしていた。
地面に穴を掘っている間は、自分たちはいったい何をしているのかと、虚無感で頭がおかしくなりそうだったが、今は休みたい。
だがその前に、土汚れや証拠品の処分という仕事が残っている……そう考えながら、鴉紋は勝手口を開けた。
「おっかえりー。遅かったね、二人とも~。穴がんばって掘りすぎたんじゃない?」
底抜けに陽気な声が出迎える。十七年耳になじんだ、低めでややハスキーな声質を甘ったるく発音した……もう二度と、聞くはずのないものだ。
「あれ? どしたの、二人とも。幽霊でも見たみたいな顔しちゃって。えっへへ」
昼間見たのと同じシャツにズボン。特徴的な青い髪に、アイドル候補生がそのまま大人になったような、安っぽく胡散臭い整った顔立ち。
鴉紋は反射的に扉を閉め、車へ向かって駆けだした。直郎も黙ってそれに習う。そんなバカな。そんなバカなことが、あってたまるか。
森へ引き返し、二人で土を掘り返すのはあまりにも滑稽だった。人生は笑えない喜劇だ、それは人の心を抉る。だから、できるだけ人間は笑うべきだ。
そう言ったのは八津次本人だった。
今では唇のなくなった顔で、土の中に埋まっている。肩で息をつきながら、鴉紋と直郎はそれを確認した。ひどい頭痛がする。
「てめえは誰だ! 八津次に化けやがって!」
再三裏巽家に戻り、なおも勝手口で待っていたそれに、鴉紋はつかみかかった。髪を引っ張るとそれは地毛で、ウィッグでも何でもない。
直郎が持っていた使鬼銭を当てたが、古銭は無反応だ。
「ごうやふとりか?」
行き会った者の姿を盗み取る
「ボクはボクだよ。何もおかしなことなんてない。ナッちゃんとのなれそめも、鴉紋ちゃんナオちゃんと顔合わせした時のことも、ナッちゃんと鴉紋ちゃん三人でした時のことも、ぜーんぶ……覚えている」
八津次ではない
その姿が目の前で、人魚に穢されている。
これが業か、報いか。人を殺し、愛した女を喰らった、その罪の果てが。
「ボクらはもう、十年前にナッちゃんを食べたじゃん。みんなその時に運命は決まったの。人魚はみすらさまが下賜された命そのもの。それを受け取ったってことは、みんなもう、みすらさまの眷属なんだよ?」
「だから、さ。みんなでいっしょに、ここで暮らそうよ?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます