幕間 裏巽信多郎の契約
それはすべて、あの冬に
雪深い一月、彼女は体温の高い手足に元気をみなぎらせ、遊びにくり出した。雪合戦に雪だるま、作りかけのかまくら。あまり吹雪くなら、家でゲームしても良い。
白一色の平坦な景色も、八歳の少女にはワクワクでいっぱいだ。
だがその日は、たまたま、本当にたまたま、誰もすずめと予定が合わなかった。家族で急に出かけることになったとか、トラブルがあったとか、熱を出したとか。
その時からすでに、彼女は目をつけられていたのかもしれない。それが、どうして自分の娘だったのか、信多郎には分からないが。
まっすぐ家に帰るのも面白くなく、すずめは遊び場を探してあたりを駆け回る。小学校と中学校がある坂の裏手、傾斜のゆるい道を上がった先の野原を。
そこには小さな地割れがあった。
深いが、大人が落ちるには狭すぎる。危険と掲げた立て札も朽ちてかしぎ、おりからの雪でへし折れたころだ。雪と草に隠されたそれに、すずめは落ちた。
天地がひっくり返り、自分がどうなっているか訳も分からず、体がこすれて痛い。悲鳴を上げながら
そこは洞窟の中だ。御前ヶ滝とつながった地底湖があり、翡翠が採掘できる神域。複雑に入り組み、地図を持っている
(どうしよう、あなにおちちゃった)
未知の場所、ずきずきと痛む体、ぞっとする冷気。何一つ良いことがない。目の前に広がる暗闇は、彼女が生涯見たことがないほど深くて重かった。
(くらくて、さむくて、ジゴクって、こんなかんじ?)
何よりこの冷え。雪もないのに、冷蔵庫に放りこまれたようだ。
(こわいよ、こんなところヤダ、帰りたい)
泣いてもわめいても、自分の声が不気味に反響するばかりだった。
(おかあさん、おじさん)
気味の悪い虫を見かけ、ネズミのような気配もあった。けれど本当は、もっと恐ろしいものかもしれない。怪物か、おばけか、幽霊か。
(たすけて)
恐怖で一歩も動けなくなって、しかしじっとしていると寒くて仕方がない。手足を何度もこすり、硬く冷たい岩壁を探って、あてどなく歩く。歩き続ける。
やがて喉が渇き、空腹を覚えた。出かける前に食べた砂糖醤油のお餅を思い出すが、もう唾も出ない。疲れた。少し横になって休みたい。
凍死という概念は彼女にもあった。ここで眠ったらきっと二度と目覚めないし、家にも帰れないだろう。地割れに落ちて十数時間、すずめは彷徨い続けた。
這いつくばらなければ通れない穴を抜けた先、ついに開けた場所に出る。それは氷が張った地底湖だった。喜びを表現する気力もないが、少しだけ安心する。
(ここなら、だれか見つけてくれるかな)
すずめは広々とした場所に足を伸ばした。
それは今までと同じ岩や土の地面ではなく、分厚い氷だ。喉は渇いているし、顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃだが、仮に氷を割っても、水は冷たすぎて使えないだろう。
そんなことを考えた矢先、彼女は薄氷を踏んでしまった。
最期は冷たさを感じるまでもない、あっけないものだ。
(どうして何の罪もないこの子が、苦しんだ末に命を落とさなくてはならない?)
信多郎がすずめを見つけたのは、人魚の血の匂いを嗅ぎ分ける力を応用した占術だった。裏巽の者、かつ自分と姉の間にできた子とはいえ、その匂いは薄い。
十年前、神社の境内で出会った母親と息子に比べれば、あってないようなものだ。それとも、自分の力不足だろうか。呪術や占いにもっと通じていれば。
(僕はまだ、すずめちゃんにお父さんとも、パパとも呼ばれていないのに)
――ぼく、おっきくなったら、おねえちゃんとケッコンする!
幼児の他愛ない戯れ言が、後々本気で受け止められるのが、
だが、祖父の代で生け贄の儀が途絶えて以来、この地も年々変わりつつある。
両親は当初、信多郎が姉の
だが彼らは建前を気にして、和泉子はシングルマザーに、信多郎には叔父という立場を強いた。それが長い間不満だったものだ。
いつかこの村を出て、姉とすずめの三人家族で暮らしたい。
信多郎はみすがおがみ神社の宮司を継ぐ、それことは決定事項だ。しかし、他の土地で自分の仕事を持って、祭りの時期にだけ帰省するということも出来る。
そのささやかな望みは、すずめの事故死という最悪の形で打ち砕かれた。
この子の命は、八年間歩いた人生は何のためにあったのだろう。いや、生命に元々意味はない、だが時間があるのみだ。この子にはもっと時間が必要だろう?
洞窟を彷徨った果てに湖で凍死するなど、信多郎はとても許容できない。娘の時間を返してくれ、自分の寿命を分けたっていい。それが叶わぬ願いと言うならば。
滅んでしまえ、こんな村。この世のすべてが地獄に落ちて苦しみもがくがいい。娘の遺骸を抱えたまま湖に沈めば、自分も簡単に凍死できる。
還ってこないものを迎えに行くには、こちらから出迎えねばならない。
――そんなことをすれば、おまえは二度とその子にあえないよ
「誰だっ!?」
柔らかな声は、男のようにも女のようにも、若いようにも老いているようにも聞こえる。反射的に信多郎は神経を高ぶらせたが、すぐ異様な気配を察した。
今の声がどこから聞こえてきたか分からない。洞窟に反響している風でもなく、外で話しかけられたようにすっと耳に入ってきた。だがそれが右か左かも不明だ。
そして人間みのない抑揚。機械的ではなく、むしろ有機的だが、この世に己が心を動かすものなど
まるで神か菩薩のようだ。
――たましいは一つ一つが世界。肉が境を定めて、他者とふれあえる
「だから、自らそれを放棄してはいけない、と?」
信多郎は背筋を正して、厳粛な気持ちで何者かと言葉を交わした。それが、代々自分の一族が祀り続けてきた龍神みすらとの邂逅だ。
なぜ今話しかけてきたのかと問うと、それはすずめが神域の地底湖で命を落としたからだという。これは供物なのか、と。
無論、信多郎は否定した。
神との会話はひどく消耗すると気づいたのは後のことだが、この時は無我夢中だ。信多郎は、「すずめと再会する」ための契約を持ちかけた。
翠良尾瀬に存在するオヤカタサマに連なる者たちと、彼らが祀る
「こういうのを、手付金、というのだったかな」
あの日、信多郎が家に連れ帰ったのは、すずめの姿をしたみすらだ。
本物の死体は地底湖に沈めて隠した。しかし、龍神との契約が苛烈なものだと信多郎が知ったのは、そう何日も経たない時だ。
最初に母が、次に父が相次いで原因不明の病に倒れ、手を打つ間もなく死亡した。次に和泉子が倒れて、ようやく信多郎は事を悟った。
「やめろ、やめてくれ!」
「あれは対価ではないのか?」
愛くるしい少女の顔が、すずめにはない知性を湛えて信多郎を見やる。
「僕が捧げる、という話だったんだろう。供物はこちらで選ぶ、だからこれ以上家族には手を出さないでくれ!」
「ならばやってみるがいい」
自分は悪魔と取り引きしたのだと思った。何百年も祀ってきた相手だが、これは、何か良くないものだ。そもそも出自すら怪しい。
龍神みすらはかつていた所から追放されて、日本にたどり着いた。
故郷が唐か天竺か、さらなる彼方かまでは伝わっていない。
みすらは当時、ただの「尾瀬」だった村に己が信徒を作るため、翡翠姫を下賜した。娘という建前の、切り分けられ自立する女神の血肉。
それは龍から神格を落とされているから、魚体を持つ人魚となった。
人魚を喰らったものは自己を
この土地では、誰もが血の中を人魚が泳ぐのだ。
それらをすべて捕らえて、殺して、神へと還さなくてはならない。信多郎は血をたどる占術を用いて、十年前に出会った少年――
小田島
(それにしても那智子、か。因果な名前だ)
那智と言えば和歌山県の熊野那智大社・那智滝などに関係する名前だ。 インドでは男の蛇神を「ナーガ」、女の蛇神を「ナーギ」と呼ぶ。
裸形上人という僧侶が船場から那智の滝を見てナーギと呼び、それが転じて那智となったという。その由来自体は諸説あるが、奇妙な符合が信多郎には面白い。
蛇の神、龍の神、そして人魚。それに関わる名前を持った女性。
ことの因果は、はたしてどこからどこまで定められているのか。神の身ならぬ信多郎には、到底分からない。
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