みそあまりななつ 別れた道は交わらない
昨日は早朝からずっと
確かに家族を殺された者の、恨みの眼だ。血のような赤雨が降る中で、爛と輝く。
殺人事件の捜査で、鴉紋は何度かそれに遭遇したことがあった。誰とも知らぬ犯人を憎み、決して許さぬと吠える慟哭のこもった炉。法で縛られねばならない炎だ。
鴉紋は
『もうごうや、もういいかい。もうごうよ』
『はいれた』
『ごうや、ふとうたり』
(――ごうやふとりか!)
二日前――まだ八津次は生きていた――スマホに届いた不可解なメッセージと、直後腹の中から響いた奇妙な声。忘れていたわけではない。
しかし八津次の粛清と、直後に現れた偽の八津次、そしてあかかおんと次から次へと対応すべき事態に見舞われ、それどころではなかったのだ。
そもそも、伝承に記録されたごうやふとりは、姿を盗み取った相手を殺しこそすれ、無差別殺人など行わなかった。どういうことだ?
「
確認する駐在にああ、とうなずく。若い警官は青ざめた顔で、緊張を持ってこちらを見つめていた。手が、腰の武器にかかっている。警戒心とそれを上回る恐怖だ。
「そいつはいをに取り憑かれてる!」
「若先生がそう言っていた!」
「オヤカタサマばかり狙いやがって!」
群衆は青筋を立て、唇を曲げながら、口角泡を飛ばす勢いで責め立てた。誰もが鴉紋を冷酷非道な殺人鬼だと思っている――いや、それは一部事実ではある、が。
「
若先生、と口にした中年の男を鴉紋は見やった。
若先生といえば裏巽
「宇生方さん、ご同行願います。あちらの車の方々も」
鴉紋に問われた男が何かをわめき散らそうとする寸前、駐在が割って入った。彼は一触即発の状況に、必死で気を遣っている。
最初に人殺しと叫んだ少女は、親族と救急車に乗りこんで去ったが、一歩間違えばリンチが始まりかねない。それほどの剣幕がふつふつと空気に満ちていた。
やまない赤い雨は場を血染めに錯覚させ、人を
同行を拒否すればどれだけ心証が悪くなるか、鴉紋も職業柄、実感を持って知っている。逃げても仕方がない、と鴉紋は応じた。
広々とした道路を挟んで、ガソリンスタンドの向かい。隣には『鯖街道 焼きさば・
無駄に駐車場が広いあたりが、田舎の交番だなと思わせた。
それだけなら、この一月で
二度目になるおどはつの雨。人魚供養祭の翌日、父たちが翠良尾瀬に来た時に起きたそれは、その後の怪異と惨劇の始まりを告げていた。
今降り注ぐ赤い雨は、今度は何の予兆なのだろうか。
「宇生方さんと、あの青い髪の方、えーと
生き残っているのは棗ヶ岡家の乳児と、齢家の女子高生だけだが、周辺住民が出入りする姿を見たそうだ。鴉紋たち三人は既に〝拝み屋〟として顔が広まっている。
佐強は複雑な表情で黙りこんでいた。本当なら「オヤジが人を殺すわけないじゃん」と言いたいのだが、実際に殺人鬼なのでどうしようもない。
(……これ、下手したら八王子のこともバレるんだよな……)
父たちの殺人を黙っておくべきかどうか。
これまで棚上げにしていたが、追求は避けられそうにもない。しかしやった殺人はともかく、してない殺人までかぶせられるのは違うだろう。
目撃証言がないこと、両手がない人間にできることもなさそうだということで、佐強は駐在に捨て置かれていた。所在ない心地で、警官と父たちのやりとりを見る。
「裏巽を呼んでくれ。あいつが俺たちをいをに取り憑かれたと言うなら、この場で証明してもらうなり、お祓いをしてもらわにゃならんだろう」
鴉紋と直郎は神島市内での自分の行動を説明し、アリバイを主張したが、駐在はさほど真剣に聞いてはいないようだった。
調書は取っているが、こちらを大量殺人鬼だと確信して、懸命に怯えを堪えている。幸いにも、駐在は信多郎を呼べという鴉紋の言に応じた。
佐強の鞄――裏巽家を脱出した後、市内で新しく購入した――がまたゴソゴソと動く。そういえば、齢家の前へさしかかった時も動いていた。
(もしかして、とーちゃんのオルゴール?)
だとすれば、何らかの警告に違いない。神具の鈴を入れっぱなしにしているためか、オルゴールは霊力を帯びて佐強の「無い手」でも持ち上げられる。
しかし鞄は開けられない。直郎に頼もうと佐強が体を向けた時だった。
「裏巽なら来ない」
バリトンより更に深みと張りのあるバスボイス。鴉紋が急に何を言い出したのかと思ったら、それは父ではなかった。
駐在所の入り口に、宇生方鴉紋の姿をした何かが立っている。
警官が鴉紋と、現れた男の顔を交互に見やろうとした側頭部が、ばつんと何かに弾かれ椅子から転がり落ちた。二十代の後半とおぼしき男は、きょとんとした表情を浮かべたまま、こめかみに開けられた穴からどろりと赤黒いものを垂らす。
「――っぃ」
断末魔を代弁するような短い悲鳴と共に、直郎が倒れこんだ。がんかじだ。こんな至近距離で、頭に銃弾を叩きこまれる感覚を体験させられるのはどんな気分だろう。
ひたひたと床に広がる血溜まりを蹴散らして、鴉紋の姿をした何かが突撃した。がつんと音を立てて筋肉の重さと骨の硬さがぶつかり、父がそれと組み合う。
「直郎、起きろ! ごうやふとりだぞ!」
鴉紋は相手の手首をひねって拳銃を取り落とさせた。
「こいつの狙いは俺だ。佐強を連れて逃げろ!」
「余裕だな、宇生方鴉紋」
ふわっと父の大きな体が浮かび上がり、すさまじい音が響く。
鴉紋はスチール机に叩きつけられ、あたりに筆記具や調書、パソコンのモニターとキーボードが散らばった。ごうやふとりがのしかかり、動きを封じる。
「もうごうや、もうごうや! お前は子孫を残していないだろう? 安心しろ、俺がお前になってやる。お前を殖やしてやる。すべて等しくふとうられる!」
飛んできたキーボードが頭にあたり、倒れていた直郎は小さくうめいた。佐強は自分に残された二の腕でその体を揺すり、片手に使鬼銭を握った。
腹に膝蹴りを受け、ごうやふとりが体をくの字に折り曲げる。鴉紋はバランスを崩したそいつを床に投げつけ、今度は自身がマウントポジションを取った。
顔面を殴りつける拳が、じゅうっと音を立てて煙を上げる。使鬼銭だ。
「オヤジ!」
以前、鴉紋が使鬼銭を使ってにくべとを祓った時は、しばらく寝こむほど消耗した。ならばここで、佐強がごうやふとりに対処すべきだ。
鴉紋が殴られれば、その分だけ直郎に痛みが伝わるという点は問題だったが、彼一人を置いていくわけにはいかない。そう思っていたが。
「ねえ、ねえ。どっちが私の、本当のお兄ちゃんかな」
駐在所に新たな客が現れた。白いワンピースに長い黒髪で、病的に肌が青白い。年の頃は小学校高学年か、もしかしたら中学の一年生かもしれない。
甘く澄んだ声は、不思議に赤い雨音になじんだ。
(オヤジの妹――って、死んだハズで、生きてても、こんな若いワケないよな。じゃあ、じゃあ、ごうやふとりは、死んだ妹の姿までコピーしてきたのかよ!?)
歩いていたら突然道がなくなって、奈落が口を開けた気分だ。佐強は人魚たちがもたらす底なしの悪意に目眩がした。とっさに理解を拒みたくなるおぞましさだ。
「またその手か」
鴉紋は吐き捨てる。佐強たちは彼がにくべとと戦った時、願っても得られない幸福な夢を見せられたことを知らない。
「鴉紋さ、ん……」
起き上がった直郎が、ぜいぜいとあえぎながら言葉を絞り出した。
「直郎、佐強を連れてとっとと逃げろ! コイツは、俺が始末をつける。俺が一人でだ。裏巽を見つけて、ぶちのめせ!」
「いや、仮にも二対一じゃん!」
見た目は少女でも、正体がいをなら何をしてくるか分からない。
「親の言うことは素直に聞け!!」
「行きましょう、佐強くん」
直郎は問答無用で佐強の肩を引っ張った。床に転がった駐在の死体、制服に包まれた足をまたぐと、彼を侮辱している気分がする。
ほんの少し前までは、この人も生きていたのだ。きっと殺されなきゃいけないような理由なんてなかった。家族は突然の死をどう受け容れるだろう。
佐強の家は、自分自身が長い間実感を持てなかっただけで、ずっと母の死を傷痕として抱え続けていた。これから翠良尾瀬には、そういう家がいくつも生まれる。
ごうやふとりが鴉紋以外の人間を殺せないことを、彼は知らなかった。
(信多郎さん、ひでえよ。ここまでして、すずめちゃんを助けたいのかよ)
この二日で何十人が殺されたのか、考えれば気が遠くなって、そのまま悪夢の世界に連れ去られそうだ。
直郎は自失しかける佐強を助手席に押しこめ、車を発進させた。
「にくべとの野郎と同じ手を使うとは、芸がねえな、ごうやふとり」
一人残った鴉紋は、油断なく構えながら間合いを計る。
「愛夢の姿でお涙頂戴の芝居でもするか? 俺の罪悪感を抉るか? どうやったって現実は変わらん、俺は間違えた。妹を救えなかった。だからここにいる」
過去は変えられない。変えられたとしても、許せない。
妹との思い出は、決して多くはなかった。彼女はほとんど病院にいて、学校の帰りに見舞いに行って、十三歳で死んでしまった。
付き合いだけで言えば、家族たちの方がずっと長く深い。
だが、人生の初めからあった彼女の存在は、鴉紋の中に深く根付いて消えることはなかった。骨折は適切な治療をしなければ、間違った形で治癒してしまう。
自分の生き方はそれと同じだ。愛夢のこと、渚のこと、
「
記憶にない妖艶な笑い方で、妹の姿をした化け物が微笑む。
「どんなに過去を乗り越えたつもりでもダメ、人は失った誰かを取り戻せそうだと思ったら、その誘惑に勝てない。死者はそうしてよみがえるの」
少女の背がふいっと伸びた。十三歳からおよそ二十歳近くまで、目元も口元も、確かに彼女の面影を残して、正しく妹が成長した姿だ。
黒かった髪を明るい茶色に染め、うなじでカットしてバレッタを。海辺のバカンスを意識しているのか、上はバッククロスストラップの水着、下はペインターパンツ。
青白かった肌は陽に焼けて、温かな小麦色に輝いている。あの子は生涯、こんな風に遊びに行くことも、こんな恰好もできなかった。化粧だって。
いつまでも見つめていたくなるが、罠なのは明らかだ。何度も自問した「もしも」を封じた井戸が、蓋を破ってあふれそうになるのを鴉紋は堪えた。
「兄さんが死ぬ代わりにが私が生きる。それで満足できない?」
「できない相談だ。俺には息子と親友がいるからな」
「なら死ね」
愛夢の胸元から刃先が突き出る。ごうやふとりが背後から心臓を貫き、引き抜いた。駐在所の狭い室内に血がほとばしり、鴉紋はとっさに動けない。
「お前もやっただろう?」
――新しく入った内科の先生が、なんか、変なの――なんか……やけに、ジロジロ見られるっていうか――やたら……さわってくる気がする。
――愛夢……もしかして、だな。
――それは、恋ってやつじゃないか?
勇気を出して兄に相談した時、彼女の心臓は、こんな風に張り裂けたのだろう。固まりかけた血溜まりの上に、新しく血の海を広げて少女が倒れこんだ。
それは先ほどの大人びた姿ではなく、最初に現れた十三歳の姿だ。
「……貴様もな!」
動揺するな、冷静になれ、こんなことは想定済みだ。己の罪は何度も何度もくり返し思い起こして自覚している。
鴉紋はごうやふとりにつかみかかり、焼けただれた手に使鬼銭を握って振りかぶった。その動きによどみはない。このまま憎たらしい顔面を打ち抜ける。
この世で一番殴ってやりたい
一つだけ、鴉紋が知らないことがあった。写し身たるごうやふとりは、かつて宇生方鴉紋が扱ったものであれば、どんな道具でも取り出せる。
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