終ノ滴 みすらおがみの、神。

みそあまりみつ 手は遅れ、足は届かない

♭ ~~~~~~ 𝅘𝅥𝅮~𝅘𝅥𝅮~𝅘𝅥𝅮~𝅗𝅥~

♭♭~♫ 𝅗𝅥 ~~つきの~𝅘𝅥𝅮~~~~さばくを


 雨のように、ぽとりと音が落ちる。きらきらした音色に誘われるように、佐強の意識はこれまで思い出しもしなかった、古い記憶へとたどり着いた。

 十七歳の時と七歳の時では、同じ神社でもまったく違って見える。境内はどこまでも広く、生い茂る木々は何百年も生き抜いたようで、神話の世界が面影を残していた。睡蓮の着物を着た母に手を引かれ、佐強は見よう見まねでお参りする。


「ここは、龍の神さまがいるんですって」

「りゅうって、ドラゴンだよね。かっこいい!」


 佐強は東洋の龍ではなく、手があって足があって火を吹くそれを想像した。しゃわしゃわしゃわと蝉が鳴き、木陰で涼んだ空気が心地よく吹きつけてくる。


𝄽~~~𝅗𝅥.~~~~~~~

~♫~~は~る~~~🎝~𝅗𝅥~ばると~


「雨や雪を降らす神さま、って書いてあるわ」


 母、那智子なちこは拝殿近くの由緒書きをしげしげと眺めていた。


「なんだかロマンチックね。人魚のお話は、少し悲しいけれど」

「ニンギョ?」

「この神さまは、人間との間に、綺麗な人魚姫を産んだそうよ」


 ドラゴンに人魚。そういうものが、観光地? で大真面目に説明されているとは、普段触れているゲームや漫画の世界が、現実に出てきたようで佐強は少しワクワクする。でも、少し悲しいお話らしい。

 そういえば、また母との二人旅だ。父たちはそれぞれが忙しいから、全員で旅行に行けたのは、五歳の時の鳥取砂丘が一回切りだった。


𝄽 ~~~~♩~♩~~~~𝄽~~~~~~~~~

~♫~𝅗𝅥たびの~~~♫~𝅗𝅥らくだが~~~~♫~𝅗𝅥.ゆ~き~~~🎝~𝅗𝅥ました~


 那智子は砂漠が好きで、でも日本にはないから砂丘を、という計らいで。

 母が本当に行きたかったのは「沙漠」、海辺の広い広い砂浜だったと言っていたけれど、旅行はとても楽しかった。そう、月の沙漠。彼女はその歌がとても好きで。


「観光客の方ですか?」


 竹箒を持った眼鏡のお兄さんが、話しかけてきた。小学校の上級生や、中学生よりずっと大人びている。きっと高校生だ。でも、あまり怖い感じはしない。

 母と彼がどんな話をしていたのか、佐強はあまり覚えてはいなかった。


「僕、ここの神社の息子なんです」


 だからお手伝いしているんだ、と佐強は納得する。じゃあこの人は、ドラゴンや人魚を信じているのだろうか。佐強は少年に興味を抱き、めいっぱい背をのばした。


「オレ、小田島おだじまサキョウ。トーキョーからきたの。おにいちゃんは?」

「僕は裏巽うらたつみ信多郎しんたろう


 ニコリと笑った顔は愛想が良くて、反射的にいい人なんだろうなと思った気がする。これが十年前なら、当時の彼は十八歳ほどか。


――ですから、佐強さきょうくんの両手は祟りでも呪いでもなく、信多郎さんが自ら捧げたと考えるべきです。

――信多郎さんは最終的に、わたしたちを殺したいのでしょう。


 直郎ちょくろうの声を、夢うつつに思い出す。

 神隠しに遭ったすずめちゃんを助ける、それはいい。けれど、そのためにあの人がこんな酷いことをするなんて、と佐強はまだ半信半疑だ。

 けれど、今はどうだろうか。夢の中だからイメージは歪み、誇張されている。それでも、母が死ぬ数時間前、境内で出会った信多郎は。

 眼鏡の奥の瞳は、笑っていただろうか。それとも、獲物を見る眼をしていただろうか。分からない。彼は、この出会いを覚えていないかもしれない。


「……ん」


 ふと、何か温かみのあるものが消えた気がして、佐強は目を覚ました。

 枕元に白いものが転がっている。ラクダに乗った王子さまと、お姫さまの陶磁器人形が、円形の台座に乗っていた。


(とーちゃんのオルゴール?)


 何気なくを伸ばすと、それはふっと宙に浮かび上がった。あれっと首を傾げて、「持ててる!?」佐強はオルゴールを放り出しかけ、持ち直した。

 人間、手足を失うとしばらくは幻肢げんしつうというものに悩まされるそうだが、佐強にその症状は出ていない。目には見えないし、ほとんどの物は触れないが、腕も手首も指先もちゃんと感覚がある。気持ちが悪いと言えば、気持ちが悪い。

 触れて動かせるのは、神具の蝋燭、鈴、使鬼銭だけ。だが。


「なんで……持ち上げられてんの、コレ」


 手のひらの中に、きっちりと重量を感じる。

 このオルゴールは、八津次はつじが那智子の好きな『月の沙漠』が入ったものを、手製の人形で飾りつけてプレゼントしたものだ。霊的なアイテムなわけがない。


 もしかしてと、ない手のない指でつまみを回すと、キリキリと回転する。なぜこれがここにあるのか、なぜ急に触れるようになったのか、さっぱり分からない。

 何度も聞いたことのあるメロディが流れ出した。


♭ ~~~~~~ 𝅘𝅥𝅮~𝅘𝅥𝅮~𝅘𝅥𝅮~𝅗𝅥~ 𝄽~~~𝅗𝅥.~~~~~~

♭♭~♫ 𝅗𝅥 ~~つきの~𝅘𝅥𝅮~~~~さばくを~~♫~~に~~~~🎝~𝅗𝅥~げ~て


「んっ?」


 様子がおかしい。


𝄽 ~~~~♩~♩~~~~𝄽~~~~~~~~~

~♫~𝅗𝅥にげて~~♫~𝅗𝅥にげて~~~~♫~𝅗𝅥.はやく~~~🎝~𝅗𝅥にげて


「……とーちゃん?」


 オルゴール本来のメロディに混じって、八津次の声が聞こえた。か細いが、気のせいと言うにはハッキリとしすぎている。

 時計を確認すると、もうすぐ朝の五時だ。今、直郎はに、鴉紋あもんにそれぞれ目をつけられている。八津次の身にも何か起きたのか。


 居ても立ってもおられず、佐強はベッドを出た。両手がない状態での着替えは面倒なので、最近は明日着る用のシャツとズボンを寝巻きにしている。

 オルゴールを回すと、今度は何も言わない。以前、八津次には蝋燭にタッチペンをくくりつけてもらった(信多郎はちょっと嫌そうだった)。


 これでスマホを操作して、父たちから連絡か何かがないか確認する。いや、その前に階下が騒がしい。誰か、複数人が大声で怒鳴って、ドタバタと暴れている?

 階段を駆け上る音に、佐強の心臓がぎゅっと跳ね上がった。八津次が逃げろと言っていたものか? 洋間のドアを開けたのは鴉紋だ。青ざめた表情。


「佐強、起きていたか! この家を出る!」


 問答無用で、鴉紋は息子を担ぎ上げた。後から入ってきた直郎が、寝る前にまとめておいた荷物を持つ。二人とも汗と土の匂いがした。それに。


(……血のにおい?)


 胸の奥、神経の通った草がしげる野原が広がって、その一つ一つが不安の風にざわっと震える。また自分が知らない間に、何か恐ろしいことが起きているのだ。

 おぉぉぉん……と、窓の外から聞いたことがない獣の吠え声がする。あれは何だ。獅子よりも虎よりも、大きく獰猛な肉食獣をイメージする。

 そういえば、父たちが翠良みすら尾瀬おぜに来た日、巨大な犬の頭が三つ落ちてきて、すぐ消えた。あれがまだ生きていたならば、こんな声を出すかもしれない。


「あらら、こんな朝早くにたたき起こしちゃって」


 廊下に、見慣れた青い頭が立っていた。


「とーちゃ、」

「そいつは八津次じゃねえ!」


 鴉紋は今までになく切迫した叫びを上げる。


「あいつは……俺たちが今夜、殺して埋めた。さっき死体も確認してきたが、間違いなく死んでいたんだ」

「は」


 なんだそれは。何を言っている。佐強には何一つ話が見えない。オルゴールは? また響く外の吠え声は? なぜ父たち同士が殺し合っている?


来足きたりさんの死も、生口いたこ家の放火も、犯人は八津次さんでした」

「え、ぇ、でも」


 直郎はじくじくと血を流す傷口を押さえるように、努めて激情をこらえた調子で説明した。それらの言葉は、すんなりと佐強の腑に落ちない。

 殺した。死んだ。埋めた。単語の一つがゴロゴロと石のように硬く、ほどけるのを拒んで、吐き出してしまいそうだ。

 言の葉は骨格だ。それを元に示された事象を想像し、事実として受け止める。だが、今はそれをしたくない、考えたくない。


「屋敷を出たいなら出たいでいーよ? どうせキミたち、誰も逃げらんないからね」


 はいつにない、ニチャリと粘着質な笑みを浮かべた。ああ、これは、そう、自分が知る父ではない。佐強がそう思うには充分な、いやらしさで。


「サッちゃんを助けるため人魚を狩るか、オヤカタサマを殺すか、鴉紋ちゃんとナオちゃんが命を捧げるか……そのどれかしかない。ボクのオススメは三つ目。対価としては一番確実だし、どっちみち寿命が来たら、二人ともみすらさまの〝眷属〟だ」


 どすん、と八津次が立つ廊下の奥から、重々しい足音が響く。熊でも入ってきたのかと思うような、屋敷全体が軋むほどの大きな気配。

 何かがいる。だがコイツ相手に背を見せるのも得策とは思えない。三人はその場に釘付けになったまま、の話を聞くことになった。


「眷属とは家来、という意味ですよね」直郎が確認する。「神のしもべと言い換えるなら、信徒ということになる。わたしたちは、龍神を信仰した覚えはありません」

「汝らすでに直会なおらいに加わりし」


 八津次がこれまでしたことがない言葉遣いだ。

 直会とは神道の儀式で、神前に米と酒を供えて神事を執り行った後、供物のお下がりを参加者全員で分け合って飲み食いすることである。

 神人しんじん共食きょうしょく――神と人とが共に同じものを食べ、加護を授かるための。


「確かにナオちゃんは、耶蘇やその洗礼を正式に受けている。でも、それだけじゃ弱い……ってか、自分で信心棄てたでしょ? 中途半端にだけど、棄教は棄教だよ。キミたちは十年前、人魚実にんぎょざね・小田島那智子の血肉を受けた。それでもう資格は充分」


 は腰の後ろからナイフを抜いた。彼の背後でみしみし、ギシギシと、何かが軋みを上げて近づいてくる。


「まぁ翠良尾瀬を離れていたから、みすらさまのご威光も届かなかったんだけどね。キミたち、の名前を使って、悪人を殺してたでしょ。おかげであいつは、キミたちを自分の眷属候補って勘違いしちゃった」


 は悪人を喰らう――だからその祠には、しばしばこれを罰してくれ、という被害者の訴えが届けられた。実際、鴉紋たちはターゲットを見繕う際、それを参考にしていた。そして、標的は確かに悪人ぞろいだったのだろう。


「みすらさまとの格の違いも分からず、ノコノコ奪いに来て、ホント、バカだね~。知っての通り、犬っコロは打ち殺されて、空から落ちてきたってワケだ」


 ぐるるる……と、押しつぶしたような、憎々しげなうなりがした。地の底から響いて、ふわりと胃を浮かび上がらせる、巨大な獣の声。

 佐強はいつか見た動物園の虎を思い出した。柵の中と外は遙かに隔てられ、美しい縞模様の体は遠かったが、とても「大きい」のは伝わってくる。

 骨の一本一本、それを包む筋肉も脂肪も皮も、人間とはまるで規格の違う存在。あんなのと間近で出くわしたら、死を覚悟するしかないだろうと思った。

 それが、今目の前に現れる。


「今じゃこいつも、使いっ走りだよ」


 牛の体ほどもある巨大な犬の頭。

 毛並みは血で固まったように赤黒く、廊下にこぼれるよだれは、びしゃびしゃと湯涌で振りまくようだ。夏の夜でさえ吐息は白くけぶり、熱い蒸気じみていた。

 以前との違いは、巨大な狐面で口から上を隠していることだ。そのデザインが、かつて八津次が地下拷問室で被っていたものと同じだと、佐強は知るよしもない。



 すでに人魚狩りの期限は二十夜を切っている。早朝、八月十四日。

 宇生方うぶかた鴉紋の写し身を得たが現れたのが昨日の夕方、今度は松羅まつら八津次がみすらの眷属として出現した。ついに彼らは、自分たちで仲間を殺したのだ。


「ふ、ふ」


 信多郎は祭壇の前で忍び笑いする。

 今まで思うようにいかなかったが、ついに事が上手く運び始めた。八津次がオヤカタサマを殺し始めたのは望ましい展開だが、思ったより早く阻止されてしまった。

 だが、その代わりの仲間殺し。これは良い。とても良い。


 あの人でなしどもも、無辜むこの人間を殺すことは許せなかったと見える。信多郎からすれば滑稽な限りだが、とことん都合が良かった。

 彼らはきっと、これが自分を利すると分かった上で、そうせざるを得なかったのだろう。おあいにくさま、お前たちはもう終わりだ。


 祭壇の前には三つの紙人形が置いてある。それぞれ宇生方鴉紋、世直郎、松羅八津次の名がつけてあった――呪詛の道具だ。信多郎はいつもこれを持ち歩いている。

 視力を失った身で文字を書くことはできなかった。彼らの毛髪を拾って仕込む、などと器用なことも。だから信多郎は名前だけつけ、念を込めた。

 おかげでそれは霊的な実体を持ち、一つ一つ視認できる。


 八津次が勝手にに突っこんでいった時は驚いたが、が直郎に目をつけたのも、鴉紋がに憑かれたのも、偶然ではない。

 すべては呪詛による誘導。いや、魔導とでも言うべきか。

 彼らはそれぞれに強いが、呪術についてはまるで警戒心がない。松羅八津次だけは妙に勘が良く、ほとほと悩まされたが、ついに排除できた。


 裏巽家では代々、神職を継ぐ者にだけ発現する能力がある。それは、こと。も、も、人魚實にんぎょざねも、すべてお見通しだ。

 十年前、神社の境内で掃除をしていて、あの母子に出会った時から、信多郎は二人が人魚の血筋であることに気がついていた。


 不思議だったのは、佐強が〝生まれついての人魚〟と同等の濃い血の匂いを放っていたことだ。どうしたものかと父に相談すると、彼は裏巽市子いちこのことを話してくれた。きっと母親は市子の娘で、男の子は孫なのだろうと。

 そこから先は、言われずとも分かった。市子伯母さんにはきっと息子がいて、それがあの子の父親なのだ。でなければ、あんなに人魚に近くは生まれない。


「そっとしておいてやりなさい」


 父に言われた時、信多郎にも反発はなかった。なぜ市子伯母さんが村を出たのかは、正直よく分かっていない。

 だが、母子を連れ戻す権利が自分たちにあるとも思えなかった。そう、こんな村、帰って来ない方が良いのだ。それがひっくり返ったのが、すずめの神隠しだ。


 あの子はもう、死んでいる。


――あかかおん!


「……始まったなあ」


 愚かにもみすらさまに挑み、殺され、下僕となった地方の怪駄物けだもの。せいぜい、役に立ってくれ。信多郎はくつくつと、笑いを堪えきれなかった。

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