みそあまりいつつ 業の結実と愛の結晶

 鴉紋あもんたちはいったん翠良みすら尾瀬おぜを離れ、神島かみしま市北端の剣熊けんくまでホテルに駆けこんだ。安泉川あずみがわや神島(旧神島町)では村と近すぎる。

 父たちは土まみれで、そのままではうろつくのに不便だ。食事や休憩はもちろん、次から次へと色々な出来事が押し寄せて、整理する時間が必要だった。


「豆もミルも置いてきちまった」とぼやきながら、カフェテリアのコーヒーを飲む鴉紋はいつも通りだが、やっと人心地がついた、ということでもある。

 龍神みすらの力は、おそらく神島市全体にまでは及んでいないはずだ。村内であればどこでを殺しても、それは神の元へ還る。だが市内はそうではない。


 そして、佐強さきょうは村を出てから体が軽くなっているのを感じた。海底から水面へ浮上したような、爆弾低気圧が過ぎ去ったような、何らかの圧力からの解放。

 気のせいかもしれないが、やはりあの村は普通ではない。戻らない、という選択肢はなかった。今日は八月十四日、人魚狩りの期限まであと十九夜しかない。


「状況を整理しましょう」


 食事を終えて部屋に戻ると、直郎は切り出した。あまり愉快とは言えない表情だったが、佐強が知る限り良いニュースなどほとんどない。

 室内はなんともうらぶれた物だった。

 二脚の小さな椅子とテーブル、二人がけのソファ。タイル張りの床に敷かれたカーペットは古くさく、隅は薄汚れている。壁にはへこみや、こすれた傷があった。


裏巽うらたつみ信多郎しんたろうは、少なくともわたしと鴉紋さんの命を狙っている。オヤカタサマのように強く人魚の血を引く家々も。彼は子供を殺したくないと言っていましたが、人魚の孫にあたる佐強くんは、特に生け贄として重く見ていると考えます」


 直郎の表情は、学会で発表をする時のような淡々と真剣な面持ちだ。もちろん佐強はそんな姿を目にしたことはないが、努めて事務的であるには違いない。

 あまり防音は良くないのか、階上で子供がはしゃぎ回るような音がする。


「目的の一つである八津次はつじさんの死は、わたしたちの手でもたらされました。彼が裏巽信多郎の提案に乗って、来足きたり有長ありなが生口いたこ家の人々を殺害したからです。わたしたちは〝赤観音〟の名で、これと見定めた悪人を十年、殺害してきました」


 鴉紋、直郎、八津次。三人の父親が殺人鬼であるという事実を、佐強はこの二十日ほど無視し続けていた。両手を失い、祟りだ呪いだと忙しかったのを口実にだ。

 けれど、もはや逃げることは許されない。向き合う時が来た。

 最初の殺人は、母・那智子なちこの身に起きた惨劇の仇討ち。その後も続けているのは、それぞれの憎悪。鴉紋は妹の件で性犯罪者を憎み、直郎は児童虐待者を憎む。

 ふっと佐強は伏せていた目を上げた。


「そういえば、さ。とーちゃんって、最初の一回以外、なんで共犯やっていたの」

「〝理由なんてない〟と言っていましたよ。一度乗りかかった船、兄弟のすることだから、今さら一抜けたはしない、と」


 じゃあ、と失望の嘆息がもれる。


「とーちゃんには殺す理由も、殺さない理由もなかったから、こんなことになっちゃったんだ。ひでえよ。そんなこと十年も続けて、すっかりマヒしちゃってさ」

「お前の言う通りだ」鴉紋は膝の上で両手を組み合わせた。「……あいつは、仲間外れなんざ、まっぴらごめんだったろうが。それでも、俺たちが間違っていた」


 だからそのツケをここで払うことになった。祟りは報いで呪いは業ならば、今、そのすべてが翠良尾瀬で精算されようとしている。


「問題は、死んだ八津次さんの姿を奪って、龍神の眷属が現れたことです」


 直郎は話を戻す。考えるべき事柄は山のようにあるから、佐強はざわつく胸の内を飲みこんで、耳を傾けた。父たちを嫌いたい。だが、そうなりきれない。

 思うままに二人を罵られれば楽かもしれないが、罵詈雑言を思い浮かべようとすると、それは煙のようにすっと現実感を失う。

 直郎は八王子市に伝わるの伝説を説明した。


「我々は〝赤観音〟を自分たちのシンボルにしていましたが、驚いたことにそれは実在し、こちらを信者と思っていた。わたしたちが翠良尾瀬を訪れると、信徒を龍神の眷属にされてしまうと思い追跡、敗れて逆に配下に加わった。偽の八津次さんの背後に一頭いましたが、まだ残り二頭存在するはずです」

「あれオヤジたちが来た日に、空から落ちて消えたやつだったよね」


 まさかそんなことになっていたとは。あの化け物がどこから出てきたのかと思っていたが、ようやく佐強は合点が行った。


「……信多郎さんの目的は、オヤカタサマとオヤジたちを全員殺して、みすらの物にする。ってことでいいんだよね。それで、神隠しされたすずめちゃんが戻ってくる」


 そのためには、佐強や信多郎自身が期限切れでと化すことは不都合なはずだ。このまま翠良尾瀬の外に留まっていても、いずれ仕かけてくるだろう。


「事態を解決するには、裏巽と龍神の間に交わされた取り引きを、ご破算にさせにゃならん。他の方法があれば何よりだ」鴉紋は指を立てて説明する。「贄を求めているのは、龍神と言うよりは裏巽なんだからな。ヤツがみすらに立てた契約を不履行にさせれば、神罰で自滅する可能性もある。例えば俺たちがここで自害するとかな」


 本気で言っているわけではない。それは佐強にも分かったが、何も八津次を殺した翌朝にそんなことを言わなくても――いや、違う。殺してしまったから言うのだ。


「放置って心に来るんだよな。オレはいつも置いてけぼりの、ほったらかし」


 イラついて、ついそんな口をききたくなった。

 みんな自分勝手だ。心身ともに傷つき病んで、死を選んだ那智子も。彼女の仇を討つため人殺しを始めた父たちも、佐強のため無辜むこの人々を手にかけた八津次も、それを許せず彼を処断した鴉紋と直郎も。みんな勝手に決めて勝手に死んでいく。

 母も、父たちも、必死だったには違いない。親といっても、それぞれの人生がある――などと達観したことを言えるほど、佐強は大人ではなかった。


「分かったよ、オヤジたちは自分の命も、人の命も屁とも思っていないから、殺したり死んだりできるんだ。なのに息子は守りたい、育てるっておっかしいの!」


 激昂が拳を突き上げるまま佐強は怒鳴る。生身の両手があれば、二人に殴りかかっていたに違いない。心臓と内臓が座る場所を探して動き回り、体の中が苦しい。

 分かっている、父たちが息子である自分を守ろうとしてくれたことは。

 母のような惨劇が、佐強を襲うことを恐れているのが。その危惧が現実のものになりかけているから、誰もが必死なのだ。ただ、それは一方的な甘やかしと過保護だ。


「オレに言いたくないこととか、山ほどあるのは分かるよ。体はこんなザマで、オヤジたちから見ればぜんぜんガキで、でもオレが知らない間に、オレのことぜんぶ決めて進めないでくれよ。一年もすれば高校も卒業して、大学行ったり就職したりしてオレも大人になる。その時になっても、〝赤観音〟のことを黙っている気だった?」


 鴉紋も、直郎も、ただ沈黙していた。それは卑怯だ。


「母さんの幻にすがっているのか、殺すのが楽しいか、もうどっちでも同じじゃん」

「そこまで言うなら、覚悟はできているんだろうな?」


 ソファの後ろ、佐強の傍らに鴉紋は立った。


「お前が俺たちを罵る権利はいくらでもある。が、ここで関わりを絶ったら全員助からん。だから、今は話を聞け。お前ができれば一生知りたくなかったような話を」

「これ以上、何があるってのさ」

「それは、わたしから」


 直郎がすっと椅子から立ち上がった。両手の指を腹のあたりで組んで、重々しく語り出す。それは始め、翠良尾瀬にある近親婚、きょうだい婚の風習だった。

 の真の意味。信多郎が自分を生け贄に選んだという事実。すずめは信多郎の姪ではなく、彼と姉の間に生まれた実の娘だということ。

 それらの事実に佐強は今さらショックを受けないが、近親相姦にはぬるりとした生理的嫌悪感を覚える。そして、次の言葉は。


「わたしと那智子さんは、実の姉弟、二卵性の双子です」


 互いにそうとは知らずに関係を持ったこと、佐強が信多郎に目をつけられたのは、おそらく「人魚の子」同士からできた濃い人魚実にんぎょざねであるからだろうこと。

 だから、佐強の実父は直郎で、鴉紋は血縁であろうがなかろうが、息子として愛し守ると決めていること。そんな話を、何度も何度も噛んで含めるように。


「俺と八津次がこの話を知ったのも、四、五日前だがな。どうだ、佐強」


 直郎は力尽きたように着席し、鴉紋は息子の傍らで厳めしい表情のまま立っている。なるほど。なるほど? 何もかも運命だったということだろうか。


「裏巽は必ず直郎の命を欲しがる。贄として価値が高いからな。そしてお前の価値はそれ以上だ、佐強。だから一つ、提案なんだが」


 鴉紋はこちらのリアクションも構わず話を続けた。さっき文句を言ったばかりなのに、身勝手な父だ。待っている暇など、ないのだろうが……。


「生まれついての人魚は、のような偽人魚どもよりずっと格上だ。人魚の娘だった那智子を食べた俺たちは、それだけで良い贄とみなされた。と、なれば。お前は直郎の肉を食え、佐強。それで人魚としての格が上がり、化け物に対抗できるはずだ」


 え、とか、あ、という感嘆詞すら出なかった。

 なんてことを言うのか――なにを言っているのか。


 佐強は直郎の顔を見やったが、鴉紋に同意するようなうなずきが返ってきただけだった。たぶん、命に関わるほどの量ではあるまい。

 一部をナイフで切り取って、塩コショウでもして焼いて。しかし人間、実の父親と判明した相手の肉を、それも死体ではなく生きたまま?


「打てる手はすべて打つ。お前は今言ったことをよく考えて、どうするか決めろ。俺は裏巽和泉子いずみこから、まだ何か聞けないか病院へ行ってくる」


 話を打ち切って鴉紋はホテルを出て行った。

 後には呆然とする佐強と、による痛覚共鳴を避けて、病院には立ち入れない直郎だけだ。ウソだろ、ここで二人きりかよ。

 情報が混雑しすぎて、もはや「どれから悩もう」という所で頭がぐるぐるする、という妙な状態になっている。脳の血管がねじ切れそうだ。


「しばらく一人にして」


 直郎に一声かけ、佐強はベッドにもぐり込む。

 信多郎は最初からすべて、佐強を利用し、父たちを殺そうとしていた。それは神隠しにあったすずめのためである、OK。それは理解できる。


 八津次はこの状況を終息させるため、罪もない人々を何人も殺して、鴉紋と直郎に処断された。納得はできないが、理解はできる。

 ただ、彼を葬るなら、自分も同席させて欲しかった。死ぬところを見たいわけではないが、最後に言葉を交わす権利ぐらいあったはずだ。これは後で文句を言う。


 那智子と直郎が実の姉弟であったこと。それも、まあギリギリ分かった。七歳の時に亡くなった母の印象は、佐強の中でぼんやりとしている。

 しかし真実を知った上で直郎の顔を見ていると、そういえばよく似ていたな、という気がしてくる。というか父たちも気がつかなかったのか。


 その二人が姉弟だと知らず関係を持ち、自分が生まれた。それは、困る。だが何についてそう思うのかで混乱する。なぜ近親相姦は良くないのか。

 例えば父と娘、母と息子なら、そこには虐待や家庭内暴力がつきまとう。しかし那智子も直郎も、自分で判断のつく年齢になって、互いの意志で結ばれた。


 近親婚による遺伝子上の問題も、佐強にはない。生まれてこのかた健康優良、この点では鴉紋に似たんだとみんな言ったものだ。

 すると後は家族関係の混乱か。確かに姉と弟、兄と妹が付き合ったり結婚したりしては、それはまあややこしいことになるだろう。しかし家族、家族か。


――


 八王子で家出を決意したあの日、佐強はそう自嘲した。父親を名乗る男性が三人もいて、しかし戸籍上は亡き母の恋人という立場でしかない。

 そのくせ母がいなくなってからも、同じ家に住み続け、父親としてそれぞれが佐強に接し続けていた。直郎に至っては、姉弟という許されない関係を、曲がりなりにも「夫」「父親」という立場に自らを押しこめるための方便だ。


 歪みきっている。

 たとえばせんべいの詰まった缶が車に轢かれて、原型がなくなるまでベコベコに潰れ、中身は全部割れている。それでもそれは、せんべいの缶と言えるのか。

 普通の家族、というものについて考えたことは何度もあった。家庭訪問でやってきた教師は三人の父親にいつも面食らっていたし、学校ではからかわれたし。

 父の日の宿題で、自分だけ三人分の似顔絵を描かなければならないことは、実に不公平に思ったものだ。授業参観に全員で押しかけてきた時の恥ずかしさときたら。


 いや、違う。これは自分たち家族の思い出で、おかしさの証拠ではない。そもそも、この自分が奇妙な家で育ったとして、そこからどうしようというのだ。

 この件が片付いたら、二人には自首してもらい、自分は一人暮らしして自立を目指すべきだろう。大量殺人ならばほぼ死刑は確定するだろうが、実施は長い。


 その時は手紙を出す。万が一無期懲役になったら会いに行く。億が一にも出所の可能性があるなら、彼らが罪を償って帰ってくる日まで、八王子の家を守ろう。

 佐強が帰るべき家として思い出すのは、三人の父がいたあそこだ。自分が親と思うのは、やはり彼らしかいないのだ。


 状況が切迫している点は変わらない。鴉紋が和泉子から何か有益な情報を得るにせよ、佐強は直郎の血肉を口にすることになるだろう。

 そのこと自体にはさほど抵抗がない。

 皆で亡くなった母を食べて弔ったように、将来父の誰が亡くなっても、一部にせよすべてにせよ食べることになると思っていたから。ただ直郎が傷つくのが嫌なのだ。


(ああ、そっか)


 ほら、あんな話を聞かされても、自分は彼らに親しみを持っている。喧嘩をしても仲直りができるように、根本的に離れようという気を持っていない。

「オヤジたちは自分の命も、人の命も屁とも思っていない」と言ったのは、彼らがあまりに好き勝手に生きて死んでいるからだ。


 母に起きたことも、それを消えない傷として抱えこんで凶行を始めたのも、八津次が手を汚したのも、自分がいない所で彼を殺したのも。

 ぜんぶぜんぶ、父たちがその苦しみも、悲しみも、自分に打ち明けてくれなかったことが……腹立たしくて腹立たしくて、しょうがなかったからだ。


 自分が守るべき子供だから、弱さをみせたくなかった。それはそうだろう。だが、だが、一方的に愛されるなんて嫌だ。家族は助け合うものじゃないか。

 傷ついているなら、苦しんでいるなら、悩んでいるなら、自分にも吐露して欲しかった。何の役に立たなくても、その心の本当の所に寄り添わせてほしかった。


 愛してる、世間から見てどれだけ歪んで、醜く爛れた形でも。


 これが自分の家族だ。佐強をこよなく愛してくれた人たちの結実だ。自分がもっと幼ければ、彼らの判断は間違っていなかっただろう。

 だが佐強はもう十七歳で、お姫さまでもなんでもない。世間的には子供でも、父たちと共に戦いたい。今までのように守られるのは、もうゴメンだ。

 信多郎と対決し、すべてを終わらせよう。もうこれ以上、誰も失わないために。

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