いつつ 彼女はすべて赦してくれた

 待て、と言う暇もあったかどうか。

 玄関から数メートル先に立っていた佐強さきょうは、恐怖に顔を引きつらせて逃げ出した。腹をかっさばかれ、内臓を引きずり出された死体を見れば、そうもなるだろう。

 とうとう見られたか、と般若面の男――鴉紋あもんは凪いだ心で受け止めた。


 彼が瞑目めいもくすると、彫りの深い顔立ちの中、睫毛まつげが影を落とす。霊感に打たれた芸術家がこうだ! と確信を持って描いたように華やかな目鼻立ちだ。

 宇生方うぶかた鴉紋四十歳、腕周りはがっしりと太く、厚く立派な胸板によって腰が細く見える。逆三角形というやつだが、お陰であつらえた服でないと体に合わない。


「佐強の捜索は俺と直郎ちょくろうがやる、八津次はつじはいつもどおりそいつを焼いてろ」

「へいよー」

「行きます!」


 八津次――キツネ面の男――に死体の始末を任せ、鴉紋は直郎と二人で山を探し回った。万が一のため、佐強の財布やキーホルダーにはGPS端末を仕込んである。

 本人にも知らせていないこの扱いは、過保護と言われも仕方がない。

 だが、愛する女が突然行方をくらませて、見も知らぬ遠い土地で勝手に死なれた経験からすれば、同じ思いをするのは絶対に御免ごめんだ。


 ところが、GPSのすべてが機能しなくなっていた。スマホの位置情報は佐強が自分で切ったのだろうが、他の端末は見つけられていないはずだ。

 電話には応じず、メッセージアプリには既読こそついたが以後反応なし。夜が明けてしばらく後、鴉紋らは一度工房に戻って話し合った。


「どうやら、佐強のヤツは腰をすえて探す必要がありそうだ。直郎、お前有給は取れそうか?」


 工房のリビング、缶コーヒーを飲む二人をよそに、鴉紋はミネラルウォーターで喉を潤す。服に血をつけたまま、直郎は申し訳なさそうに言った。


「出来なくはありませんが、今日明日すぐに、かつ数日となるとなかなか厳しい物がありますね。気になる患者さんもいますし……」

「ならそれでいい、俺は休職をもぎ取ってくる。善意の第三者や警察に確保される前に、あいつを見つけて連れ戻す」


 佐強には自分たちの裏稼業を教えるつもりも、手伝わせる気もなかったが、いつかこんな日が来る気はしていた。それに、おそらくあいつは通報などすまい。

 なにしろ小田島おだじま佐強は、自分たちの息子なのだから。


「さすが鴉紋ちゃん、こうと決めたら一直線だねー。んじゃ、ボクは窯のお世話してるから、できたらその間に見つけてきてよ」


 八津次はプロの陶芸家として納品スケジュールがあるため、それをやりくりして死体を焼いている。人間の拉致も、死体の始末も、楽ではないものだ。

 陶芸窯は、火葬炉のように短時間で人を骨にすることはできない。だが一週間ほどかければ、骨を灰まで焼き尽くすことができるのが利点だ。

 温度を上げるために数日まきをくべ、つきっきりで火の番をし、窯が開けられるまで温度を下げるのにまた数日かける。当然、掃除もふくめてその間は作品が焼けない。


「佐強くんとよく話し合いましょう。わたしたちがどうして、何のために、こんなことをしているのか。あの子が最後にどういう決断をしても、わたしは受け容れます」


 直郎は、むしろ清々したという風にいさぎよく言った。この男はいつも、妙に透き通っている。執着や私欲という物が、とことん薄いのではないかと鴉紋は考えていた。


「それってつまり、ナッちゃんの事件を全部話すってことだよね」


 一瞬、真夏の朝に似つかわしくないほど場が冷えこんだ。十二年前、小田島那智子なちこの身に起きた事件が、鴉紋たち三人を凶行へと駆り立てた。


「当たり前だろうが」空気を断ち切るように言い放つ。「あいつももう十七だ、死体も見ちまった以上、何もかも話す。それで決まりだ」



 最愛の女を守れなかった負い目は、常に鴉紋について回っている。

 彼女だけではない、妹も、高校の時に付き合った恋人も、周りの女たちはいつも誰かに傷つけられ、自分はそれを防ぐことも守ることも出来なかった。

 鴉紋が捜査一課の刑事を志したのは、妹の性被害がきっかけだ。

 警察は追跡し、逮捕し、投獄する、国家的人狩り機関である。人間は傑出した狩猟動物であり、自分はどうやらその性質を色濃く持っていたらしい。


 だが、それでも、足りなかった。届かなかった。間に合わなかった。


――『もう赤ちゃん、産めなくなっちゃった』


 那智子の嘆きを忘れない。犯人が憎い、と口にした声の焼き焦がすような響きも、顔面にぽっかりと穴を開けた、黒々とした苦悩の色も。

 だからせめてものつぐないに、やつらを苦しめて苦しめて殺してやる。


 少年をレイプした男は、肛門から口まで串刺しにした。

 あまたの女を食いものにした詐欺師は、全身の皮を剥いでやった。

 女児の喉を陰茎で塞いで窒息死させ、しらばっくれた男はダルマにした。


――『ねえ、私一人が逝くのはダメなら、みんなはいっしょに来てくれる? 鴉紋クンと、直郎クンと、はちクンと。もちろん、さっちゃんもよ』


 那智子は死にたがっていた。そして時々、こんな風に誘ってきたのだ。

 そういう時の彼女は、人間という窮屈な殻を脱ぎ捨てて、まだ体が固まりきっていないもろく儚い生き物になったようだった。終わりに焦がれるたび、彼女の中では死と再生がくり返されていたのではなかろうか。さなぎが見る夢のように。

 無論、鴉紋たちは必死で止めた。幼い佐強を連れていくことだけは、絶対に阻止しなければならない。強引にでも入院させるべきだったろうが、後の祭りだ。


 命を落とすまでの二年間、那智子が佐強を連れて失踪したことは一度や二度ではない。傷つけられた彼女の心を、自分たちはついに癒やせなかった。

 佐強自身にそういった危うさはないが、子供を狙う危険は多い。少年課の配属経験こそないものの、現役刑事の鴉紋と小児科医の直郎はそれをよく知っている。

 だからこのぐらいがちょうど良いのだ。それを本人に悟らせなければ、なおさら。


 人探しは相手の情報があるほど好ましい。ましてや自分の息子だ、鴉紋は刑事としての経験も駆使して、名古屋まで足取りを追ったが、そこで行き詰まった。

 進展があったのは、佐強がいなくなって十一日目の今朝、突然GPSが復活した。指し示された位置が旧翠良みすら尾瀬おぜ村、というのが何とも嫌な感じだ。

 Yシャツにネクタイを締め、スラックスに革靴姿で鴉紋は車を走らせた。


(なんであいつがまた、那智の死んだ所にいやがるんだ)


 彼女が最期は一人で崖から身を投げたのか、足をすべらせたのか、いまだに判断がつかない。ただ、佐強を連れていかなかったことにだけは感謝している。

 願わくば、もっと生きていてほしかった。生きて、自分たちが差し出す手を握り返してくれれば。それを離さずに、笑って、ダンスにでも付き合ってくれれば。

 人が失敗した時、「足を踏み外す」のはダンスの腕が足りなかったからだ、と誰かが言った。自分なら、彼女のつまずきもフォローして踊ってやれたのに。

 それが傲慢でも、思い上がりでも、もはや確かめるすべはない。


 林道にしつらえられた「ようこそ 翠良尾瀬へ」の看板を越えてから、血のような雨が降り始めた。生い茂る木々も、木の葉も草も、国道の路面も川も真っ赤に染まり、まるで地獄絵図だ。それに、夏と言うより秋の長雨を思わせる辛気くささ。

 しとしとと赤い雨脚が無数にうろつく様は、傷ついた見えない巨人がいるようにも見えた。そのくせ、エアコン越しに入ってくる空気に鉄臭さはない。

 奇っ怪だが見せかけの自然現象かと思うと、はっと笑いがもれた。


「窓が汚れねえだけマシか」


 フロントガラスを濡らす雨粒は透き通っている。

 一度、試しに手を出して受け止めてみたが、やはりただの水だ。視界の邪魔にならないのならどうでもいい。八津次がいれば、面白がって撮影でもしただろう。


 カーナビの表示では、もうすぐ山を抜けて集落に着くはずだ。立ち並ぶ赤みどろの木々は、てっぺんに死体を突き刺した串に見える。ヴラド公串刺し公もかくやの眺めだ。

 木立の間から飛び立った一羽のカワセミが、青い羽根をひらめかせた。不気味な景色の中、ひときわ清らかに思えるそれを目で追った先に、人影がある。


 見た瞬間、鴉紋は急ブレーキをかけていた。傘を差した着物姿の女は、他人の空似と言うには、あまりに似すぎていて見過ごせない。

 一見すると、どこにでも咲いている野花みたいにありふれた美人だ。だがふと眼を留めてみると、魂のない人形のように気高く美しく、心を持って行かれてしまう。

 あんな女が、この世に二人といてたまるか。


「那智」


 半ば自失してつぶやきながらドアを開けると、むせかえるような血の臭いがした。車外へ出ると、Yシャツの白い生地がみるみる赤く染まっていく。

 顔についた雨粒を手の甲でぬぐうと、それは既に水ではなく、ぬるりと粘つく血液そのものだった。いったい何が起こっているのか。

 ここまで濃い血臭は、拷問部屋でも感じたことがない。


「鴉紋クン、ひさしぶり」


 官能的な唇が動き、はっきりと自分の名を呼ぶ。二度と聞くはずのなかった声に、鴉紋のたくましい体はネジを二、三本抜かれたように脱力した。

 は在りし日の記憶そのままの姿で、木立の間から歩み出る。睡蓮の着物に、蛇模様の帯。柔らかな髪を品良くまとめ、眼鏡をかけて。

 なだらかなで肩に、均整のとれた華奢きゃしゃ体躯たいく。手首に浮かぶ青い血管が見えるほど近づいても、彼女はそこに立っている。


「やっと翠良尾瀬に来てくれてありがとう。さっちゃんを探しているのよね? それなら、饗庭あいば地区の裏巽うらたつみっていう大きなお屋敷にいるから、すぐ見つかるわ」

「待て、那智。本当にお前なのか? いつからここにいた?」


 鴉紋は幽霊やオカルトを信じない。だが、永遠に別れてしまった愛する者との再会という奇跡を前に、誘惑に抗える人間がいるか?

 の瞳は妖しい笑みを浮かべ、自分の姿をくっきりと映していた。幽霊ではない、確かに、現実に、死んだはずの彼女が実体を持って存在している。

 今すぐ抱きしめたい。だが自分は、文字通り血に汚れすぎていた。


「大丈夫よ、鴉紋クン」


 は傘を手放して、自らも血雨にまみれる。黒いほどに濃い赤が、頭頂から白い頬を、うなじを、手のひらを、腕を、胸を、腹を、幾筋も舐めるように広がった。

 同じ血溜まりを踏みながら、彼女はまばゆく輝かんばかりだ。

 てらてらとなまめかしく光る手に、鴉紋は自然と腰を落として頭を近づける。ひやりと冷たい、木の葉のように小さな手のひらが両の頬を挟んだ。


「鴉紋クンも、直郎クンも、八クンも、間違ったことはしていないわ。さっちゃんだって分かってくれる。みんなでいっしょに、翠良尾瀬で暮らしましょう?」

「……そうだな」


 あぁ、とでくの坊になったように返事をする。今にも息の根が止まりそうな思いで、鴉紋はただただ彼女の一挙手一投足を見つめていた。

 佐強の居場所は分かった、すぐに直郎と八津次も呼んで、迎えに行かなくては。


「ねえ、鴉紋クン。わたし、美味しかった?」

「舌がただれそうにな」

「また食べたい?」

「お前が居てくれれば、それでいい」


 うふふ、とは心底嬉しそうに、光の粒をこぼすように笑った。両眼を閉じ、つんと小振りな口を上げる仕草には見覚えがある。

 鴉紋は血濡れた手で肩を抱き寄せた。唇を重ねればひやりと冷たく、ゼリーのように柔らかく変化してぴたりとこちらに合わさる。

 かけがえのない柔らかさに、魂まで吐き出してしまいそうだ。抱き寄せようとした腕が不意に空振りし、目を開けると彼女の姿はかき消えていた。

 あれほど辺りに充満していた血生臭さも失せ、見れば服にも体にも血液はついていない。ただ雨に濡れただけだ。一体、今のは何だったのか。


 混乱しながら鴉紋は車に戻り、蓋つきタンブラーの中身をあおった。ホテルを出る前、自前のコーヒーミルでお気に入りの豆を挽いたものだ。

 愛するカフェインとクロロゲン、苦味の中に段階的に広がる香りと酸味、ほのかな甘味のバランスが頭をスッキリさせてくれる。


 外を見やると、まだ赤い雨は続いていたが、フロントガラスを叩くのは透明な水滴だった。狐にでも化かされた気分だ。あるいは自分が正気を失ったか。

 己の正気だの、魂の平安などはクソ食らえだ。鴉紋が自分の精神から手綱を放さないでいるのは、ひとえに佐強の養育に差し障っては困る、という一点にあった。


 八津次は基本的にはらが読めない。実は殺しを楽しんでいるのではないか、と常々疑っているが、至極もっともらしいことを言ったりもする。

 直郎は信心と子供たちへの奉仕精神を柱にしていた。自身をクリスチャン失格だと言いながら、信仰は捨て去っていないようだ。

 何の助けにもならない神仏に祈ってどうするのか。


『祈れば必ず利益があるなら、それはただの取り引きです。むしろ無利益だからこそ、真に祈る価値があるのですよ』


 ああそうだ、信心深い義弟はそんなことを言っていたか。そういう心構えは鴉紋には分からない。ただ、自分は地獄に堕ちるだろうという彼の言葉には同感だった。

 大切なのは、佐強に同じ罪を背負わせないこと、きちんと独り立ちさせることだ。まずは、一刻も早く息子へ会いに行こう。

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