とをあまりむつ 行きて戻りて、やがて来たる

 裏巽うらたつみ和泉子いずみこの大きな瞳にかっと怒りが灯るのを見て、この女はやはり事情を知っているのだ、と八津次はつじは確信した。

 娘が両足を奪われたと聞かされて、嘆きも動揺もせずまず怒る。単に悪趣味なジョークを聞かされて怒った? いいや、いいや!


「……どうして、娘は足が?」


 彼女の目が焦点を当てているのはもっと別の場所だ。誰が、なぜ、どんな理由でそれを起こしたか、祟りと呪いについて裏巽和泉子は把握しているに違いない。

 八津次とてデリカシーというものを知っているが、あえてそれを捨てたのは正解だった。あとはいかにこの女から、ことの次第を聞き出すかだ。


の儀が失敗して、龍神さまの祟りだって聞きましたよ。弟の信多郎しんたろうさんも両眼を取られたし、うちの息子の佐強さきょうくんは両手。それで困ってるってワケ」

「祟り?」


 和泉子は「そんなバカな」を言い換えたような、意外そうなトーンで言った。


「誰かが切ったとか、抉り出したとかではなく?」

「こう、スパーンと」八津次は手刀で自分の手首を叩いて見せる。「手足の断面がね、真っ平らなの。人間業じゃありませんよ」

「そう。そういうこと」


 和泉子は布団を握ってうつむく。後半は何かを己に言い聞かせているようだ。


「で、の儀をきちんとやり直せれば……つまり翠良みすら尾瀬おぜのあっちこっちにいるを退治していけば、三人の体は元に戻るって弟さんに教えられまして~」


 さあ、知っていることを話してくれ。八津次ははやる気持ちで事情を説明する。

 こういうことをヘラヘラ笑いながら話すと心証が良くないらしいが、じゃあ他にどうすればいいのか、自分にはよく分からない。いいじゃん、ぜーんぶ笑顔で。


「祟りを鎮める儀式が、呪いの儀式かなんかじゃシャレにならないでしょ。実際どうなんです? 裏巽和泉子さん」

の儀をやったのは、弟の信多郎でしたか」


 顔を上げた和泉子は、関西弁のトーンを残した標準語でしゃべった。「そう聞いているよ」と簡潔に答えると、再び彼女はうつむいてしまう。

 五秒、十秒、沈黙は思ったより長い。


「これ、ボクの想像なんで勝手にくっちゃべるんですけどー」


 一分を超えたあたりで、八津次は黙るのをやめてスツールから立ち上がった。ポケットに手を突っこんで、ぶらぶらとベッドの前を行き来する。


の儀って、要は人魚って呼ばれる人を生け贄にする儀式でしょ。人間を殺すのがやましかったから、名前も〝つぐない〟のアナグラム。三人はなぜだか今回、人魚役に選ばれた……で、選んだのは本当に神さまかなあ?」


 和泉子は静かに手のひらを立て、黙れストップとジェスチャーした。適当を並べていたが、話す気になってくれたなら良いことだ。

 カーテン越しの夏陽を受けて、和泉子はばらけた心をやっと束ねたというような、落ち着いた横顔をしていた。


松羅まつらさん。あなたは息子さんの両手を取り戻したい、ということで良い?」

「もっちろん」ダブルサムズアップで強調。

「なら、弟の言うことを信じてください。退治を続けて、神さまが満足なされれば、確かに奪われた体は返ってくる。むしろ、それ以外助かる道はない」


 へえ、とうなずきつつ、八津次は更にいくつか質問した。三十三夜という期限、三つの神具の存在、の存在と、失敗すれば佐強たちも異形と化すこと。

 和泉子の返事はすべて肯定Y e s。収穫がない――いや、一つ裏付けが取れたと考えていいのだろう。鴉紋あもんはこれからも調査を続けるに違いないが。

 しかし、これがすべてではないはずだ。


「いや~、有意義なお話ありがとうございます」


 八津次は青い頭を深々と下げ、スマホを取り出した。


「出来れば今後もお話をうかがいたいので、連絡先の交換お願いできますか?」

「……だったら、条件が一つ」


 和泉子の表情が静かに深刻みを帯びる。


「信多郎を信じてください。弟もすずめを助けるのに必死なんです、あのは……とても危険な状態にいて、いつ、すべて取られてしまうか分からないから」


 裏巽信多郎。白か黒か曖昧なグレーの青年を信じろというのが、身内の言葉というのは八津次には軽い。だが信じる振りぐらいはしてやろう。

 しかし、すずめについて聞き逃せない箇所があった。


「危険ってまた、どういうことかな?」

「すずめは半年前、神隠しに遭っているんです」



 和泉子と連絡先の交換を終え、八津次は引き上げようと一階ロビーへ降りた。この後は買い出し仕事が残っているが、なかなか話しこんでしまったものだ。

 山あいの翠良尾瀬は市内でも豪雪地帯で、春が来るのが遅い。そんな雪の日に、遊びに行くと出かけたすずめは、それから丸一日帰って来なかった。

 彼女を連れ帰ったのは叔父の信多郎で、真っ青な少女を抱いて山から下りてきたと言う。その後しばらく入院したが、心身ともに別状なし。


 すずめには、家を出た後の記憶が一切残っていなかった。信多郎に連れ帰られたこともよく覚えておらず、病院でふと意識を取り戻してびっくりしたくらいだ。

 軽度の低体温症にこそなったが、すずめは医学上はまったく問題がない。だが、同じ屋根の下で過ごす和泉子には、違和感があった。

 何がおかしいのか、彼女自身も説明に困っていたのは一目瞭然。しかし、自身の体調不良も、両親の病死も、すべてその日を境に発したというのが和泉子の主張だ。


 ただの偶然と片付けることもできる、が。

 八津次は翠良尾瀬に来るまで、裏巽すずめという人間を知らなかった。神隠しに遭う前と遭った後が分からなければ比べようがない。

 村へ来る途中、元から知っていた那智子なちこの姿を取ってアレが現れた時は、即座に「違う」と分かった。だが、初対面の人間相手では騙されるかもしれない。


 問題の龍神が他人の姿に化けられることは、すでに分かっている。だが神隠しに遭ったすずめが龍神みすらに成り代わられたとして、なぜ動くのが今なのか。

 人魚供養祭があったから、というのが一番丸い気はする。しかし和泉子の言いようだと、成り代わられたのとは少々違うらしい。

 彼女は神に目をつけられた状態で戻された、あるいは心の一部をあちら側へ置いてきたまま、というニュアンスを強調した。


 これ以上のことは鴉紋たちと相談した方が良い。これから買い出しという重要任務も仰せつかっているし――そう、酒! そして鯖の押し寿司!

 八津次が思索を打ち切って意識を切り替えた瞬間、そこに隙間ができたのだろうか。すべり込んで来たのは平凡な、何の変哲もない音だった。


 コン、コン、と。扉をノックする音。それだけだ。


 ただ茶色くて、タバコと泥のような匂いがして、ヒリヒリとかゆい。「来足千乃」の病室から流れてきた気配が、音の源からただよう。

 八津次がそれを追って脇を見やると、そこには扉や部屋はなかった。代わりにあったのは、ロビーの一角を占める姿見だ。


(鏡って、心霊現象の定番だよね)


 近づいてみた所で、鏡像におかしな所はない。どうせなら面白いことしてみせろよ、と八津次は歯を剥いて笑って見せたが、やはり何も起きなかった。

 コン、コン、とまたノック音がする。どうも鏡の裏から聞こえてくるようだ。いや、ここはもっとオカルトに考えてみよう、鏡の中の世界から聞こえるのだ。


「入ってまーす」


 八津次は鏡面をノックし返した。

 ちょっと待ってみたが、何も起こらない――いや、「来足千乃」の元にあったのと同質の気配が、消え失せている。どうやらこれで終わりらしい。



「何でそういうことをしてしまうんですか、八津次さん……!」

「とーちゃん、ホラー映画なら自業自得で死ぬタイプでしょ」


 昼下がり。裏巽家に戻り、ちょっとした心霊現象の話をすると、直郎ちょくろうと佐強はそろってあきれ顔になった。に比べれば、さほど脅威に思えないのだが。

 信多郎に黙って裏巽和泉子と会う件は、すでに一家四人で共有してあった。


「絶対なんか憑かれたんだよ、それ。オレ使鬼銭アタックしようか?」


 言いながら、佐強は神具の古銭をこちらの額に当ててくる。

 ひんやりした感触に、ああ、存在しない手はそこにないから、握りっぱなしでも冷たいままなんだなあと感慨があった。形も体温もない、土もこねられない手。

 クソが。苛立ちにいっそう、八津次は口を大きく開けて笑った。


「わはははは! 分かってないねー、これは『釣り』なの。このへんで起きる怪奇現象はとりあえずなんでしょ? で、いちいち言い伝えとか調べてそいつら呼び出すおまじないとかするよりは、自分から怪しい所に突っこむべきでしょ」


 今思いついた理屈を語ると、佐強も直郎も「確かに……」と異口同音にシンクロした。あっさり騙されおって、可愛いやつらめ。しかし我ながらこの考えは悪くない。


「ところで、鴉紋ちゃんは?」

「まだ寝ています。相当お疲れみたいですね」


 警察官というものは過酷な職業で、定時という概念こそあるものの、事件があれば拘束時間はたちまち延びる。

 かくもダーティな仕事を二〇年近く務めている鴉紋は、当然ながらタフだ。ワーカーホリック系の持久力と、鍛え上げた肉体が無尽蔵とも思える体力を持っていた。

 それがずっと寝こけているとは、真夏に雪でも降りそうな珍事ではないか。


「鴉紋ちゃんにおっぱいアイスでも買えば良かったかな」

「サイズが小さいから無理でしょう」

「ヘッドロックされるよ、とーちゃん」


 買ってきた食料品と消耗品、そして使鬼銭は三人で手分けして運んだ。佐強に両手はないが、肘から上は残っているので、小脇に抱えられるものは持って行く。

 今の体でも、使える部分は使った方が本人のためにも良い。信多郎は居間で、また訪ねてきた村人と話しこんでいるそうだ。すずめは絶賛お昼寝中。

 片付け終えた三人は、鴉紋を起こさないよう佐強の部屋に集まった。


「しかしさあ、とーちゃん。異能バトルものだったらさ、相手の能力の発動条件満たしたらヤバいんだよ。もきっとそうだって」

「〝のとさま〟という名も例の本に載っていましたからね」


 直郎はすでに『翠良尾瀬村民俗誌』に記載された妖怪を、一通り記憶してしまった。さすが常日ごろ聖書を熟読し、ほとんど内容をそらんじている男だ。


「へえ、それどんなヤツ? ナオちゃん」

「それが……妖怪ではなく、福の神として書かれているんです」


のとさま【呑さま】

 屋敷神の一種。鏡を依り代とし、その家で最も高貴な場所に飾られる。

 新年を迎える時、当主が鏡を軽く叩いて呼び出し、手厚くおもてなしすることで一年の福をもたらした。一方で、もてなしが不充分であると祟りを受けてしまう。

 のとさまの怒りは恐ろしく、少しでも怒りを鎮めるため、これを祀るK家にはいくつもの封印された鏡があった。

 しかし鏡をそのままにしておくと、祟りは子孫に引き継がれていくという。


「このK家って、病院の〝くるあし〟さんじゃない?」

「決めつけは禁物ですよ、佐強くん」


 直郎はそう制したが、十中八九K=来足だろうと八津次も確信した。しかし封印というのは、あの絆創膏だらけの鏡だろうか。


「絆創膏で、神さまの祟りがどうにかできるのかね。本には書いてなかった?」

「ないですね」

「だいたいさー」麦茶をストローですすり、佐強は文句を言う。「その本、もぜんっぜん大事なこと書いてないじゃん」


 著者は「雪見野ゆきみのひとし」。

 京都府内の七守道ななかみどう市七守道大学で民俗学の教授をしている、とWikipediaにあった。七守道の郷土史に詳しいらしいが、翠良尾瀬は専門外か。

 直郎は残念そうにため息をつく。


「信多郎さんの書斎や書庫を少しずつ調べているのですが、他となると和綴じの時代がかった本ばかりになりまして。あの崩し文字を判別するのは厳しいかと」

「つーかこの家、本多いよね。信多郎さん神主だからかな?」

「部屋の数も壺もお皿も何でも多いよ、この家」


 和泉子から聞いた話を一旦置いて雑談をしていると、すずめが目を覚まし、またしばらく彼女に付き合うこととなった。


――すずめは半年前、神隠しに遭っているんです。


 マジックと画用紙で、八津次らの似顔絵を描くすずめは、どう見ても普通の子供に見えた。ふと佐強の幼いころを思い出すくらいには。

 ふざけるなよ龍神。

 足の他に、この子が何か神さまに何か取られているというならば、八津次はそれも取り戻してやりたかった。ああ、まったく、クソ食らえだ!

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