第四滴 のとさまが、来る。

とおあまりいつつ 貼りつけ、剥がし、見える見える見た

 蔦ヶ野の結界を抜けると、空が白々と明けていた。

 鴉紋あもんがここに来たのは夜八時過ぎだったはずだが、赤い羊水に飲みこまれたせいか、自分たちの時間感覚はすっかりおかしくなっていたらしい。

 同時に信多郎しんたろうのスマホがけたたましく鳴る。彼は失明して両眼に包帯を巻いているため、アプリの音声案内に従い、もたもたと操作した。

 着信はどれも香西ヘルパーからのもので、誰も戻ってこなくて困っている、すずめを一人にできないから裏巽うらたつみ家に泊まる、という旨の留守電だ。


 八月三日、人魚狩りの期限まで、残り三十夜。

 を一匹やったはずだが、佐強さきょうも信多郎も、家で寝ていたすずめにも、特に変化はない。あれほど手強いものを、これから何度相手にしなくてはならないのか。

 あえて、誰もその不安を口にしなかった。


 赤い羊水の跡はと共に消え、服には少々の土汚れや草葉だけが戦いの余韻を残していたが、どことなく気持ちが悪い。

 裏巽家に戻ると、それぞれ汗を流し、仮眠を取り、朝食の時間になった。


「ほーらサッちゃん、お肉だよー。お食べ」

「へいへい」


 八津次はつじは取り分けた豚バラと里芋の煮物を箸でつまみ、スッと息子の口に入れる。佐強はある種の悟りを開き、給餌/食事介助を大人しく受け容れていた。

 朝食は昨夜、鴉紋が夕食の材料にしようと思っていたものだ。

 煮物の他に焼きナス、合わせ調味料のかに玉が並ぶ。すずめは起きるなり、「さびしかった!」とぷりぷり怒っていたが、今は朝ご飯に夢中だ。


 佐強は昨夜対峙したのことを思うと、一見のどかな翠良みすら尾瀬おぜに、どんなおどろおどろしいものが隠れているのかと恐ろしい。

 腹の底がぽっかり抜けて、あばらの間をぴゅうぴゅうと寒風が吹くような心地。その不安が、落ち着きや余裕といった心の温度を吸い取ってしまう。

 風呂上がりの髪が緩やかに乾き、胃腸が栄養を消化する、何一つ不自然さのない日常と自然の流れ。だが、そこには確かに怪異なるものが関わっていた。


「佐強くん、大丈夫ですか?」


 表情に暗澹あんたんたる気持ちが出ていたのか、直郎ちょくろうが優しげに訊ねる。眼鏡の奥の瞳は温和で、声は冷えた心をくるむ毛布のように温かい。

 彼も昨夜はひどい目に遭ったというのに、どこからその心遣いは来るのだろう。親心というやつだろうか。

 直郎はきっと、佐強が彼に恨まれるようなことをしても、怒りつつ許してしまうに違いなかった。言われずとも、豊かな愛情の海が裏側に透けている。


「ん、へいちゃらへいちゃら。昨日はほんと危なかったけど、次はもっと上手くやれるでしょ。それより、オヤジの手の方が心配だよ」


 にへらと笑って誤魔化し、佐強は話をそらした。

 実際、裏巽家の救急箱で処置したものの、鴉紋の手は焼けただれたままだ。今日はこの後、村の診療所で治療を受ける予定になっている。

 利き手がやられたというのに、逆の手でコーヒーミルを回し、朝の一杯を確保したのは見事な執念だ。しかし、箸は使いずらそうにしている。


「そういえば裏巽、使鬼しきせんだったか。そいつが焼けたのは何だったんだ?」

「手投げ弾を握って殴ったら、拳がはじけてもおかしないんよ」


 鴉紋の疑問に対する解答は、明快にして簡潔だった。


「今回はぼんのくそ※ただの方言です……運がええかったさかい、それで済んだんやろうが。本来は佐強くんのようにの儀をなす者だけ持つか、投げて使うかなんよ」


 今になって背筋が寒くなる話だ。鴉紋は下手したら、火傷どころでは済まなかったのかもしれない。自分が先にを倒せていれば、と佐強は唇を噛む。


「次からは、何が何でも握って使わんといてくれや、宇生方うぶかたさん」

「言われるまでもねえよ」


 信多郎と鴉紋の会話を横に、佐強は忸怩じくじたる思いを抱いたが、代わりに先ほどまでの恐怖は去っていた。次を考えられるなら、自分はまだ戦える。

 龍神の祟りと人魚の呪い、どちらも終わらせてやろうじゃないか。



 神島かみしま市立神島市民病院。

 市名を冠するわりに市内でも特に寂れた駅前に、広々と土地を使った箱が建てられている。市役所もここも、市町村合併の後に気合いを入れて改築したそうだ。

 鴉紋が手の治療に行っている翠良みすら尾瀬おぜ診療所も、神島市民病院に属する。


 八津次は鴉紋から借りた車を、病院の駐車場に停めた。食料品と消耗品の買い出し、みすらおがみ神社で使鬼銭の買い占めという口実で、こっそりと。

 目的は、ここに入院している裏巽和泉子いずみことの面会だ。彼女はすずめの母親、信多郎の姉にあたる人物で、半年ほど前から病で伏せっているとのことだった。


 鴉紋はとの戦いで少しは信多郎を信用したように見えたが、それはそれ、これはこれというわけだ。いつの間に病室番号まで調べ上げたのやら。

 義兄の手際に感心しつつ、八津次はふらっと病院のロビーへ入った。サングラスを外し、アロハシャツの襟元に引っかける。

 真正直に面会手続きなどしない。何食わぬ顔で廊下を曲がり、八津次は誰もいないエレベーターに乗りこんだ。


「ここで一句。酒呑みたい、ああ酒呑みたい、酒呑みたい」


 季語も五七五もないが、しょせん独り言である。

 持ってきた酒類はこの二日で飲みきってしまった。神島には凪乃露なぎのつゆという地酒があるそうなので、帰りに買ってみようと思う。

 それに鯖の押し寿司だ。翠良尾瀬は、かつて若狭国小浜と京都を横断する〝鯖街道〟の一部であり、街道筋として栄えた歴史がある。


 そこで鯖の押し寿司が名物の一つとなっているのだが、鴉紋が以前買ってきたものは非常に美味かった。シャリを丸く包むように肉厚の鯖が乗り、酢で締められた青魚の旨みと、鯖特有の脂がさっぱりしつつもコクを与える。

 などとお気楽なことを考えながら、八津次は裏巽和泉子の病室とは別の階で降りた。人生、何事も最短距離なら良いというものではない。

 気まぐれの寄り道こそ大切というものだ。


 これだから鴉紋も、本来は八津次に任せたがらなかった。翠良尾瀬診療所は裏巽家から歩ける距離にあるが、彼は車の運転ができる怪我ではない。

 加えて、生身で使鬼銭を使用した消耗は激しかったらしく、今日一日は動けそうもなかった。

 直郎は佐強ともども、すずめの昼ドラおままごと――愛し合った二人は生き別れの姉弟という設定――に捕まったので、消去法で八津次が行くことになったのだ。

 情操教育は大丈夫なのか。


 廊下を無目的に歩いてみるが、無駄に広く、新しい感じがするだけで、特に面白いものはない。が、あるかどで妙な空気が八津次の感覚に引っかかった。

 色で言えば茶色、匂いならタバコと泥、かゆみやヒリヒリした感触に似た、およそポジティブではないが好奇心を刺激する気配だ。


(ああ、だからボクはここでエレベーターを降りたってワケね)


 他人は八津次のこうした勘をほとんど理解しないが、自分自身でも説明できないのだから仕方がない。ただ、それに従うとだいたい何かが上手く行くのは確かだ。

 病室が並ぶ通路、一部屋一部屋、気配がより濃い方を探って歩いて行くと、廊下の終わりに突き当たる。部屋の名札には「来足千乃」とあったが、読めない。


(くるあし? 地元の人なら読める名字なのかね?)


 プレートからすると個室のようだ。幸い、扉は細く開いていた――あるいは、この隙間からもれ出た気配を、八津次がキャッチしたのかもしれない。

 扉に顔を寄せれば、すすり泣きと、泣き枯らしてしゃがれた女の声がした。そら、予想通りだ。目当てのものを嗅ぎ当てた犬は、きっとこんな気分だろう。


 通路は整然として静粛で、人通りはない。八津次は室内を覗きこんだ。

 白い部屋の中、手前にある洗面台の鏡が、どういうわけか絆創膏ばんそうこうで一面を覆われている。見たものがすぐには理解できなかった。

 バンドエイド、カットバン、サビオ、リバテープ、呼び方は何でもいい。とにかく茶色い粘着テープと不織布のパッドがついた、どこにでもあるあの衛生用品だ。

 それが隙間なく鏡面を覆って、使えないようにしている。子供のイタズラと思うには、乱雑な貼り方に強迫観念じみた焦りと執念を感じた。


「……さま、


 部屋の奥で中年女性の声がする。八津次がさらに顔を近づけると、ベッドの上で声の主が顔中に絆創膏を貼りたくっているのが見えた。

 布団や床の上には絆創膏の空き箱と紙ゴミ、そして剥がされて歪んだテープが散乱している。女は何事かもごもごとつぶやきながら、目に、額に、頬に、肌が露出しているところから既に絆創膏が貼ってある所まで、構わず貼って貼って貼り重ねた。


「お許しくださイ……おユるシクださいィ……」


 鏡をあんな風にしたのはこの「来足千乃」という女なのだろう。鼻が覆われて呼吸も苦しそうだが、千乃はすすり泣くと、ガリガリと顔面を掻きむしった。

 いや、かゆくて掻くという動きではない、指の一本一本でまとめて絆創膏を剥がそうとしている。一枚一枚つまんで引っ張った方が確実だろうに、そうではないから女は苛立たしげに頭を振った。パサついた黒髪が、あたりのゴミを吹き飛ばす。


ァ……」


 千乃がくり返す言葉はどこか音程が狂っていた。はて、ここは心療内科患者の病棟だったのだろうか。それにしては、八津次はあっさりここまで来れた。

 おそらく、ああやって貼っては剥がしをくり返しているのだろう。変なものを見たが、これ以上得ることもなさそうなので裏巽和泉子の元へ行かなくては。


 部屋から離れようとした時、ふっと視界の隅に何かが映った。右でも左でもない、もっと下の方――自分が襟元に下げているサングラスだ。

 レンズに何かついただろうかと指でもてあそぶと、ふとした角度で来足千乃の姿が映りこんだ。それを見て、八津次はようやく理解する。


(妖怪だの神さまがいりゃ、こんなこともあるよね)


 レンズに反射する女の顔は、絆創膏まみれの顔ではなく、溶けて崩れたのっぺらぼうだった。たぶん、千乃にはこれが見えているのだ。

 絆創膏が何の役に立つかは知らないが、何かの報いで祟られたのか、それとも呪われるだけの業があるのか。それが佐強のように自分の責ではないとしたら気の毒なことだが、どうにかしてやろうとは思わなかった。


 エレベーターへ引き返し、今度こそ裏巽和泉子の病室へ向かう。鴉紋はご丁寧にもアルバムを漁り、和泉子の写真を撮って八津次のスマホに共有させていた。

 彼女の隣に並ぶ信多郎は、まだ包帯を巻く前の素顔だ。前から薄々思っていたのだが、信多郎と直郎は顔や雰囲気が似ている。


 黄色い声が上がる分かりやすい美形ではないが、ちょっと親しくなった程度の女をズブズブに依存させそうな……。

 あるいは、流されて複数の女生徒と関係を持ってしまう教師のような……。いわゆるエロ漫画に出てくる教師キャラの、最大公約数的な面構えだ。


 そんな評価を直郎に話したら、かなり真面目なトーンで叱られた。まあそうだろうが、八津次としては本音でそう思っている。

 そして信多郎も、その点では同系統の顔をしているのだ。

 今は失明で休職状態だが、高校教師ではなく小学校教諭で良かったのではなかろうか。果てしなく失礼なことを考えながら、エレベーターを降りる。

 目当ての病室はすぐ見つかった。六人部屋の一番奥だ。


「どうも、裏巽和泉子さん? お兄さんの信多郎さんにお世話になっています、松羅まつら八津次と言います。少しお話、いいですか~?」


 返事を聞かずに八津次はスツールを引きずって腰かけた。和泉子は長く髪を伸ばした女性で、三十歳前後……おそらく八津次より若いはずだ。

 読書中だった彼女は、気の強そうなアーモンド型の目を書面から上げ、片眉を持ち上げた。「どちらさまですか?」と硬い言葉が吐き出される。


 信多郎がくすんだ灰色なら、この女は鮮烈に自己を主張する赤だ。レースやフリルより、ピンストライプのスーツなどが似合うだろう。

 血で育てられた薔薇を、白と黒で飾り立てればモデルの一つも務められそうだ。

 しかし八津次は性的な興味など端からない。単刀直入に行く。


「翠良尾瀬で龍神さまの祟りが始まって、の儀をやり直さないといけないんですけど。和泉子さんの裏巽家は神主の家系ですよね。お話をうかがいたいんです」

「……祭りが失敗したってこと!?」


 和泉子は本を置いて話に食いついた。八津次に対する不信感と警戒心を、好奇心が上回っている。


「え、ご存じないー? つい三日前なんだけど」

「娘がいるの、すずめっていう八歳の女の子。どうしているか知っている?」

「神さまに両足取られちゃったよ」


 こういうことは軽々しく言わず、慎重に切り出すものだと鴉紋も直郎も、一度ならず説教したものだ。しかし自分は、どうしても取り繕うという気にならない。

 ただ八津次は和泉子の反応と、成り行きを見守った。

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