みそあまりよつ ごうが現世へまろび出る

 屋敷で何か起きているが、それを確かめに行く勇気はない。願施崎がぜざき志馬しまは布団にくるまったまま、体を丸めてことが過ぎ去るのをひたすら待ち続けた。

 父がおかしくなって近所の人々を殺傷し、そのまま命を絶ったのが五日前。母は入院してから音沙汰がなく、親戚は翠良みすら尾瀬おぜから遠い大津おおつにいる。


 だから今は裏巽うらたつみ家に居候しているが、警察の聴取に応じ、佐強さきょうと少し話した以外は、ずっと部屋にこもりきりだ。

 赤い雨が降った日から、徐々に歯車は狂っていった。〝拝み屋〟がやって来た時はワクワクしたが、思い返すとバカみたいだ。自分はただの野次馬だった。

 同じ村で起きていることなのに、他人事の物見遊山で。


 日を追うごとに、裏巽家には何かピリピリした空気が張りつめていた。来足きたり老人の死も、生口いたこ家の放火も、志馬にまで届いてくる。

 自分が知らないだけで、ここにはどれほど悲惨な事件が起きているのか。必死で耳を塞いでいるのに、今夜はついに屋敷内で騒ぎが起きている。

 階下で争う物音がし、大人たちが慌ただしく二階に上がってくるのが分かった。問題はその後だ。得体の知れない何か、巨大な獣のようなものが、数部屋先にいる。


 山あいの集落である翠良尾瀬には、動物が多い。

 志馬が通っていた翠良尾瀬中学には、大型犬ほどの小さな熊の剥製が、玄関に飾ってあった。山から下りてきて、猟師に撃ち殺されでもしたのだろう。

 学校の裏手には山と、授業の一環で生徒が世話している畑があった。そのあたりによく猿が出て、廊下の窓からでも姿が見えたものだ。


 鹿やイノシシと激突して車が壊されることはよくあったし、知り合いが山で迷って狐を見たと言ったこともある。村内には、牛やイノシシの牧場もあったりして。

 佐強がいた八王子はどうだか知らないが、ここで育てば動物が近いものだ。


 だが、屋敷の二階にいる何かは、志馬が知るどの獣とも違っていた。離れていても、強烈な獣臭さと巨体の存在感、そして凶猛な気配がただよってくる。

 熊も虎もこんな所にいるはずがないのに、思い浮かべるどの肉食獣とも違う、得体の知れない何か。それが志馬には恐ろしくてたまらない。


――あかかおん!


 人とも獣ともつかない咆哮に、跳ねる関節と縮み上がる筋肉が衝突して、志馬はギクリと震えた。何か争っている様子だ。そしてガラスや壁が割れる破砕音。

 猛スピードで車が出て行く。それを最後に、夜の――いや、時間的にはもう夜が明けておかしくない時間だが、外は不思議に暗い――静寂が戻ってきた。


 布団の中は自分自身の熱がこもっている。

 それは生の証ではなく、死に損ないがすがりつく体温と汗の混合物で、不快な感覚だった。そう感じていても、志馬はまだ柔らかい穴蔵を抜け出せない。

 ここが世界一安全だとは思っていなかったが、今以上悪くなることはないだろう。だから何も見えない、聞こえない振りをして、汗にまみれながら息を殺す。


「志馬くん」


 あの咆哮からそう間を置かなかっただろうが、志馬にとっては何時間も経ったように思えたころ。部屋の外から、平穏な声がした。家主の信多郎しんたろうだ。


「志馬くん、起きてるやんな起きているよね?」


 静かで抑えた口調。信多郎は小学校の教師で、代々続くみすらおがみ神社の神主でもある。今は祟りで失明してしまったが、拝み屋を呼んで村の異変に対処していた。

 さっきの恐ろしいものは、この人と拝み屋が何とかしてくれたのだろう。布団からやっとの思いで顔を出し、返事をすると「は、はい」とかすれていた。


「……佐強は、大丈夫ですか」

「うん、無事やで。部屋の前にお金とお弁当置いとくさかい、志馬くんは朝一番で駅へ行きい。今やったら始発に間に合うから、急いで翠良尾瀬を離れるんや」


 それは、その言葉の意味は。


「翠良尾瀬はもう終わりや」


 何が起きたか訊ねようとしたが、言葉が出ない。自分の殻に閉じこもっていた身に、今さらそれを問いただせる資格もないだろう。いや、違う、知りたくない。

 村では今、死ぬよりもひどい事が起きている。人間には不可能な無惨さが、化け物の手で野放図にまき散らされて。志馬は父のように狂いたくはなかった。


「君はまだ若いし、間に合う。必ず逃げるんやで」


 遠ざかっていく信多郎の足音に、志馬は「ありがとう、ございます……」と小さく絞り出すので精いっぱいだった。もうここにはいられない。

 大津の親戚宅に向かうため、志馬は身支度を始めた。



 狐面を被ったは、胴も足もない頭だけで障子を壊し、壁を抉りながら佐強たちへ迫った。どうやってか、の脇は器用にすり抜ける。

 鼻を殴りつける生臭さを前に、佐強は存在しない手に使鬼銭を握った。それなりに運動はしているが、特別筋トレをしているわけでもない自分は、腕っ節は強くない。

 だが神具の力だろうか。それは狙いあやまたず獣の眉間をうがった。古銭は一瞬、夜の闇を圧するほど黄金色に輝いて、ぶしゅっと黒煙を上げる。


「舌噛むなよ、佐強!」


 鴉紋あもんは広縁の窓を蹴破り、息子を抱えて飛び出した。間を置かず直郎ちょくろうもそれに続き、地を転がって勢いを殺す。二人はずっと土まみれだ。

 庭へ降りてなおも迫ろうとする巨犬の首に、直郎はありったけの使鬼銭を投げつけた。神具と違って量産されたお守りだが、数を打てば効くらしい。


 鴉紋は全員が乗りこんだのを確認して、車を急発進させた。助手席の佐強はぐんっとGに押さえつけられながら、遠ざかる裏巽家を見る。の姿は消えていた。


 八津次はつじの殺人、鴉紋と直郎の制裁、龍神に乗っ取られて姿を現した、もう一人の八津次。そして信多郎の企み。何もかも佐強のキャパオーバーだ。

 どん底は何度でも、何度でも底が抜ける。

 沈みゆく佐強の思考を遮ったのは、ぱきん、という軽く硬質な音だった。胸元で抱えていた八津次のオルゴール、陶磁器で出来た王子さまの首が割れて落ちる。


 どろりと、断面から真っ赤な血が流れ出した。ぎょっとしてしまうが、よく見ると人形の中に見慣れた緑色が入っている。

 使鬼銭を握った「無い手」で持ち上げると、それは予想通り、翡翠で出来た神具の鈴だった。使鬼銭と蝋燭はちゃんと持ってきているが、鈴のことは忘れていた。


「なんでコイツがここに?」


 運転している鴉紋が横目でこちらを見やり、後部座席から直郎が覗きこむ。


「八津次さんのオルゴールですね。佐強くん、持ってきていたんですか」

「うん、無意識に。てか、目が覚めた時、枕元にあったんだよ」


 鈴を取り出すと、血は消えていた。だから父たちの目には入らなかったのかもしれない。神具があったから、両手のない自分にも触れたのだろうか? 妙だ。


「これ、一から作り直さないと鈴なんて入らないよね。オレが触れるから、よく似た別物じゃなくて、やっぱり神具なんだろうし」


 佐強は二人の前でオルゴールのネジを巻いた。『月の沙漠』のメロディが流れ出すが、今度は八津次の声が混ざるようなことはなかった。

 彼は死んだ今も、見守ってくれているのだろうか。いや、そもそも偽物の自分が現れて好き勝手しているなら、今ごろ滅茶苦茶暴れているはずだ。


「とーちゃんは、死んでもとーちゃんだなあ……」


 佐強の頭はまだ混乱のさなかだが、松羅まつら八津次は死んだのだ、という事実が自然と染み渡る。見守られている、その実感が、すとんと腹に落ちて。

 オルゴールからの声は、本来、生きている人間があまり聞いてはいけないものなのだろう。けれど、死者のまなざしがそこにあるならば。


 佐強はオルゴールを抱えて嗚咽した。



『ホテルにゅ~ぅ、あ~わ~じ♪』


 テレビが何十年も聞き慣れたCMを流している。棗ヶ岡なつめがおか保文やすふみは朝のお務めを終えて、家族が待つ食堂へ入った。朝食は白飯と味噌汁、それに納豆と決めている。

 畳の和室に座卓を置いて、純和食が並ぶ景色は何十年見ても良いものだ。今日は文字通り暗雲が立ちこめて、朝とは思えない天気だが、仕事は待ってくれない。


 家族は父の喜多治きたじ、還暦を過ぎた妻の準子じゅんこ、上の息子の兼武かねたけは保文が経営する建設会社の専務で、下の息子は京都で働いており、最近婚約の報告を受けた。

 そして兼武の妻・万里まりと、去年生まれたばかりの孫娘の百合ゆり。保文を入れて六人が集う食卓は、なぜか一人多い。


「お邪魔しています、棗ヶ岡さん」


 いぶりがっこを茶請けに、ほうじ茶を出されているのは、最近何かと話題になっている拝み屋のリーダーだ。いつ見ても俳優のような、文句のつけようがない男前。

 同性で年上の保文でさえ、人間などという生ものが、こうも彫刻のように繊細な造作を持つということに驚かされる。そして筋骨隆々とたくましい長身。


「おや、宇生方うぶかたさんでしたか。何かご用で?」


 最近、妻と嫁がこの男の話題できゃぴきゃぴしているのは正直面白くない。

 が、実際に対面すると芸能人と同じぐらい遠い存在なのだな、ということが分かって、嫉妬するのも馬鹿馬鹿しい。まったく、二人とも熱い視線を送りよって。


 今日は三つ揃いのスーツに黒いコートを羽織ったままで、真夏によくこんな恰好が出来るなと思う。「我が家の日常」というホームビデオのフィルムに……最近はフィルムではないか……、映画の一コマを接続されたような気分だ。


「宇生方。宇生方と俺を呼んだな?」


 男は奇妙なことを言い出した。名前を間違えただろうか。


「えっ。勘違いしていたら申し訳ありません、宇生方……鴉紋さん、ですよね?」


 そうだそうだ、と妻と嫁が自信たっぷり同調する。


「ああ、俺は、宇生方鴉紋だ。そうなった」


 す、と男は隣の準子に向けて片手を伸ばした。手には黒い塊が握られていて、ばん、と乾いた音がする。妻は味噌汁の椀を巻きこんで倒れた。

 シンプルな凶器を、保文の脳はそんなバカな、と理解を拒んだ。


(おい準子、どれだけ入れ込んでいるか知らないが、こいつといっしょになって『銃で撃たれました』ごっこなんて、やめなさい。いい歳して恥ずかしいな)


 男は立ち上がって、喜多治に、万里に、兼武に、何のためらいもなく銃弾を撃ちこんでいく。思いのほか軽い響きの中、ごく一瞬激しく重い物が炸裂する発砲音。

 ごっこではない。皆撃たれた所がザクロのように抉れて。血を、ああ。

 猟銃なら目にしたことがあったが、それは映画やテレビの中でしか知らない。そんなものが自分の家で、無差別にぶっ放されるのか。なぜだ。


 味噌と出汁の温かな匂いが、焼き鮭の香ばしさが、白米の甘い香りが、血臭に濁ってく。孫娘がぎゃあああん、と泣き出し、保文はとっさに覆い被さった。

 何一つ分からないが、やるべきことだけはハッキリしている。


「この子だけは見逃してくれ!」

「心配しなくても、殺しやしねえよ」


 熱を持った硬い金属が後頭部に当たり、保文の意識を吹き飛ばした。後には銃声の余韻と、泣き叫ぶ子供の声だけ。

 まあこんな所で良いだろう、と、宇生方鴉紋の姿を盗んだは満足した。自分には、生きたものを殺すことができない。

 傷つけることは可能だが、それは決して対象を死に至らしめることができない、そのような摂理を定められている。


 どんなに致命傷にしか見えなくとも、相手は傷相応の後遺症を抱えながら、残りの人生を過ごすのだ。それは、なまじ死んでしまうよりも辛いことになるだろう。

 頭を撃たれたなら脳障害か、失明か。元の人格や知性を維持し続けられるのか。臓器の損傷であれば、人工心肺や人工肛門。それでも生き続けなければならない。


 ただし、は一人だけ生者を殺すことが出来る。

 それは姿形を盗み取った元の相手、この場合は宇生方鴉紋だ。自分のドッペルゲンガーに出会った者は死ぬ、と相場が決まっているように。


「肉体があるってのは、いいもんだ」


 拳銃を懐に戻し、は笑った。写し身たる己は、かつて宇生方鴉紋が扱ったものであれば、どんな道具でも取り出せる。

 今のは自動式拳銃オートマチックSIGシグ SAUERザウエル P230の32口径。装填数八発(+一発)をすべて使い尽くしたが、弾倉はいつでも満タンにできた。

 面白いのは、この体は種々の凶器、拷問具の使った経験があることだ。実に都合が良い。宇生方鴉紋本人と対峙した時、勝つのは自分だ。


「なあ、愛夢あいむ?」


 部屋の入り口に黒髪の少女が立っていた。宇生方愛夢、十三歳で死んだ鴉紋の妹、その写し身。正確に言えば、鴉紋の思い出から構成された人形が。

 長く黒い髪に、青白い肌と白いワンピース。幻のごとく、儚く幽玄の美をまとっている彼女は、夜光塗料のようなほの暗い笑みを灯した。


「うん、お兄ちゃんならきっと勝てる」


 滋賀方言ではオバケのことを「がお」と言うが、翠良尾瀬や京都府の一部では「ごう」となまる。そこにあてられる漢字はない。

 お化怪ばけ、すだま、魑魅魍魎。名付けることもできない、曖昧な何か。とは、そういうものだ。人魚實にんぎょざねであることは確かだが、定まった形がない。

 それは水子のの在り方に似ているようでまた異なる。姿を盗み取った相手を殺すことで、より人魚として上の段階へ進むのだ。


 鴉紋の姿をしたが棗ヶ岡家を引き払うと共に、次がやってきた。彼らはオヤカタサマの一、人魚実の一族だ。

 その命は龍神みすらへの供物となる。怪異や呪いに人間は殺せない、殺さないが、神の命を受けた眷属はその限りではない。

 は、棗ヶ岡家の人々にトドメを刺して回った。


 虐殺は始まったばかりだ。

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