みすらおがみの、神。
みそあまりやつ 神饌
かすかに呼吸していたが、彼の姿を盗み取ったごうやふとりは、頭と背に弾丸を叩きこんでトドメを刺した。人を殺せぬ
ごうやふとりの性質は、自己複製、自己増殖、均一化だ。
狙いをつけた者の姿形、知識と記憶、持ち物などをそっくり写し取り(でないと裸になってしまう)、オリジナルに成り代わろうと行動する。
宇生方鴉紋は死んだ。
残ったのはごうやふとり、彼と同じ顔と体、夏に似つかわしくない三つぞろいのスーツにロングコートという出で立ち。だが、ささいなズレ、
ここから先は、其が手にかけたものは新しい宇生方鴉紋/ごうやふとりに生まれ変わる。元が女でも老人でも子供でも関係がない。
その差はちらつきとして現れ、衣服のみならず年齢や背格好、少し「ズレた」ものになる。それも個体数が増えるにつれ、徐々に均質化されていくのだ。
龍神みすらが自らの血肉を分け与え、人間たちを取りこもうとした
「ひどいことするんだから」
血溜まりに靴を汚しながら、華奢な少女が立っている。舞い降りる雪のように白いワンピースと、夜空のように艶やかな長く黒い髪。宇生方
なぜこれがここにいるのだろう、とごうやふとりは初めて疑問を覚えた。其が鴉紋の写し身として顕現してから、当然のように傍らにいた少女。
しかし、どれだけ大切な相手であっても、ターゲット以外の人間を、ごうやふとりは写し取らない。宇生方愛夢は鴉紋の持ち物ではなく思い出で、それが個体として独立して動くはずがなかった。なぜだかそれに、今の今まで気がつかなかったのだ。
「
少女の顔が消え、平たい鏡面に前髪がかかる。それはごうやふとりをくっきりと映し出していた。宇生方鴉紋の姿ではなく、それを盗む前の、人魚としての本性を。
鏡の中で、鴉紋の姿と其の姿が交互に映し出され、やがて影法師と人間のモザイクと化す。きぃんと甲高い耳鳴りは、ごうやふとり自身の悲鳴だ。
ばきりと鏡面が割れ、其は粉々に砕け散った。
※
同時刻、
じわり、と包帯には血が二カ所にじみ出ていた。
宇生方愛夢の姿をしたものは、ごうやふとりが作ったものではない。信多郎があれを式神にする前から準備していた、とっておきの安全装置だ。
ごうやふとりは話が通じる、だから取り引きすることは可能だろう。
だが、最終的には供物にされなければならない。そこで信多郎は、家宝の御神鏡をここで使い潰した。手痛い損失だが、みすらとの契約が完了すれば関係が無い。
残る
「若先生、もうよろしいですか?」
屋敷に詰めていた村役場(※
外部につながる道は土砂崩れで、あるいは真っ赤な激流に絶たれ、今の
「ああ、今行きます」
ふすまを開けると、ひ、と小さな悲鳴がした。
「若先生、目、痛みませんか。包帯に血が」
「おや。酷いんですか」
信多郎に自覚がないわけではない。
あの御神鏡は、庭にある祠と合わせて、みすらおがみ神社と繋がっている中継点だ。つながりが失われたわけではないが、寿命の一つや二つ削れただろう。
大勢の人を殺してしまった。身勝手な願いで、何人も、何十人も。その事実の重さ自体は感じるのに、罪悪感が一向に湧いてこない。
娘のすずめを失った時から、自分はおそらく正気ではないのだ。
「包帯を換えましょう。そのままじゃ皆さん心配しはります」
「ありがとうございます、酒井さん」
この人も八割の確率で死ぬだろうと思いながら、信多郎は微笑みかけた。
駐在所も裏巽家も同じ
遠く、乾いたものが何度か破裂するような音が響いた気がしたが、
空は変わらぬ漆黒に満ち、白い波濤の輪の中、赤い穴のような――それとも卵か、身を丸めた胎児のようなものが、じっと大地を見つめている。
車のラジオから、翠良尾瀬が孤立しているという緊急速報が聞こえた。ああ、この地はもはや、龍神の胎内なのだ。佐強は当たり前のようにそう直感する。
雨の勢いは決して激しくはないのに、道路は冠水していた。時に黒く、時に真っ赤に見える液体に沈みゆく町並みは、別世界に迷いこんだようだ。
もしかしてすべては夢で、自分は悪夢にうなされているのではないか。空間に無数の傷口が開いていくような血の雨も、八津次の死も、鴉紋の偽物も。
だが現実は、目的地への到着という形で佐強につきつけられる。
「そういえば父さん、ちょっと鞄開けてくんない? 出したい物があるんだ」
いつの間にか、鞄の中でゴソゴソ騒がしかったものが静かになっていた。直郎に頼んで開けてもらうと、出てきたのは破壊されたオルゴールだ。
陶磁器の人形も、中の機構も、何かにかみ砕かれたようにぐしゃぐしゃになっている。破片の間から鉄臭い血が漏れ、翡翠の鈴だけが無事だった。
父子は顔を見合わせ、何がこんなことをしたのか、あえて黙っておくことにする。
直郎は屋敷の裏手に車を停め、片手に折りたたんだままの傘を、片手に佐強の二の腕を握って勝手口へ向かった。扉の前で様子をうかがうと、大勢の気配がする。
「どうやら村の方々が、信多郎さんを頼ってこられているようですね」
「オヤジの殺人容疑って、もう知られてんのかな……。玄関に回る?」
村人が押し寄せたなら、鴉紋たちがふすまを取り払ってつなげた大広間にいるに違いない。信多郎もそこにいる可能性が高いので、勝手口の土間から行こうが、玄関から入ろうが、あまり差はなさそうだ。
殺人容疑がまだ知られていなければ、堂々と正面から入った方がマシだろう。父子は改めて表へ回った。その間も体を濡らす雨は、服に赤色をつけない。
ただただ赤く見えるだけの雨。これもやがて、血液に変わるのだろうか。
「おはようございます、裏巽さん」
「おはよーございまーす……」
佐強が初めて翠良尾瀬に来た時通された、左棟の和室。そこに信多郎がいるかもというかすかな幸運にかけたが、あえなく当ては外れた。
正面廊下の突き当たり、台所から若い女性と中年女性が三人ほど顔を出し「あっ」と短く声を上げて引っこむ。歓迎されている雰囲気ではない。
直郎は傘を握りしめて、佐強を背に庇った。
「あんたら、例の拝み屋やな」
いかにも力仕事が得意そうな、大柄な男たちが連れだって和室から出てくる。勝手口から回ってきたのか、玄関の方からも数人が現れて退路を塞いだ。
背を小突かれながら、二人は履き物を脱いで廊下へ上がる。
若い金髪の男性が「よこせ」と直郎の手から傘を奪い取った。挟み撃ちにされた恰好で、彼は佐強が納戸の壁を後ろに出来るよう体をずらす。
「動くなや!」
分厚い肉がばちんと音を立ててぶつかり、直郎は倒れこんだ。眼鏡が廊下を転がって、佐強は「何すんだよ!」と金髪に食ってかかる。
さすがに両手のない少年に無体はできないのか、男は殴ろうとはしなかった。代わりに「ガキはおとなしゅうしとれ!」と壁に押しつけて、動きを封じる。
したたかに頬を打ち抜かれた直郎は、声もなくうずくまっていた。白髪混じりの髪をした男が「とっとと立て、人殺しが!」と襟首をつかもうとする。
くるりと身をかわして、直郎は男の腕をつかんで投げ飛ばした。
相手はゆうに九〇キロはありそうな巨漢だ、電灯を叩き割りながら頭から落とされ、屋敷全体が小さく揺れた気がした。大男はあっけなく気絶する。
「父さん!? が、がんかじはいいの!?」
直郎は今、周囲の人間が感じる苦痛を強制的に共鳴させる
こうやって人を投げ飛ばしたら、ダイレクトにその痛みが跳ね返ってくるはずだ。相手が気絶したなら、彼も意識を失いかねないのではなかろうか。
「大丈夫ですよ、佐強くん」
直郎は息子に向けて、これからバカンスにでも行くような、晴れ晴れとした笑顔を向けた。頬は赤く腫れて、後でアザになりそうだというのに、にこやかに。
男たちが直郎を押さえに襲いかかった。
大きな屋敷の廊下だ、三、四人は横一列に並べる。そして人間は一対一より一対二、一対三と数が増えるごとに勝てなくなっていくものだ。
佐強は知らないことだったが、直郎は格闘技を身につけていた。〝赤観音〟として活動する際、対象を速やかに拉致するため、合気道や柔道の鍛錬をしていたのだ。
そして実戦でも幾度となく使った。足でまといになってターゲットを逃せば、全員の立場が危うくなる。締め、極め、投げ、なんでもやった。
同じことは今ここでも出来る。
掃き出し窓から叩き出し、腕をねじり折り、金的を潰し、つかんだ頭を自分の膝頭に打ちつけ、足を払って後続を巻きこみ、目潰しを喰らわせ、背骨をへし折る。
苦痛はあった。相手が受けた損傷が、生々しい実感を伴って直郎の全身に響き渡る。だが、気分が良い。脳が翡翠色に澄んだ美酒に漬けられたように。
骨を砕かれた絶叫が、我が物のように
己が圧倒的な暴力を振るい、嵐のように
爪が割れて剥がれる、ねじ曲げられた筋肉が骨から剥離する、意識を刈り取る衝撃が頭を貫通してなお、直郎は目を覚ましたまま夢を見ていた。
「は、は、あははははははははっははっはっ!」
気分が良い。痛い、苦しい、生きている、命は重く、体は軽い。
これまで生きていて感じたことがなかったほど、後ろめたさもやましさもなく、ただただすがすがしい爽快感と充実感に、初めて心の底から笑える気がした。
全身に力が充ち満ちている。頭蓋の底からまばゆい光がはじけ、額までほとばしった。世界がきらきらと輝き、目に映るすべてがこれまでにない実在感を持っている。
これを破壊したら、その手応えにまた自分は酔いしれるに違いない。すべて壊してしまおう、暴力こそ生命の本質なのだから。
何もかも役立たずにしてしまえ、破壊の後に残るのはお前自身だけだ、世界とはそうやって己を認めさせる場所。席が既に埋まっているならば、座っているものを叩き潰せばいい、簡単だろう? 破壊の反対は創造ではない、侵略だ。
生命には生命を、暴力には暴力を。生きとし生けるものすべてはそのルールで動いている、だからお前はそれに先んじろ。痛みを受け容れた圧倒的な力によって。
命の法悦を知るがいい。
「父さん!」
佐強が二の腕を壁についてバランスを取りながら、直郎の足を蹴飛ばして呼びかけていた。それも一度や二度ではない、この子は何度も自分を呼んでいた。
直郎の手は佐強の胸ぐらをつかんでいる。そこから何をするつもりだった? 投げるのか、首を極めるのか、締めるのか、折るのか? かけがえのない息子に。
悲鳴と呼気が喉の中で炸裂し、直郎は音を外した笛のような声を出した。
――苦は楽と異ならず、楽も苦と異ならず、苦即ち楽なり、楽即ち苦なり。故に噛むも噛まるも同じこと。汝
がんかじに目をつけられた時、聞いた声を思い出す。そうだ、いかに香を聞いていないとはいえ、あれから何日も経っていた。祟りが進行するのは当然だ。
最初から答えはあった、「苦すなわち楽」。犠牲者は初め、周囲から受け取る苦痛に苦しむが、やがては抗いがたい快楽にすり替わる。
最初にがんがじに噛まれた
あたりには何人もの男たちが目から血を流し、吐瀉物にまみれ、手や足をおかしな方向に曲げて、廊下や庭や座敷に転がっていた。
うめき声が少ないのは、気絶しているからか、死んだからか。直郎の体に甘くうずく痛みが、とりあえず生きているものがいると知らせている。
自分は何ということをしてしまったのか。自身と佐強を守るためには多少は仕方がないとはいえ、これは明らかにやり過ぎで、そこには何の正義もない。
「佐強、くん。わたし、は」
息子を見ると、その顔にも目にも心配と困惑がうかがえ、軽蔑の色はなかった。そのことに安堵する一方で、無念な気持ちが同時に起きる。
「父さん、もしかしてがんかじにやられたせい?」
「……佐強くんは、賢いですね」
気がつけば自分の手は、血と
――あかかおん!
何度も聞いた吠え声がとどろき、鼻の奥までこびりつく
直郎は反射的に、佐強を逃そうとして凍りついた。そのあかかおんが被っている仮面は狐ではない、般若だ。つまり、これは鴉紋に用意された席。
「待てッ」
黄ばんだ牙が佐強の襟を引っかけ、奥へ引っこんだ。追った先は見慣れた大広間だ。そこには信多郎の他に
「ここにおった人たちには、二階へ避難してもらいました」
のんびりとした口調で告げる信多郎は、佐強の喉を腕で抱え、包丁を突きつけていた。両眼を覆う包帯は血で真っ赤に染まっている。やはり、彼も必死なのだ。
「分かるやろう? 鴉紋さんは死んだ。あとはもう、あんたと佐強くんだけ。僕は子供が死ぬのは耐えられません、もう分かっとると思うけど、すずめちゃんみたいなことは、たくさんや。そやさかい、直郎さん、死んでもらえます?」
「ふっざけんな!」刃先を気にしながら佐強は怒鳴る。「村中で人が死んだのも、あんたが何かやったせいだろ。いくら自分の娘を生き返らせたかいからって、無茶苦茶だよ、あんた! 信じられねえ……このクソバカ野郎!」
「無茶苦茶だったら、何かな」
信多郎の包帯のシミが大きくなる。布目から赤い滴がもりあがり、ぼたりと佐強の肩を濡らした。はらりと、ひとりでに包帯がほどけ、空の
佐強も直郎も、言葉を失った。そこには顔が歪まないよう、綿が詰めこまれていたはずだ。暗く虚ろな穴からは、
もはや裏巽信多郎は、人間や狂人といった枠を飛び越えている。人魚たちと同じだ。どうやって対決すべきか考えるまでもなく、向こうから要求が出された。
「さあ自害しろ
「がんかじの祟りも苦しくなってきたやろう? 佐強くんは命も、それ以外も助ける。だから安心して死ね!」
「罰されたかったんでしょ? ナオちゃん」
ああ、これが本物の鴉紋なら、あれは終わったことだと打ち破って、抵抗して、佐強を助けようと迫ったに違いない。信多郎の「子供が死ぬのは耐えられない」という言葉に賭けて、佐強を傷つけはしないだろうと判断し、行動する。
直郎にはできない。〝赤観音〟の掟を破ったとはいえ、自らの手で殺してしまった兄弟を、十七年つきあった友人を思い出して、罪悪感でがんじがらめだ。
自責が胸を抉り、さらに深くを
だから刃先が喉に埋まっても。
それが横へ滑っていっても。
管のようなものが引き裂かれるのを感じても。
直郎は自分の命が服を汚し、畳を汚し、翠良尾瀬という土地に広まって神へと捧げられるのを、黙って見ていることしかできなかった。
佐強の目の前で、世直郎は喉を切り裂かれ、次に胸を切り開かれ、みずみずしい心臓までもが抉り出されて。裏巽信多郎は満願成就を
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