とをあまりよつ 目も当てられぬ夢を砕いて

 古井戸は完全に水没し、くぼ地はザクロのような赤い池に変わっていた。その中に無数の赤ん坊と、クラゲのように輪郭のあやふやな胎児が浮いている。

 みすらはいつの間にか姿を消し、佐強さきょうだけが池の中に立っていた。

 赤ん坊たちは自分の体を破らんばかりに泣き叫び、まるで何かの警報のようだ。ほぎゃあほぎゃあ、オギャアオギャア、アーッアーッ、と佐強の脳に突き刺さる。


 夜闇に閉ざされた森の中、泣き声は吸いこまれるどころか反響するようにふくれ上がり、自分を閉じこめる音の蓋となっていた。

 赤い池に、幼児退行した直郎ちょくろう八津次はつじも浮かんで泣いている。


 水面を漂う衣服だけが、かつて父たちがいたという証だ。佐強にはもはや、どれが二人なのか判別もつかない。ここまでに十数分はかかっただろうか。

 八津次の髪は青から黒、黒から緑、金色と変化し、徐々に若返っていった。体が縮んだ直郎は水底に沈み、佐強が慌てて引っ張り出した時には五歳児程度だ。

 そこからあっという間に、この惨状に至る。


「し、信多郎しんたろうさん! 信多郎さん、いますか!」


 口の前に古銭をかざして身を守りながら、佐強は必死で呼びかけた。直郎と八津次が何かに操られるように殺し合っていたから、今までそれを止めるのに必死だった。

 彼が池に沈み、また立ち上がった後どうしていたのか、確認できていない。まだ信多郎が無事なら、一縷いちるの望みがあるはずだ。

 信多郎は〝ねめしどな〟という除けのまじないを知っている。佐強が思いつく打開策は、それだけだ。


「返事してください、信多郎さん!」


 佐強は今や、自分の身を守るので精いっぱいだった。

 この状況に立ち向かうことも、逃げることもできやしない。万策尽きる一歩手前、信多郎の安否だけが頼みの綱だ。

 皮を剥かれたカエルのような赤子たちが、水面を泡立てて手を伸ばす。

 大人とはまるで違う、ムチムチと肉のついた小さな腕。なのに手のひらと五本の指は精巧なミニチュアで、かえって人間ではないグロテスクな生物のように見えた。


 なるべく羊水の池から離れよう。佐強が後ずさったその時、後ろから何かに突き飛ばされた。その昔、拾った猫が子供を産んだときのことを思い出す。

 枯れ草のようなへその緒がついた子猫を、母親は甲斐甲斐しく舐めていた。用意された段ボールとタオルの中で、親子からは形容しがたい生臭さがしたものだ。

 血液とは違う、何かもっと白濁した生物の汁気。あれが科学的にはなんと呼ばれるものか、佐強は知らない。羊水に没しながら鼻へ広がる匂いは、あの時と同じだ。



 電話を取ろうとして、鴉紋あもんはふと外が暗いことに気がついた。時計を見れば夜の八時を過ぎているが、いつの間にこんなに時間が経っていたのか?

 森へ行った四人に何か起きたに違いない。鴉紋は信多郎からの着信に応じた。


「どうした、裏巽うらたつみ。トラブルか?」

『みなさんにやられました! どしょしらんどうしたらいいかと思てるとこです』


 息は荒く、声は憔悴しょうすいしきっている。


「場所は蔦ヶ野だったな? すぐ行く。合鍵は香西が持っていたな」

『お願いします。みんな赤ん坊に戻されてしもうてん!』


 舌打ちして通話を切り、鴉紋は手早く準備した。香西ヘルパーにすずめの世話と食事を頼み、一言謝って出る。

 四人は信多郎の車で蔦ヶ野森に向かっていた、運転したのは八津次だったか。鴉紋は愛車に乗りこみ、さきほど拾った古銭を確認する。

 人間相手ならいくらでも経験があるが、幽霊や妖怪は初めてだ。今は、神具と同じこの守り銭が、霊験あらたかであることを祈るしかない。


                      おぎゃあ

 虫やカエルの合唱に混じって、奇妙な声が聞こえた気がした。


           ァー……アァー……

 森の入り口でうずくまっていた信多郎は、眼を覆う包帯から足先までうっすら赤く濡れている。状況を聞き出し、鴉紋は自分の顔が痛いほど険しくなるのを感じた。


「なぜお前だけ無事だったんだ?」

除けの呪いです。皆さんにお伝えする暇がのうて申し訳ない」

「そういうモンは事前に共有しとけ! ……いや、これは迷信だと軽んじていた俺も悪い。すまねえな、裏巽」


 除けの〝どな〟について聞きながら、鴉紋は信多郎の案内で森を駆けた。しかしいかんせん、連れは失明中である。

 鴉紋は信多郎の腰を抱え、一息に持ち上げた。


「うわっ!?」

「舌を噛むぞ、しゃべる時は最低限にしろ」


 そのまま肩に担ぎ、ナビケートさせながら全速力で走る。

 ある程度予想はしていたが、長身痩躯の信多郎は早々以上に軽い。三食きちんと食べているのか。成人男性とはいえ、六〇キロあるかも怪しい。

 結界を抜ける手順でややまごついたが、鴉紋は赤い池に無事たどり着いた。

 信多郎の説明ではの羊水ということだが、水面を埋め尽くす赤子の群れは、肉の泉と言った方が良い。地獄絵図だ。

 そこに見覚えのある衣服が浮いている。


「佐強! どこだ、返事をしろ! まだ俺が分かるか!?」


 お前のオヤジだぞ――鴉紋の叫びに応えたのは波濤だった。底の古井戸から噴き出すように水柱が立ち上がり、無数の小さな手が津波となって襲いかかる。

 一個の人間を飲みこむのに充分な質量が、すべてをザブンとさらった。



 Happy birthday to you♪

 Happy birthday to you♪

 Happy birthday, dear 佐強,

 Happy birthday to you♪


 闇の中、ゆらめく蝋燭を本日の主役が吹き消すと、一斉に柏手が上がった。電灯がリビングを照らし、祝砲のようにクラッカーが鳴らされる。


「さっちゃん、八歳の誕生日おめでとう」


 大きな腹を抱えた那智子が、屈託なく笑った。そろそろ入院しなくてはいけないが、佐強の誕生日を祝うため、まだ家で過ごしている所だ。

 鴉紋の真正面に、那智子と佐強が並んで座っている。すぐ傍で幼児椅子に腰かけているのは二人目の息子、長流ながるで、直郎が細々と世話をしていた。

 直郎の正面、鴉紋から見て左側は髪を緑に染めた八津次で、鼻眼鏡と三角帽子で全力の浮かれポンチムードを出している。お祭り騒ぎには目がないやつだ。


「サッちゃんおめでとー!」

「おめでとうございます、佐強くん」

「おにたん、おえあと」

「ちゃんと言えましたね、長流くん! えらい、えらいですよ!」

「いっぱい練習したものね、ふふ」


 この間までメダカかオタマジャクシのような幼児だった息子が、もう八歳とは。佐強は目いっぱいの祝福を受け止め、液体のようにふわふわ笑っている。

 テーブルには大きな誕生日ケーキの他に、唐揚げ・フライドポテト・スパゲッティサラダなどのオードブル、果物の盛り合わせ、ハンバーグ、色鮮やかなサラダ、ピザ、手巻き寿司などが食べきれないほど並んでいた。


「……誕生日おめでとう、佐強」


 皆より少し遅れて、鴉紋はようやく言葉を口にする。噛みしめるほどに、こんなに幸福でいいのかとつい感慨にふけってしまった。

 今度生まれてくる第三子は、なんと娘だ。我が家で初めての女子に、名前決めは白熱していた。鴉紋はやはり母親にならい、○○子で行くことを推している。


 この幸せをずっと守っていかなければ。佐強も、長流も、まだ見ぬ娘も、健康に賢く育ってほしい。いつか抱く夢があれば、できるだけ応援したい。

 何しろうちは父親が三人もいるのだ、そんじょそこらの不幸などはね除けてやる。生活は退屈なほど単調なくらいでちょうど良い。

 妹の時のような悲劇は、二度と起こさせてなるものか。


 家族全員で旅行に出かけたのは、佐強が四歳の時の鳥取砂丘が最後だった。

 娘が生まれれば七人家族だ、みんなで色んな所に行こう。愛夢あいむが見られなかった景色の代わりに、海を、山を、花を、鳥を、映画を。

 息子が成人した時、一杯飲み交わすのが夢だったが、それが長流の誕生で楽しみが二倍に増えた。今のところ兄弟仲は良好だ、佐強はいいお兄ちゃんになる。

 しかも自分に似ているから、将来は確実に男前だ。

 娘が思春期に入った時、嫌われたらと思うと今から心臓が止まりそうになるし、結婚式で号泣しない自信がない。早く顔を見せてくれ。


 その前に、佐強には珈琲の味を覚えてもらおうか。それから。

 それから。

 それから……。


 ぢりっ、と手のひらの中で焼けつく痛みが走った。


 鴉紋はゆっくりと室内を見回す。なんだ、この腰が抜けたような平和は。ここは、こうだったら良いという自分の願望をとどめた温室だ。

 痛みを覚えた手のひらを開くと、「使鬼通寶」と刻印された昔の貨幣がある。その周りが火傷になっていた。顔を上げると、全員が動きを止めている。

 笑い声も、おしゃべりも、火が消えたようになくなって、彫像のように停止していた。唯一、佐強を見ていた那智子がゆっくりと首をめぐらし、こちらを見つめる。


「どうしたの、鴉紋クン」

「黙れ」


 鴉紋は氷柱のような声で突き放した。古銭を強く握ると痛みが増したが、それでいい。自分はにやられた家族を助けに来たのだ。

 那智子は佐強が五歳の時、輪姦されて子供が産めなくなった。だから第二子も第三子もいないし、佐強が七歳の時に彼女は亡くなったのだ。

 すべては、目も当てられないほど無惨でまばゆい、夢、にすぎない。


「誰がこんなモンを頼んだ。悪趣味な妖怪野郎、ブチ殺すぞ」


 鴉紋が椅子を蹴って立ち上がると、食卓も、料理も、家族も、赤い羊水になってはぜた。リビングは真っ暗闇になり、自分と女の姿だけがハッキリと見える。

 彼女の姿を盗んだコイツは、みすらとは別の何かだ。ここに封じられていたというだろうか? 赤ん坊の声がする。


「殺さないで」


 天も地も分からない闇の中に座りこみ、女は意外にも命乞いをした。


「お願い、産みたいの。赤ちゃんを殺さないで」

「黙れっつっただろうが!!」


 こんななりをしているが、コイツは女でも人間でもない。古銭を握りしめた拳が焦げ臭かったが、鴉紋はそれを無視して掲げた。

 ふざけるな。

 自分は間違えた、妹の愛夢も、恋人の渚も、きちんと言葉を受け止めて守ってやることが出来なかった。その罪は消えない。


 那智子の事件はどうしようもなかった。だが、彼女の心を救う方法を、自分たちはどこかで間違えたのではないか。

 性急な仇討ちに走らず、誰も殺さず、その上で犯人たちを罰し、共に戦って、支える道が。だが、そうはならなかった。成らなかった。為せなかった。

 すべては終わった話だ。


 悲劇を、惨劇を、己の罪を、こんな物で塗りつぶされてたまるか。確かに、こうなら良かった。こうであってほしかった。だがそうではない!

 鴉紋は決して自分自身を赦さない。

 醜い極楽の夢などおよびではない。俺の記憶から罪も間違いも後悔も拭い去ろうとするな、奪うな、それは生涯自身が背負って生きるものだ。そして。


「俺の息子と義弟おとうとどもを、返しやがれ!」


 拳を振りかぶりながら、鴉紋は信多郎に教えられたまじないを唱えた。


「かくらぼぐ、ねめつけ、しめつけ、なんぞある。ひとをのさねざね、とこのした、かくとさよげ!」


 何かが破裂し、また漏れる音が同時に重なり、ぶぢゅっと女の姿が崩れる。それは『翠良みすら尾瀬おぜ村民俗誌』にあった想像図そっくりの肉塊だった。

 こいつはつまり、誕生寸前の姿なのだろうか。

 今や煙を上げそうに熱い拳を、鴉紋はまっすぐ叩きつける。それは何の抵抗もなく、水のように肉へと沈むと、同心円状の波紋が広がった。


 耳鳴りがするほどの静寂の中、矢のように雨のように、見えない衝撃が周囲をどよもす。人間の耳には聞こえない化け物の断末魔。

 刹那、鴉紋の意識が途切れる。

 ふと我に返ると、どうやら地面に横たわっているようだった。鴉紋が目を開き、あたりを見回すと、水気のない平地に裸の佐強、直郎、八津次が転がっている。

 着衣なのは鴉紋と、同じく倒れている信多郎だけだ。古井戸があったという方を見やると、確かに井戸があったが、ちぎれた注連縄と折れた錫杖が散らばっていた。



「しーぬーかーとー思ったー!」


 目を覚ました佐強は鴉紋に服を着させられると、もう動きたくないとばかりにその場へ寝転がった。不甲斐なくも父二人が先にやられた後、孤軍奮闘していたというのだから、これぐらいは許してやろう。

 守り銭を握りしめていた鴉紋の手のひらは、焼けただれている。ハンカチで応急処置したが、古銭そのものは黒焦げになって割れ、二度と使えそうにもない。

 一週間ぶんの記憶が飛ばされていたという八津次は、すっかり回復していた。彼と直郎が衣服を身につけがてら、状況を整理する。


「んー、つまりぃ? 鴉紋ちゃんが偶然お守り持っていたのと、シンちゃんからおまじない聞いていたおかげで、妖怪を無事退治できた。ってコト?」

「そうらしいな」


 幸福な夢を見せられたことは伏せて、鴉紋は八津次のまとめにうなずいた。

 ちなみに呪文は漢字では「神楽祝ぐ、睨めつけ、締めつけ、何ぞある。人魚実々、床の下、かくと清気」と書くそうだ。意味が分かるようで分からない。


宇生方うぶかたさんが僕たちと違って、何度もに遭遇したり、あまり羊水を飲まされていなかったのも、大きかったんやと思いますよ」


 と信多郎が付け加えた。説明されればされるほど、助かったのは運が良かったの一言に尽きる気分だ。初めから全員で行っていれば、そのまま終わっていただろう。


「しかし宇生方さん、その使鬼しきせん……神具の古銭はどこから?」

「ああ、これか。嬢ちゃんにかき氷機を出してくれって頼まれて物置を探していたら落ちてきてな。役に立つかもしれねえから持ってきた。正解だな」


 家捜ししてことを隠して、鴉紋は堂々と嘘をついた。


「だいたいありがたい神具が、なんでそんな無造作に転がってんだ」

「祠に祀ってあるのは特別製ですよ。これは鬼に使う銭、と書いて使鬼銭と言いまして、昔からこの地方特有の魔除けなんです。が憑いてくる気配がしたら、放り投げて縁切りしたり。そやさかい古い家には、そこそこ貯蓄されています」

「地獄の沙汰もカネ次第か」


 製造元は村の鍛冶屋で、みすらおがみ神社が祈祷して完成するそうだ。現在でも社務所で販売しているとのことで、鴉紋は買い占めることを決意した。

 手を火傷したようにリスクはあるようだが、少しでも化け物への対抗手段があるに越したことはない。想像以上に、人魚狩りは危険だ。


「我々は認識が甘かったようですね……」


 意気消沈として直郎が言う。甘かったと言うなら、それはこの場の全員がそうだ。


「失敗は次に活かせ。ヤツらと対決する時は、必ずバックアップ要員を決めて二人から三人で挑む。裏巽には、役立ちそうなまじないや伝承を残らず吐いてもらうぞ」

「すずめちゃんのためです、僕にできることなら、なんでも」


 鴉紋はいまだに、信多郎のことをすべて信用してはいない。息子にやめろと言われたが、こいつは何かを隠していると刑事の勘が言っているのだ。

 しかし、途中で佐強を見捨てて逃げたのか、防戦一方でいる内に撤退を判断したのか。そこは不明だが、信多郎がSOSを求めなかったら最悪の事態となっていた。

 こいつの話にも耳を傾けてやらねばなるまい。


「裏巽、あんたには世話になった。戻ってひと心地ついたら、あんたの言う大人同士の話とやら、聞かせてもらいたいがどうだ?」


 裏巽信多郎、この男はいつも、灰を被ったようにくすんだ印象を与える。それも念入りに燃焼された、きめ細かな白い灰だ。

 おそらく、過去にひどく打ちのめされて、大切な何かが燃え尽きてしまったのだろう。その名残をずっと引きずっている。

 不意に、鴉紋は信多郎に親近感を覚えた。

 少しだけ、彼のことを信じてみたくなったのだ。

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