とおあまりやつ 苦痛なき世界で、人は生きていけない
八月四日。「痛いのは生きている証拠」という台詞は戦争映画だっただろうか。
二日酔いがもたらす頭痛と吐き気にうんざりしながら、
布団の柔らかさ、畳のい草とその匂い、ふすまが
コン、と。顔を洗っているとまたノック音がした。洗面台の鏡からだろう。
つまり無視が一番。ノックを返しても、言葉をかけてもいけない。コンコン、コンコン、コンコンコン、と鳴り続ける鏡を無視して八津次は台所へ向かった。
家中から嫌な気配がする。
朝食は、昨夜の内に
「
今日の食事介助担当の
佐強は少し迷って「いい……」と返事した。鴉紋は手の火傷がだいぶ良くなったらしく、今朝もしっかりコーヒー豆を挽き、皆に目が覚める一杯を供している。
そろそろ持ってきた豆がなくなりそうだが、
「鴉紋ちゃんのこだわりコーヒー、今朝も最高だね~」
相も変わらず香り高い一杯を、八津次はいつもより時間をかけて堪能した。苦くて濃いのに、舌にもたれないスッキリとした味わい。
なんだか、むしょうに安心してしまう。
アセドアルデヒドが拡張した血管を、カフェインが収縮させて二日酔いを中和するのはもちろん、記憶通りの味にまだ大丈夫、と足元を固められる心地がした。
昨夜の刺身も美味かったが、塩麹漬け焼きのビワマスも悪くない。白飯と合うのは言うまでもないが、ちょっと脂っこいなと思った時に酢の物がいい仕事をする。
居間のテレビは朝の情報番組を映していた。
のとさまがノックしてくるなら、点けていても消していても同じ、という信多郎の意見と、すずめが楽しみにしているショートアニメコーナーがあるためだ。
「ナオちゃん、たまに料理すると丁寧なの出すよね」
「調理は手順を守ることが大事ですから」
他愛のない会話を
焼き魚や卵とは別の脂と、塩気。それにぬるっとした異物感が混ざっている。
昔、バーで喧嘩になって顔面を蹴飛ばされ、喉の奥に鼻血が流れこんだ瞬間を思い出した。血の味が、いつの間にか混ざっている。
八津次は料理が乗った大皿や、自分の取り皿を見たが、特に変化は確認できなかった。訝しみながら少量、白飯を口に放りこむと、やはり鉄錆の味がする。
それを飲み下しながら口内を舌で探ると、どこか出血しているようだ。
「ナオちゃーん、ちょっとボクの口見てくんない?」
返事を聞く前に口を開くと、直郎がぎょっと目を見開く。彼はスマホを取り出してカメラ機能をONにし、それを鏡代わりにして八津次に突きつけた。
見た瞬間、へ、とえ、が半音ずつ混ざった間抜けな声がもれる。
舌は両側面がズタズタに噛みちぎられ、自分の一部と言うより、肉片のような有り様になっていた。口の端からよだれにふやけた血が垂れかけ、慌てて舐め取る。
ドンッ! と。
ドンドン! とスマホの画面から、激しいノック音がした。これまでとは違う、分厚く重い木の扉を力いっぱい殴りつけるような、高圧的な調子だ。
スマホの持ち主は一瞬取り落としかけながら、素早く電源を切った。
「八津次さん、痛みはありませんでしたか」
直郎は医師の平静さに切り替える。口元を押さえながら「ないよ」と答えると、鴉紋が座卓の向こうからこちらへ移動し、オイルライターを取り出した。
「おい、こいつの火に指を近づけてみろ」
それに従って指を出したが、いくらライターの火と距離を縮めても、指先に熱さが伝わってこない。よほど感覚が
「八津次ッ!!」
「とーちゃんっ!?」
じゅっと小さく音がした瞬間、鴉紋がライターを消して手を引く。八津次は肉が焼けたはずの指先を見たが、皮膚の変色こそあるものの、やはり何も感じない。何も。
ポケットから折りたたみナイフを取り出すと、鴉紋が「ふざけんじゃねえ」と手首をつかんだ。ああ、良かった、まだ触られる感触は分かる。
「もう充分だ、やめろ」
「すずめちゃんの前ですよ」
鴉紋と直郎に口々に言われ、女児を見やれば不安そうに顔を曇らせていた。テレビはちょうど彼女が楽しみにしていたアニメになっているのに、それどころではない。
しん、と雪夜のように冷え切った居間。一人包帯で目隠しして状況が分からない信多郎に、佐強が起きたことを伝えていた。
「八津次さん、おそらく
「こういうのって、視覚とか分かりやすいトコからじゃないの? わはっ」
「一度始まると、後はあっという間やさかい、気ぃつけてな」
人魚狩りの期限はあと二十九夜。そしておそらく、八津次がすべての感覚を奪われるまで、約二日。気をつけるも何も、まだ何の対策もない。
「……絆創膏を貼りましょう」
唯一建設的な意見を出して、直郎は八津次を別室へ促した。洋間のダイニングチェアに腰かけて、二人向かい合い、指の手当てと触診を行う。
「八津次さん、〝
「あー、生まれつき痛みを感じないってやつね。漫画の話じゃないの?」
「患者数は非常に少ないですが、指定難病の一つですよ。
痛みがないと聞けば便利なように思えるが、何も分からない乳幼児から、生きるための危険信号を奪ったらどうなる?
例えば自分の指をしゃぶった時、唾液でふやける不快感や、歯が当たった痛みを感じないなら、自らそれを噛みちぎってしまうのではないか。
己の血肉を
「わたしの専門ではありませんが、無痛症児の発育は大きな困難を伴います。ですが、八津次さんは成人ですから自制が利きますし、知覚神経の形成不全などは起きていないと思うのですが……同一の疾患ではないので、断定はしかねますね」
直郎は顎に手をあて首をひねりながら、「アルコール綿とヨード溶解液でもあれば発汗機能を調べることが……」などと独り言を始めた。
――俺たちがどういう末路をたどろうが、それは俺たちの問題だ。
そうだね鴉紋ちゃん、でもここまで酷いことになるとは思わなかったよね。義兄の決意を思い出しながら、八津次はだらしなく口端を崩す。
手遅れになるようなら、鴉紋たちには速やかに自分を殺すように言っておかなくてはならない。最悪な死に方だが、次善の方法ではある。
「おっ。ナオちゃん、絆創膏貼った指が痛くなってきたよ。やっぱこれ効くんだね」
「コンビニにマウスウォッシュがあったはずですから、後で絆創膏といっしょに買ってきましょう。炎症を抑えるため、口の中は常に清潔に。買い物はこちらでやりますから、八津次さんは外出しないでください」
発汗機能がどうなっているかはさておき、八津次が既に痛みと熱さを感じられなくなっているのは事実だ。熱中症を心配してのことだろう。
「無痛無汗症とのとさまの祟りは別ですが、状態が近いことですし、厚生労働省のPDFだけでも目を通してくださいね」
生まれつき痛みを感じない人間などフィクションだと思っていたが、現実にこの難病を周知し、支援につなげようとするNPO法人までいるとは驚いた。
PDFは、その団体からの提供によるものだ。
「八津次さんが寝ている間、歯ぎしりをする癖がなかったのは不幸中の幸いですよ。痛覚がなければ歯を折ったり、舌を噛んでしまいますから」
「うははははは」
努めて朗らかに言う直郎に合わせて、八津次は笑った。自分はいつでも笑っている。那智子が死んだ時だって、泣けなかったほどだ。
兄弟たちはそれを責めず、八津次の心中を
「ナオちゃん、今日の夕ご飯、近江牛リクエストしていい?」
自分はここでリタイアするだろう、ならば一つでもキルスコアを稼いで、祟りと呪いが解けるようつないでいく。八津次はのとさまと相討ちになる覚悟を決めた。
「味覚を取られる前に、最後の晩餐を楽しまなきゃねっ」
「不吉なことを言わないでください。……噛むときは、よく気をつけて」
そこで二人が居間に戻ると、他の皆はすでに食事を終えて移動し、テレビも消えていた。遠くで電話が鳴っている。
裏巽家に置かれた、古式ゆかしい黒電話だ。呼び出し音が途切れてしばらく、佐強の肩に手を置いて先導されながら、家主が姿を現した。
「お疲れさま、直郎さん、八津次さん。
「ボク、もったいぶられんのキライなんだよね~」
「
のとさまにすべての感覚を奪われた者は、飲食を絶たれても死ぬことはないが、殺すことはできる。必然、その状態で自害は難しいだろうから、あらかじめ殺してくれと伝えておいたか、周囲が恐れて殺害したかのどちらかだ。
「明日
「明日ぁ? あんまし大人数で行ってもねえ。鴉紋ちゃんと相談かな」
と言ったが、義兄は昨日動けなかった分を取り戻すべく、何が何でも葬儀に参列するだろう。自分と鴉紋の二人で行って、片方が信多郎の注意を引きつけた方が良い。
両手がない佐強は目立つので連れて行けないから、直郎には裏巽家に残ってもらうことになるだろう。ヘルパーがいるとはいえ、すずめを一人にするのは心配だ。
「八津次さん、行くとしたら熱中症対策は重々お願いしますよ」
直郎も同じ考えに至ったらしい。無理に外出するのは良くないが、のとさまに狙われている八津次がその元凶の元へ近づけば、何か分かるかもという期待があった。
「あ、サッちゃん例の蝋燭持ってる? 貸して貸して」
「何すんの、とーちゃん」
佐強の肩から紐で吊された赤い蝋燭が、ふわっと宙をすべって八津次の手に渡る。三つの神具は、両手を失った彼が唯一動かせるものだ。
特にこの蝋燭は棒代わりに、物を押したり引き寄せたりできるという点で、佐強は色々と助けられていた。八津次は蝋燭をためつすがめつ、上下を確認する。
「ちょっともらうよぉ」
折りたたみナイフを取り出し、蝋燭の下部を輪切りにして返した。八津次はそれを指で砕くと、自分の口に放りこんで一息に呑みこむ。
「あっ」佐強、「えっ」直郎、「はい?」信多郎はそれぞれに声を上げた。
「何やってんのさ、とーちゃん!?」
「何が起きとるんです??」
見えていない信多郎にはちんぷんかんぷんだろう。
「蝋燭の端っこをね、十円玉一枚ぶんぐらい切って、食べたんだよ。これ、火を点けたら見えないものを見せてくれるんでしょ。ってことは、感覚を奪ってくるのとさまに対抗できるんじゃないかな~って思ったってワケ!」
自分がなぜこんな行動を取ったか八津次自身も知らないが、口先が勝手に理由を教えてくれた。己の行動は常に、言語より先のところにある。
本来の持ち主である信多郎は、みるみる顔を蝋燭そっくりの赤に染め上げた。
「こ! こっ、この、
痩せた体の限界まで振り絞った大声で、八津次につかみかかる。
「
なまりが激しいやら巻き舌気味やらで、最後以外は何を言っているのかよく分からない。信多郎はすぐ八津次から手を離すと、頭を抱えてその場にうずくまった。
「ご先祖さまに、
「すみません! すみません!」
「八津次さんも謝ってください!」
「えーと」
「今夜の近江牛はなしですね」義兄が厳しい。
「すみませんでした」
「物につられたカスの謝罪じゃん!」息子が厳しい。
「いや、ちゃんと悪いと思ってるよ! 説明せずいきなり食べたり切ったりしてごめんね! 腹のこのあたりぶん殴れば、良い感じに吐けると思うけど、どう?」
シャツをめくって嘔吐ポイントを指さそうとしたが、目が見えない相手には無意味だなと思ってやめた。信多郎はこれみよがしに、大きくため息を
「……八津次さん、二度と蝋燭を
「はい」
食べてしまった物は戻されなくて良いようだ。相手が連続殺人犯だというのに、そこはどうでも良くて、代々伝わる古い蝋燭にはぶち切れるのが少し
「その蝋燭は、代々の人魚――いをやのうて、生まれついての――脂肪を、遺体から集めて作ったものなんよ。形を蝋燭に整えたとるけど、実際は
「赤いのは何? 紅花?」いけしゃあしゃあと突っこむ。
「
八津次の質問に対する手短な返答は、「人間の脂肪と猛毒を食べた気分はどうだ?」という言外の忌ま忌ましさをふくんでいた。
辰砂とは硫化水銀から生成した鉱物で、単一の鉱物としては地球で最も毒性が強いとされる。大量摂取すれば水銀中毒でお
ちなみに陶芸では
「人魚の、脂肪……」
佐強は信じられないように、宙に浮かべた蝋燭を見つめていた。このところ肌身離さず愛用していた道具が、そんな原材料だったら気味も悪くなるだろう。
探せば、人魚の脂肪で作った
そんな不謹慎な想像は、さすがに八津次も口に出さなかった。
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