にくべとが、流れる。
とおあまりみつ 無謬の嘘と生命
おじいちゃん、見て見て、ネコができたよ。
「おお! こいつは実に味がある人形じゃないか。
とうげい、楽しいよ。ねん土っていろんな形になるもん。もっともっとがんばったら、おじいちゃんみたいにキレイにつくれるかな。
「もちろんさ。何事も根気が必要だ、気長にやりなさい」
うん。
「……ああ、そうだ。そろそろおまえにも、粘土の扱い方を教えてあげよう。買ってきたばかりの粘土は、何回もこねてこねて、やっと使えるようになるんだ。今日は、菊練りを教えてあげよう。いいか、おじいちゃんの言う通りやってみるんだぞ」
うん、ボクがんばる。
おじいちゃん、ねん土って、人の首をシメるみたいにこねるんだね。
◆
古井戸を中心に、あたりはすり鉢状にへこんでいた。
そこは赤い羊水に満たされて、まるで血の池だ。地面に引き倒された
だというのに直郎はまったく抵抗しない。まるで首吊りの最中のように、体の横にまっすぐ腕を伸ばして、眼は遠く虚ろを見ていた。
赤ん坊の声がする。
◆
自殺の名所と呼ばれる樹海に踏みこむと、あちこちに思いとどまるようにという旨の看板が立っていた。しかし命の電話は、自分には不要だ。
遊歩道を外れて樹海の奥へ、奥へ。
これはという枝に当たりをつけ、直郎は縄の輪に頭を通した。
◆
「ちっくしょう! 何だよ、これ! 当たり判定クソすぎんだろ!」
腰まで赤い水に浸かりながら、
肘から先の両手はないが、神具である古銭はつかむことができるから、貨幣が高速で二人の頬を打ち抜いている形だ。八津次も直郎も、明らかに正気ではなかった。
それで一旦、二人の父が殺し合うのを止められるが、すぐまた再開するから焼け石に水だ。根本的な解決法が分からないまま、佐強は古銭を叩きつけ続ける。
森で神具の蝋燭を灯した瞬間、四人は闇に包まれた。動じなかったのは、失明して目に包帯を巻いていた信多郎だけだ。
「おそらく、蝋燭の火でまやかしが消えたんやろう」
状況を把握した彼はそう説明した。
「にくべとは人の時間を食べる。僕たちは何回かやつに遭遇し、記憶を奪われたに違いない。でも、物理的な結果はそのまま残される。誰も通ってへんはずの道が踏みしめられて、草を刈られているようにね」
「我々は何度もこの道を通っている、というわけですか」
直郎が確認しながら空を見上げた。木の葉の間から見える切れ切れの夜空は、星がまたたいている。少なくとも二〇時は過ぎていそうだった。
「何度も森を行ったり来たりして日が暮れる中、にくべとの影響下にあったわたしたちは、その変化に気づけなかった……」
「そういうことです。蝋燭と鈴で警戒しながら進みましょう」
うなずいて直郎は翡翠の鈴をかかげる。振ってみるが特に音は出ないから、当のにくべと本体は、まだ遠いらしい。
記憶が一週間以上戻されている八津次は、状況の根本から分かっていなかった。
道すがら佐強と直郎が代わる代わる説明するが、改めて言葉にするとなんとも信じがたい話だ。頼むから、にくべとを倒したら記憶も戻ってきてほしい。
不意に直郎のスマホが鳴る。表示された名前は「那智子さん」。
『直郎クン、もう一度こっちに来たい?』
「……あなたは那智子さんではなく、龍神でしょう。彼女の姿形を借りるのはやめてください。死者を侮辱しているし、非常に不愉快です」
普段穏やかな直郎の顔は、能面のように硬くこわばっている。
『わたしを那智子と定義したのはあなた。〝那智子さん〟と示された電話にあなたが応じたから、わたしは小田島那智子なの』
「最初にその姿で現れたのはあなただ!」
いつにない父の激昂が、佐強の心臓にスパッと痛みを走らせた。それだけ母の死が、直郎にとって触れられたくない傷痕なのだ。
「嫌だねえ、妖怪って話が通じなくて」
八津次は口で笑いながら、目元はスマホを
『ねえ、直郎クン、八クン、さっちゃん。まだ、赤ちゃんを殺したい?』
スピーカーの向こうから、糸を引く水飴のように声が絡みつく。不意に蜘蛛の巣に突っこんでしまったような、生々しい異物感があった。
『可愛い赤ちゃんなのよ。でも、まだ生まれてこれないの。あなたたちが手伝ってくれるなら、少し早くなるかもしれないけれど、ダメかしら? ずっとずっと、自分のお
「それは……赤ん坊、ではない。にくべとでしょう」
異物を拭うように自分の体を払いながら、直郎は苦しげに抗弁する。
『名前が違うだけだわ。
横合いから八津次がスマホを奪い取り、通話を終わらせた。
「オバケと話しても無駄でしょ。とっとと行って、とっとと片づけよ」
「この先で多分、彼女は待っているでしょうけれどね」
それは佐強も気が重い。だが、もはや行くしかないのだ。
しるべ岩からの結界を手順通りに抜け、四人は何十回目かの古井戸にたどり着いた。数本の錫杖と注連縄に囲まれた、時代劇のような岩を積み上げた井戸。
りぃん、と翡翠の鈴が初めて鳴った。
井戸のふち、睡蓮柄の着物を着た女が、赤い球を抱えて腰かけている。球の大きさはちょうど、臨月を控えた妊婦の腹そっくりだ。
八津次はサバイバルナイフを抜いて身構えた。即刻襲いかかったり、
自分たちは以前にもここで彼女に会い、攻撃を仕掛けたが失敗した。だから八津次も他のアプローチを探して、静観しているのだろう。
那智子が――彼女の姿をした龍神は、艶然と微笑んだ。
「また来ちゃったわね。そんなにこの
赤ん坊が泣く声がする。一つだけではなく、いくつも重なり合う潮騒のように。その源は、那智子が抱える赤い球からだ。
表面に血管が浮かび上がり、かすかに鼓動している。おそらく、その中には何百年と輪廻し続ける哀れな胎児が眠っているはずだ。
それが今泣いているのは、殺されたくないという哀願か。それとも人魚の肉を口にして、呪われた我が身への嘆きなのか。
「生命はね、平等じゃないの。命は生まれてくる以前から、分の悪い賭けに挑戦させられている。ほら、精子と卵子の話は聞いたことあるでしょう? 競争を勝ち抜いた精子だけが受精卵になれる。同じことが、たましいの世界でも起きているのよ」
「龍神ちゃん、龍神ちゃん」
ナイフを油断なく構えたまま、八津次が前へ出た。
「あんたの目的ってさあ、自分の娘を食べたお返ししてもらうことでしょ。何で娘を食べたやつを、そんなに庇うのさ。そのままパクッ、て食べちゃったら早くない?」
「あら、だってわたしの仔ですもの。食べないわ。むしろあなたたちも、食べればいいのよ。それとも、あなたたちが食べられてくれる?」
言いながら、みすらの着物が勝手にはだけ、乳房をあらわにする。
それは
いわゆる釣り鐘型の、豊満で、子供が何人いてもたっぷり食事を与えられるだろう乳だった。それが夜闇の中白く浮かび上がり――母乳の滴を垂らした。
「ね。わたしを食べたい?」
「
八津次は怒りで青ざめながら笑っている。佐強がかつて見たことがない切れ方だ。直郎は見ていられないのか、眼鏡をずらして顔を両手で覆っていた。
「ええとですね、にくべと除けには
信多郎が説明しかけた時、音もなく地面が傾き、全員がひっくり返る。古井戸を中心に、地形がアリ地獄のようにくぼんでいた。
赤ん坊の声が大きくなる。
「いらないなら、それでいいわ。わたしが食べちゃうから」
みすらが抱えたにくべとが破裂し、真っ赤な水が噴き出して、たちまちくぼ地を満たした。不死の羊水は数条に分かれ、こちらの口に向かって飛んでくる。
直郎が、八津次がそれを飲まされて赤い羊水に沈められた。
佐強が助かったのは、一瞬の判断で口の前に古銭をかかげたからだ。何とかならないかと願った通り、羊水の奔流は佐強の手前で勢いを失って飛び散った。
(にくべとに触られたらって、中身を飲んでもアウトなのかよ!)
信多郎が言っていたねめしどなの呪があればと思ったが、彼も包帯を赤く染めながら池の中に転がっている。立っているのは自分しかいない。
やがて他の三人は、何かに操られるようにゆらりと起き上がった。
◆
くじ引きで留守役を決めたというのは口実だ。
実際は
しかしそれを実行するには、裏巽すずめを何とかする必要がある。
彼女の世話は香西ヘルパーがやってくれるが、そちらに任せきりで相手をしないと、何かしていたのではないかと不審に思われる。
既に互いの腹を探り合っているが、堂々と開き直るには早いと言うものだ。
「嬢ちゃん、シロップは何がいい?」
すずめが「かき氷機があるよ」と言うので物置を見れば、レトロな手回し式のやつがあった。鴉紋は三人分の氷を削り、かけるものを見繕う。
「真っ赤いけなイチゴ!」
「練乳は?」
「たくさん!」
真っ赤いけというのは
シロップの種類が豊富なのは、信多郎が姪を喜ばせようとしたのだろうか。
那智子は宇治金時が好きだった。白玉と練乳や黒蜜がたっぷりかかった、胸焼けしそうな甘いかき氷が。珈琲だって、いつも砂糖を五杯ぐらい入れていたものだ。
「嬢ちゃん、ゆっくり食べろよ。頭が痛くなるからな」
熱い麦茶を勧めつつ言うが、時すでに遅し。すずめは早々にかき氷頭痛に顔をしかめた。少し可哀想だが、これもまた夏の風物詩だ。
それからしばらく、鴉紋はすずめと遊んだ。ジャイアントフルスイングの要領で両手を振り回すのはかなりお気にめしたらく、何度もせがまれた。
遊び疲れたすずめが昼寝に入ったのは、夕暮れが近づくころだ。時間がかかりすぎた。信多郎がいつ戻ってくるか分からない、速やかに行動を開始する。
「……神主の家ってのは、こういうモンか?」
平屋の左棟奥の座敷には、祭壇があった。本来は床の間であろうスペースに、榊を挿した白い花瓶、盛り塩、水、香炉などが置かれている。
そこから一段高い台には、御神体らしき丸い鏡が飾られ、上には注連縄がかかっていた。左右の壁には神々の姿を描いた掛け軸。
字を読むに天照大御神、春日大神、八幡大神などで、みすらの名は見えない。鏡を調べれば分かるかと思ったが、手を伸ばしたとたん不可解な悪寒がした。
鏡の表面は、自分がいるこの世界とは隔絶した別の何かで、その境界を犯せば体が真っ二つになっても仕方がない。そんな威圧感を覚える。
かつての鴉紋ならそれでも触っただろうが、今は怪奇現象をいくつも目にしてしまっている。鏡は諦めて、祭壇をざっと改めた。
祭壇に飾られているものを理解するには、民俗学や宗教の知識が必要になるだろう。八津次は多趣味だが、こういう方面に興味を覚えていた記憶はない。
直郎は残念ながら、宗派が違う。少しでも収穫はないかとゴソゴソやっている内に、澄んだ音を立てて一枚のコインが落ちた。
手に取れば、四角い穴の周りに並ぶ「使鬼通寶」の四文字。間違いなく、佐強が神具として渡された古銭と同じものだ。これがある理由は、いくつか考えられる。
古銭は「量産品の神具」で複数存在するか、佐強に渡された古銭は偽物であるとか、または古銭ごとに効果が違うため複数あるか……。
ひとまず、ここで得られるのはこれぐらいだろう。四人はまだ戻ってこなさそうだ。鴉紋はすずめの様子を見がてら、大広間に顔を出した。
座卓の一角に
頭が鐘になって音を響かせるように、ぐわんと痛い。
「さっちゃんのこと、困ったわね」
ああ、と応えながら鴉紋はさりげなく隣の座布団に座った。
彼は那智子が悲惨な目に遭ったことも、命を落としたことも理解している。その上で「小田島那智子は生きている」という矛盾した認識が同時に並列していた。
頭痛と耳鳴りがする。
「一ヶ月の間にどれだけ人魚を狩ればいいのか分からん。もっと確実な方法がありゃいいんだが、情報が少なすぎる」
「だったら、信多郎クンに聞けばいいのよ」
ぴんと指を立てて、
「お願い、鴉紋クン。あの人を信じて」
「お前が……そう、言うなら……」
頭が割れそうに痛み、思考がぼやける。
何かがおかしい。死んだはずの女が、目の前にいるのだから当然だ。しかしその女は間違いなく存在している。小田島那智子には生と死が同時に存在していた。
すべてが間違っているなら、いっそ間違いなどないのだ。
噂をすれば影、か。
鴉紋のスマートフォンに、「裏巽信多郎」からの着信があった。
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