みそあまりむつ すくへみが笑い、血潮が降り注ぐ
「あハハハ! あはっ! へハ!」
「うくくく……」
「ねえ、何が可笑しいと思う? ふふふふ」
「何って、うっふふ! すいません、なんか、笑っちゃダメだと思ったら……ね?」
「ぷ」
「ふはっ」
「ひはっひはっひはっ」
スタッフも管理責任者も業者も客もなく、誰も彼もが笑い出して、そのためにまともな動きを取れなくなっていた。
状況のまずさを悟っているのは、当の梅香だけだ。子どもたちが独り立ちし、家の外へ出るため始めたパートだった。今は耳を塞ぎ、泣くことしかできない。
「
梅香の垂田穂家はオヤカタサマの一、祀る
漢字では宿笑顔、宿蛇であり、人を笑わせる蛇だ。
大蛇はその体で道の駅内を縦横無尽に這いずり回り、出会う人間をことごとく毒牙にかけていった。犠牲者が最初に得るものは「幸福」だ。
「
ただ生きているという事実にさえまぶしさを覚え、目に映るすべてが愛おしくなる、こんこんと胸の奥から湧き出す温かな気持ち。
この世で最後に感じる幸せだ。
次の瞬間、犠牲者は「幸福を感じる機能」が破壊され、自我が崩壊を始める。あらゆる望みを絶たれ、生きる気力も死ぬ気力も衰亡し、無限の奈落へ。
「
だから笑う。絶望の底また底へ落とされた人間に、唯一可能なリアクションでもって、残された命を長い長い断末魔で彩るために。
正常な判断力。思考力。知覚力。望みを絶たれるとは欲求を絶たれること、すなわち食事も喉の渇きも睡眠も欲さず、ただ衰弱死するまで笑い続ける。
そして、お気づきだろうか。梅香の言葉に重ねて、誰かずっと笑っている。それは彼女自身の声で、しかし口からは出ていない。後頭部からだ。
家を出る前までは普通だった。天気がおかしくて驚いたが、仕事は仕事。職場についてから、梅香は一族の祀る人魚實に自分が取り憑かれたと知った。
「
梅香が頭を掻きむしると、セットされていた髪が乱れ、手のひらほどもある大きな口が現れる。白い歯や唇の形から人間の物ではあるようだが、大きさと位置が異常だ。何より、その赤い舌がすくへみの蛇体と繋がっている。
梅香の頭を、ライフルの銃弾が撃ち抜いた。
「自宅にいねえと思ったら、こっちかよ」
ごうやふとりに人は殺せない。欲しい命は姿を奪った鴉紋だけ。だが、すくへみの祟りと合わせれば、犠牲者たちは永らえることもあるまい。
白いワンピースの少女が、遊園地にでも来たようにニコニコと笑った。
「お兄ちゃん、お仕事がんばってるね!」
「ああ、
龍神みすらに仕える
裏巽信多郎は、
信多郎からしてみれば、使役可能な人魚實はごうやふとりだけだ。
胎児並の自我しか持たないにくべとやのとさまは論外であるし、がんかじもすくへみも、決まり切った行動をくり返す機械に近い。
だがごうやふとりは、中身はどうであれ人間の姿を盗み、装い、人間の真似をする。それを幾度か行ってきたから、最も人間性を残していた。
ごうやふとりにとって、梲鳩家は自身の子孫だ。
信多郎の差し出した条件と呪術の強制力を前に、ごうやふとりは彼の〝式神〟となることを承諾した。でなければ、全力で鴉紋を殺しに向かっている。
ついでに「十八歳以下の人間は殺すな」と細かい注文まで。
「あとは野放しになっている
「はいはい」
すくへみは、寄生先にした梅香の体にまだ宿っている。
彼女が死んでいないから、移動できないのだ。「おいで、『オン』」と
――あかかおん!
狐面を被った犬の首が、梅香ごとすくへみを食い殺す。
外には夏空はなく、夜ではない漆黒が一面を覆い尽くしていた。黒く、どろりと濁り、太陽の代わりに赤黒い穴が開いた異常な景色。
血が濃いオヤカタサマか、信多郎のような人間にしかそれは見えない。ほとんどのものは、夜のように暗い曇天と思うだろう。それでも、嫌な予感がするはずだ。
再び赤い雨が降り注ぐ。二度目の〝おどはつの雨〟が何を招くか、
◆
父の一人・
問題は、佐強が持つ「人魚の血」をより強化するため、同じく人魚の血が濃い直郎の血肉を口にする、という提案だ。
かつて「人魚の娘」那智子の遺体を皆で食べて弔った時は、一ヶ月ほどかけて全身を食した。そのため、鴉紋や八津次といった人魚となんら関係のなかった二人まで、龍神に対する贄としては価値の高いものとなってしまっている。
では、佐強はどの程度の量を食べれば、人魚として格が上がるのか。それを確かめるため、徐々に直郎の肉を削ぐなどということは出来ない。
物の試しで少量だけ切り出す、というのも嫌だ。可能な限り直郎を傷つけず、かつその力を佐強に譲渡できるような手段はないか。
そこで直郎自身が提案したのが、血液だった。
「人体の血液量は体重のおよそ十三分の一。健康に問題がない範囲として献血される量は、全体の十二パーセント。わたしは五十五キロありますから、ざっと五〇〇CCまでは採血しても命に別状はありません。採血後にお菓子でも食べれば済みます」
「ペットボトル一本ぶんいけるんだ!?」
「倍の量を一度に失えば失血性ショックとなりますが、まったくの余裕ですよ」
血液量の30%、直郎の場合1.65ℓを失えば生命の危険に突入だ。
「鴉紋さん、買い出しをお願いしていいですか。クエン酸ナトリウム……があればいいのですが、なければクエン酸と苛性ソーダ、それにミネラルウォーターを」
クエン酸ナトリウムは、血液が固まることを防ぐ抗凝固剤として、最も一般的なものである。
ネット通販なら手に入るだろうが、早くとも翌日になる。それを悠長に待っている場合ではないし、ここで鴉紋がまたびわ湖をぐるっと回って遠出するのもマズい。
ならば今、手に入るものでやるしかないだろう。
「そのままだと飲めたモンじゃねえだろ。ココアでもいるか?」
「血液入りココアかあ……いや、うん、ほしい」
直郎は鴉紋にきつく左腕を縛ってもらうと、ナイフで小さな面積を深く傷つけ、そこにストローを差しこんだ。何の変哲もない、コンビニで売っているポリプロピレン製の安物。新品であるということしか、清潔さの保証がない。
ベッドに横たわった彼の傷口から、クエン酸ナトリウム溶液の入った器へ、ぽたり、ぽたりと、血が溜まっていくのを待つのは奇妙な時間だった。
白い管はべとりと血に汚れて、小さな口から粘度のある滴が盛り上がり、透明な溶液の中へ落ちては、墨のようにふわりと広がっていく。
「注射器があれば良かったのですが、変な感じですね」
鴉紋と直郎が彼を殺した時、その血溜まりはこんな風だったのだろうか。赤くて黒くて、小さくゆらゆら波打ちながら、命が器に満たされる。
祖先から
高校生ともなれば、自分一人で生まれて、一人で大きくなったように思う。けれど、結局ここに己がいるのは、数限りない人々のつながりがそうさせたからだ。
無い指先を佐強が伸ばすと、驚いたことに直郎の血を受け止めた。人魚の血を引くからだろうか? 佐強は不思議に思いながら、血の滴を舐める。
言うほど鉄臭くはない。ただ、鉄錆の周りをぬるりと脂や塩気が囲んでいて、これが生き物から出てきたものだという実感があった。
長い時間をかけて血を採り終わると、三人でココアを飲んだ。
直郎は失った血を補うため、鴉紋はコーヒー代わりに。佐強はたっぷりの血液を割るため、一人だけ量が多い。
「お前が成人していたら、酒で割ってやれたんだがな」
「血割り酒なんてやだよ、蛮族みたい」
「そうか。まあ、そうだよな」
鴉紋は買い物袋から、白いマシュマロを取り出した。
「那智はこいつをココアに入れるのが好きだった」
「うわ、甘さで胸焼けしそう」
「那智子さん、甘党でしたからね。鴉紋さんのコーヒーに砂糖五杯いれるんですよ」
血を飲みながらの家族団らん。世間的にはどれだけおかしな光景でも、自分たちは狂っているわけではない。ただ家族の歴史と必然で、こうしている。
「そういえば、さ」
直郎の体に対する心配、これから向かう翠良尾瀬で出会う何か。そういった不安や憂慮はあれど、こうして過ごすのは心地よかった。だから。
「とーちゃん、ココアにデスソース入れて汗ダラッダラになりながら飲んでたよね」
「ああ、あのバカ、たまに激辛を食いたがったからな」
「刺激が足りない、とか言って、やってましたねえ」
「なんでそんなことするかなあ、はは」
ここに一人、父が足りないのが悔しい。その命を奪ったのが、ほかならぬ鴉紋と直郎だということを責める気にもなれず、ただ寂しさは限りなくて。
幼かった佐強には実感がないが、母が亡くなった時も、父たちはきっとこんな思いだったのだろう。それは抱える、などというものではなくて。
体の中にぽっかり穴が開き、ひゅうひゅうと吹きこむ風に震え。しかし心細さから逃れる手立てはない、と思い知りながら立ち尽くす。そんな心地だ。
人は死ぬ。どれだけ大切な相手でも、一生ずっと一緒、などといかない。だから共に過ごせる時間は貴重だ。失えば二度と戻ってはこないのだから。
ぽん、と鴉紋の大きな手が佐強の頭を優しく叩いた。
「お前の顎は、八津次に似たと思っていたんだがな。長めというか、尖り方というか。目元や鼻筋は俺に似て、男前だぞ?」
「何さ、急に」
「わたしが実の父親だとして、思ったより顔は似ないものだな、と」
「父さんまで」
「誰に似たんだか、だな。まあ、つまり、あれだ。お前はやっぱり俺たちの息子で、那智の子だってことだな」
直郎の血がどの程度で佐強になじむかは分からない。ただ、準備と疲労の回復のため、三人が翠良尾瀬に戻ったのは翌日だった。
八月十五日、終戦記念日。そして人魚狩りの期限まで、あと十八夜。
「ちょっと離れている間に、ヤバいことになってんじゃん……」
佐強にも、鴉紋にも、直郎にも、空の赤い穴は見えていた。
光を吸いこむ漆黒の空の彼方、白く
それともあれは、渦なのかもしれない。神島市から見た時、翠良尾瀬方面は何の異常もない……せいぜい、天気が悪そうだなぐらいにしか思えなかった。
だが渓谷を渡った途端これだ。あたりには鮮血のような雨脚が歩き回り、いつかの再現のように、血まみれの地獄絵図を作り出している。
ともあれ、三人の目的はまず信多郎に会うことだ。交渉の余地があるかはともかく、知っている情報はすべて引きずり出す必要がある。
姉の裏巽
彼女を人質にしようという案は、八津次が生きていれば口にしたかもしれない。三人は誰もそれを指摘しなかった。
偽の八津次が見せたあかかおんは、一応は使鬼銭でひるませることが可能なのは分かっている。――問題は、彼らはごうやふとりの出現を知らないことだ。
「……ずいぶんと、酷いことになっているようです」
集落の中心部に近づくにつれ、直郎の顔色がみるみる青ざめた。
「離れていても分かります。願施崎の時と同じか、それ以上の惨劇が起きて、何人もの人が深く傷ついている。あかかおんが暴れたのかも」
「連中がとうとう、自分の手でオヤカタサマを狩り始めやがったか」
鴉紋が舌打ちする後ろで、佐強は助手席の直郎をうかがう。
「父さん、このままいっしょに来て大丈夫なの?」
「痛いのは痛いのですが、耐えられます。慣れでしょうね」
「それ良いことかなぁ!?」
「時間がねえ、このまま三人で突っこむ」
「マジで?」
しかし人家もない山道、それも血色の雨が降る異様な場所に、一人置いていくわけにもいかない。中心地に近づくにつれ、直郎は目を閉じ、深呼吸に専念した。
彼は他者の痛みを強制的に共鳴させられるがんかじに狙われている。傷ついた誰かが傍にいれば、己のように痛い。
がんかじの本体は願施崎家に植わった白檀の木だが、木をどうこうする以前に、直郎とがんかじのつながりを絶つ必要があった。
血を飲んだ意味は本当にあったのか、と佐強が悩むのがここだ。
生まれついての人魚だった裏巽市子は、絆創膏などという手段で、いとも
佐強がいくら人魚としての血を濃くしても、人魚そのものに生まれついていなければ、結局は無意味なのではないか。すくなくとも、がんかじを祓うことは出来ない。
饗庭地区につながる住宅地の一角に、人が集まっているのが車窓から見えた。佐強もオヤカタサマの家は一通り回ったから分かる、
救急車やパトカーが停まり、尋常な様子ではない。鴉紋が「様子を見てくる」と車を降りると、鞄の中からゴソゴソと小動物が動くような音がした。また怪奇現象だ。
いちいち構っていられない、と佐強は傘を差した父の背を目で追った。オヤカタサマの例に漏れず、立派な門構えの日本家屋だ。
雨具を備えた人々の中に、救急隊員や制服警官の姿も見える。担架で運ばれていく男性に取りすがって泣いていた少女が、びくりと体を跳ねさせた。
「あ」佐強とそう歳の変わらない少女が指をさす。「あいつ」
こんな声が人の喉から出るものなのか。少女の叫びは彼女の声帯と佐強たちの胸を裂きながら、長々と響き渡って、その示すところをくっきりと表した。
「あいつが! あいつがみんな殺した!! 宇生方って拝み屋が、銃を持ってうちにやってき、て、パパもママも撃ったの! ひ、とごろ、し。人殺しィ――――ッ!!」
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