とおあまりななつ 灰白質の宇宙を慾に染め

 夕食はビワマスの刺身を中心に、ナスの味噌炒めやピーマンの塩昆布和えといった、もらいもの野菜消費献立となった。

 ビワマスは名前通りびわ湖の固有種で、身はサーモンに似た魚だ。何でも昼間に信多郎しんたろうを訪ねたオヤカタサマが、尾頭おかしらつきで土産に持ってきたという。

 さばいて刺身にしたのは鮮魚店だが、裏巽うらたつみ家がいかに村で敬われているか分かろうというものだ。そのうち近江牛も出てくるかもしれない。


「ほらサッちゃん、刺身お食べー」

「とーちゃん、ワサビもうちょい減らして」

「はいはい」


 両手がないと、細かい薬味の調節もできず不便なものだ。佐強さきょうの口にビワマスを一切れ放りこんで、八津次はつじも刺身を頬ばった。ワサビと醤油ではなく、軽く塩で。

 トロのようにたっぷり乗った脂が舌の上でとろけ、淡い紅色の身が口の中でほどける。鮮度が良いのはもちろんだが、ただのますと侮ってはいけなかった。


「うっま! 淡水魚ってもっと泥臭いイメージだけど、このビワマス滅茶苦茶うまいじゃん」ぐいっとお猪口の地酒をあおる。「最高~~!」

「声しか聞いたことあらへんけど、八津次さんはいつも美味しそうに食べるなぁ」


 両眼に巻いた包帯の下で、信多郎は口端を上げる。


「うん、ボク食べるの大っ好きだからね。いやー、シンちゃんの役得様々だよ。鴉紋ちゃんもさー、コーヒー以外にももっと食にこだわり持と。リアクション薄い!」

「ほっとけ」


 鴉紋は日が落ちかけたころ、気怠けだるげに起きてきた。

 裏巽和泉子いずみこから聞いた内容、彼女と連絡先を交換したこと、病院で出会った怪奇現象については、すでに一家四人で共有している。

 古書を漁って〝のとさま〟について調べたが、おもてなしの件といい、特に収穫はなかった。今日できることはもうないだろう、というのが鴉紋の結論だ。


「とーちゃん、オレも刺身、塩レモンで」

「いいねいいね、八王子じゃ多分食べらんないよコレ。いっぱいお食べー」


 家主に対して秘密を抱えながらも、食事は和やかに進む。それでいい。

「好き嫌いせず食べなさい」と言われるまでもなく、八津次は何でも食べる子供だった。道ばたのタンポポから、川で釣ったザリガニ、山で取った謎のキノコまで。

 一回青カビを舐めて怒られたが、「青カビのチーズがあるのになぜダメなのか」と長い間解せなかったものだ。味はほんのりしょっぱかったと思う。


    コン、

 もちろん腹を壊したり、体調を崩したことも数え切れないほどあるが、それでもまったくりなかった。生きていることは、何よりもまず感じることだ。

 味、食感、香り、音、色、温度。食べるのも音楽を聴くのも踊るのも物を作るのも、セックスするのもドラッグをキメるのも好きでたまらない。

 欲深いのは分かっている、だが、それの何がいけない?

 人間は老いぼれ、体が利かなくなってくると、自分自身の脳に閉じこめられる。いわば灰白質かいはくしつでできた、ひとりぼっちの宇宙だ。

 その時、どれだけ良い思い出を持っているかが重要ではないだろうか。


        コン。

 己が肉体を使いこんで、きちんと人生に満足して死ぬ。それが八津次の目標で、できれば周囲の自分が好きな人々にも、楽しい人生を送ってほしい。

 薬物に関しては鴉紋にキツく言われて辞めたが、それまで充分に楽しんだからいい。那智子なちこが亡くなった後、彼女に操を立てつつ性欲を発散するため、同性のセックスフレンドを作った時も、みんな文句を言わなかった。本当にいい家族だ。


 コン、コン、コン、コン。


 ノック音が、バラエティ番組を映すテレビ画面から響いた。いつからか続いていただろうそれに、皆が皿をあらかた空にしたころ、ついに無視できないほど大きく。

 全員の視線が集まったのを察知してか、映像が切り替わった。真っ黒な背景に、無表情な顔をした松羅まつら八津次自身が、画面いっぱいに。


 こうしていると、普段の自分より端正に見えるなと考えている間にも、音は続く。信多郎に対処を訊ねようとした時、鴉紋がテレビの電源を切った。

 操作が効かない、などということもなく、素直に画面がブラックアウトする。そこは油断させて、もう一度バーン! とかじゃないのか。

 すずめはくりっと小首を傾げた。


「はっちゃん、なんでテレビ出てたの?」

「イイ男だからじゃない?」

「アモさん、テレビつけて! はっちゃん見たーい」


 鴉紋はしばらく迷っていたが、「はやくー」と急かされ、電源を入れざるを得ない。すると『いやー、よしこちゃんおっきなって』という台詞のコマーシャルが映しだされて、食卓ににぎわいが戻った。仏壇の宣伝らしい。


「あれー。はっちゃんいないね」

「出番終わっちゃったかなー、あはは」


 それ以上誰も言及せず、夕食とその後片付けが終わると、すずめと香西ヘルパーを抜きにして話し合いとなった。


「八津次さん、にやられましたね」


 やはりか。さて、鏡からのノックに出会った経緯をどう適当にでっちあげるか――と八津次は考えたが、それはすぐ杞憂に変わった。


「昼間、オヤカタサマが訪ねてきたでしょう。来るに足と書いて来足きたりさんと言いまして、そこで祀っとったに、家の者が祟られたって相談されたんですよ」

「マジで?」


 そこでそう繋がるのか。八津次は佐強や兄弟たちとそっと視線を交わし合った。信多郎は霊視は出来ても、こちらの細かい表情まで読み取れない。


「こちらに来たということは、祟られたご当人はもう、手遅れなんやろう」

「亡くなられた、ということですか」


 直郎ちょくろうがややこわばった声で問う。人魚實にんぎょざね――家の守り神として祀られたは、出自が古いため野良のより強力だと、以前信多郎は説明した。


「いや、死んだ方がマシな状態です」


 人を殺すのは神さまで、人をこわすのが怪異と呪いなんです――と信多郎は続けた。


は、決まった日時に鏡を打って呼び出し、おもてなしすることで福をもたらすというにしては珍しく、善良な方でして。しかし一度怒りを買うと、無礼者から目や鼻、人間の知覚能力を一つずつ奪っていくんですね」

「つまり、ほとんどの化け物どもは百害あって一利もねえんだな」


 先日のでかなり酷い目に遭ったらしい鴉紋は、ことさら不機嫌そうにつぶやく。「そんなモンを利用しようって気がしれねえな」とも。


「うんうん、人間の業ってヤツだねー」


 したり顔でうなずいていると、直郎が「八津次さん、当事者なのにそんな気楽でいいんですか」とたしなめた。


「深刻になったって解決しないでしょ。なかなかエグそうなやつだけど」


 知覚を奪われる、というのは八津次とてゾッとしない。せっかくの料理も味や匂いが分からなくなっては台無しではないか。嫌な所を突いてくるものだ。

 信多郎は、笑みともなんともつかない微妙な引きつりを顔に走らせた。


「最終的には見えず、聞こえず、触っても形や温度が分からない、バランス感覚がないから立つこともできない、内臓の感触もないから空腹も尿意も分からない。誰とも意思疎通できず、自己主張することもできない。とは別の地獄です」

「うわははははっ! やっば、形は人間のままでも、肉の塊以下かー」


 狙い澄ましたように、八津次が生きる理由を奪うだ。ピアニストの手を切り落とすような、サッカー選手から足を切り落とすような真似の満漢全席。

 仏教には多くの地獄が説かれるが、特定の個人にとって最も辛いよう特別にあつらえた「地獄じごく」というものが存在するそうだ。

 は、まさしく八津次にとっての孤地獄となるだろう。


「……それ、完全介護しないと死んじまうんじゃ」


 佐強は半ば腰を浮かせた。自分も両手を奪われているというのに、自らやられに行ったバカな父を心配して、まったく良い子に育ったことだ。


「死なへんのよ」


 信多郎は淡々と言い放った。

 どういう意味だ? と全員が固唾を呑んだ気配が、居間の空気をガチリと硬直させる。どうやら自分は、予想以上の最悪にハマったらしい。

 八津次はへにゃりと薄笑いを浮かべるしかなかった。


「飲まず食わずで放置しても、その状態になるとなぜか生き続けるし、歳も取らへん。そして近くにいる者、いなければ血の近い者から順に、おんなじように感覚が奪われていく。つまり、最後は人間の手で犠牲者を殺すしかないんです」


 待て、と鴉紋が声を荒げる。


「なら、八津次が目をつけられたのはなんだ?」

「それなんやけどなぁ。八津次さん、鏡からノックするみたいな音がしたり、それに返事したりしませんでした?」

「したした。を釣れるかなーって思って」


 カラリと言ってみせると、信多郎は「それが原因やね」と首を振った。


の怒りには、鏡を叩いた者、物理的に近い者、遺伝子的に近い者、という優先順位があるらしいので」


 佐強と直郎は「ほらやっぱり」と唇をへの字にひん曲げ、鴉紋は歯ぎしりするように口の端を歪める。さすがの八津次も申し訳なくなってきた。

 直郎は気を取り直して解決策を案じる。


「おもてなし、というものをやり直せば、助かるということはないのですか?」

「無礼者には応えません。かといって新しく誰かが呼び出そうとしても、最初の犠牲者を完全に祟り伏せるまで、手ぇ出すこともないんやけど」

「なんでそんな厄介なのを、サマづけしないといけないのさ」


 八津次が悪態をくと、信多郎は「敬称じゃないですよ」と答えた。


は別名を〝のとざま〟と言いました。えんにょうに西で、という字に、閉ざされた様子。〝なんじが閉じられたさま〟でです」


 自分の脳に閉じこめられる。老いでも病でもなく、訳の分からない怪異に五感を奪われて、死ぬこともできない宇宙に?

 ふと、八津次は自身が、暗闇に灯る蝋燭になったような心地がした。周りに誰もおらず、何も見えず、今にも火を消さんとする冷たい風が吹いている。

 重圧を感じる闇の中、自分の存在はちっぽけで、間もなくそこに放逐されてしまうのだ。いや、自己が完全に消えるならまだ救いだろう。


 欲望に忠実に生きてきた自分が、決して相容れない虚無と一体化させられるのはどんな心地か。すうっと血が引いて、指先が冷たくなるのを感じる。

 ああ、これが恐怖というものか。怖い物知らずを自負していた自分が、初めて腹の底から怖い、嫌だ、助けてくれと感じている。なんだそれ、滅茶苦茶可笑しいな。

 くくくっ、と背を丸め、八津次は鳩のように笑った。


「五感をすべて奪われた者は、最後のチャンスですかね、もう一度だけを呼び出すことができるんですよ。おもてなしを成功させれば、助かるそうですが」

「成功したヤツは?」鴉紋が鋭く問う。

「残念ながら、そんな話はとんと」


 そうだろう、そんな上手い話はない。八津次はますます笑い声を大きくしながら、役に立たなさそうな情報を聞き流した。

 鏡をノックするまでなら、他人の手を借りればいい。

 だが一切の自己主張や意思疎通を失った人間が、どうやって怪異が満足する〝おもてなし〟を提供すると言うのか。直郎がなおも問い立てた。


「……他に出来ることはありませんか?」

「そうですねえ、感覚のなくなった所に絆創膏を貼ったり、家中の鏡や、光を反射するものを絆創膏で覆い尽くせば、進行を遅らせることが出来ます」

「なんで??」


 心底不思議そうな佐強の声に、八津次は顔を上げる。そういえば、病院で見た「来足千乃」は鏡や自分の顔に絆創膏を貼っていた。


「半世紀ほど前の話ですが、市子いちこ伯母さんが絆創膏でを封印したんです」


 裏巽市子。佐強の祖母、那智子の母と目される「人魚」の女性だ。


「生まれついての人魚は、よりずっと格上の存在なんです。そやさかい障りをなした時、それを鎮めたり祓ったりしていました。しかし当時、市子伯母さんは今のすずめちゃんと同じか、少し小さいくらいでね。難しい呪文やらお札やら分からんからって、ありったけの絆創膏を貼りたくったらピタッと収まったんやと」

「それで、今も絆創膏が苦手ってこと?」


 佐強の声はやや明るくなっていた。根本的な解決にはならないが、ひとまず時間を稼ぐことができる。八津次としても喜ばしいが、自分が今どういう感情で笑っているのか、少しよく分からなくなってきていた。あ、ボクって意外ともろいな。


(こんな気分は、ナッちゃんの時だけでもうゴメンだってのにさ)


 信多郎が説明するには、来足家はの怒りを解くことなく、家中の鏡や反射物を絆創膏だらけにして放置し続けたそうだ。

 それも時間と共に少しずつ剥がしていったが、先日の人魚供養祭を機に、再びの祟りが襲いかかった、ということらしい。

 つまり「来足千乃」は、実質三日ですべての感覚を奪い取られた。


「猶予は三日、か」鴉紋はタバコに火を点けて、紫煙を吐き出しながら言う。「それまでに、どんなおもてなしをすりゃいいのか、調べるしかねえな」

「鴉紋ちゃん、ボクにも一本ちょーだい」

「おう」


 何も言っていないのに、鴉紋は八津次がくわえたタバコに火をつけてくれた。さすがにこちらが沈んでいるようだ、と気遣ってくれたのだろう。

 体に残留したアルコールにニコチンが加わって、気分は毛の一本ほどマシだ。直郎は普段タバコは良くないとたびたび苦言するが、今日は黙っている。


「問題はねえ、おもてなしをしたらは帰るけど、それだと狩ることはできひんってことやね。さすがに、鏡の中の世界へ行く方法なんて知らんし」


 のとさまは狙った人間に取り憑くのではなく、自分の世界にひそんでいて、そこから都度お目当ての元へ訪れるそうだ。

 だから八津次に使鬼銭をぶつけても意味はないし、再度呼び出しがかなった時に反撃できるかはあまり期待できない、と信多郎は言う。


「えっ。じゃあボク祟られ損じゃん」

「普通は祟られて得になることなんてあらへんのよ」


 我が身の自業自得さに、八津次はぐうとうなった。

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