いつつ 彼女はすべて赦してくれた
待て、と言う暇もあったかどうか。
玄関から数メートル先に立っていた
とうとう見られたか、と般若面の男――
彼が
「佐強の捜索は俺と
「へいよー」
「行きます!」
八津次――キツネ面の男――に死体の始末を任せ、鴉紋は直郎と二人で山を探し回った。万が一のため、佐強の財布やキーホルダーにはGPS端末を仕込んである。
本人にも知らせていないこの扱いは、過保護と言われも仕方がない。
だが、愛する女が突然行方をくらませて、見も知らぬ遠い土地で勝手に死なれた経験からすれば、同じ思いをするのは絶対に
ところが、GPSのすべてが機能しなくなっていた。スマホの位置情報は佐強が自分で切ったのだろうが、他の端末は見つけられていないはずだ。
電話には応じず、メッセージアプリには既読こそついたが以後反応なし。夜が明けてしばらく後、鴉紋らは一度工房に戻って話し合った。
「どうやら、佐強のヤツは腰をすえて探す必要がありそうだ。直郎、お前有給は取れそうか?」
工房のリビング、缶コーヒーを飲む二人をよそに、鴉紋はミネラルウォーターで喉を潤す。服に血をつけたまま、直郎は申し訳なさそうに言った。
「出来なくはありませんが、今日明日すぐに、かつ数日となるとなかなか厳しい物がありますね。気になる患者さんもいますし……」
「ならそれでいい、俺は休職をもぎ取ってくる。善意の第三者や警察に確保される前に、あいつを見つけて連れ戻す」
佐強には自分たちの裏稼業を教えるつもりも、手伝わせる気もなかったが、いつかこんな日が来る気はしていた。それに、おそらくあいつは通報などすまい。
なにしろ
「さすが鴉紋ちゃん、こうと決めたら一直線だねー。んじゃ、ボクは窯のお世話してるから、できたらその間に見つけてきてよ」
八津次はプロの陶芸家として納品スケジュールがあるため、それをやりくりして死体を焼いている。人間の拉致も、死体の始末も、楽ではないものだ。
陶芸窯は、火葬炉のように短時間で人を骨にすることはできない。だが一週間ほどかければ、骨を灰まで焼き尽くすことができるのが利点だ。
温度を上げるために数日
「佐強くんとよく話し合いましょう。わたしたちがどうして、何のために、こんなことをしているのか。あの子が最後にどういう決断をしても、わたしは受け容れます」
直郎は、むしろ清々したという風に
「それってつまり、ナッちゃんの事件を全部話すってことだよね」
一瞬、真夏の朝に似つかわしくないほど場が冷えこんだ。十二年前、小田島
「当たり前だろうが」空気を断ち切るように言い放つ。「あいつももう十七だ、死体も見ちまった以上、何もかも話す。それで決まりだ」
※
最愛の女を守れなかった負い目は、常に鴉紋について回っている。
彼女だけではない、妹も、高校の時に付き合った恋人も、周りの女たちはいつも誰かに傷つけられ、自分はそれを防ぐことも守ることも出来なかった。
鴉紋が捜査一課の刑事を志したのは、妹の性被害がきっかけだ。
警察は追跡し、逮捕し、投獄する、国家的人狩り機関である。人間は傑出した狩猟動物であり、自分はどうやらその性質を色濃く持っていたらしい。
だが、それでも、足りなかった。届かなかった。間に合わなかった。
――『もう赤ちゃん、産めなくなっちゃった』
那智子の嘆きを忘れない。犯人が憎い、と口にした声の焼き焦がすような響きも、顔面にぽっかりと穴を開けた、黒々とした苦悩の色も。
だからせめてもの
少年をレイプした男は、肛門から口まで串刺しにした。
あまたの女を食いものにした詐欺師は、全身の皮を剥いでやった。
女児の喉を陰茎で塞いで窒息死させ、しらばっくれた男はダルマにした。
――『ねえ、私一人が逝くのはダメなら、みんなはいっしょに来てくれる? 鴉紋クンと、直郎クンと、
那智子は死にたがっていた。そして時々、こんな風に誘ってきたのだ。
そういう時の彼女は、人間という窮屈な殻を脱ぎ捨てて、まだ体が固まりきっていない
無論、鴉紋たちは必死で止めた。幼い佐強を連れていくことだけは、絶対に阻止しなければならない。強引にでも入院させるべきだったろうが、後の祭りだ。
命を落とすまでの二年間、那智子が佐強を連れて失踪したことは一度や二度ではない。傷つけられた彼女の心を、自分たちはついに癒やせなかった。
佐強自身にそういった危うさはないが、子供を狙う危険は多い。少年課の配属経験こそないものの、現役刑事の鴉紋と小児科医の直郎はそれをよく知っている。
だからこのぐらいがちょうど良いのだ。それを本人に悟らせなければ、なおさら。
人探しは相手の情報があるほど好ましい。ましてや自分の息子だ、鴉紋は刑事としての経験も駆使して、名古屋まで足取りを追ったが、そこで行き詰まった。
進展があったのは、佐強がいなくなって十一日目の今朝、突然GPSが復活した。指し示された位置が旧
Yシャツにネクタイを締め、スラックスに革靴姿で鴉紋は車を走らせた。
(なんであいつがまた、那智の死んだ所にいやがるんだ)
彼女が最期は一人で崖から身を投げたのか、足をすべらせたのか、いまだに判断がつかない。ただ、佐強を連れていかなかったことにだけは感謝している。
願わくば、もっと生きていてほしかった。生きて、自分たちが差し出す手を握り返してくれれば。それを離さずに、笑って、ダンスにでも付き合ってくれれば。
人が失敗した時、「足を踏み外す」のはダンスの腕が足りなかったからだ、と誰かが言った。自分なら、彼女のつまずきもフォローして踊ってやれたのに。
それが傲慢でも、思い上がりでも、もはや確かめるすべはない。
林道に
しとしとと赤い雨脚が無数にうろつく様は、傷ついた見えない巨人がいるようにも見えた。そのくせ、エアコン越しに入ってくる空気に鉄臭さはない。
奇っ怪だが見せかけの自然現象かと思うと、はっと笑いがもれた。
「窓が汚れねえだけマシか」
フロントガラスを濡らす雨粒は透き通っている。
一度、試しに手を出して受け止めてみたが、やはりただの水だ。視界の邪魔にならないのならどうでもいい。八津次がいれば、面白がって撮影でもしただろう。
カーナビの表示では、もうすぐ山を抜けて集落に着くはずだ。立ち並ぶ赤みどろの木々は、てっぺんに死体を突き刺した串に見える。
木立の間から飛び立った一羽のカワセミが、青い羽根をひらめかせた。不気味な景色の中、ひときわ清らかに思えるそれを目で追った先に、人影がある。
見た瞬間、鴉紋は急ブレーキをかけていた。傘を差した着物姿の女は、他人の空似と言うには、あまりに似すぎていて見過ごせない。
一見すると、どこにでも咲いている野花みたいにありふれた美人だ。だがふと眼を留めてみると、魂のない人形のように気高く美しく、心を持って行かれてしまう。
あんな女が、この世に二人といてたまるか。
「那智」
半ば自失してつぶやきながらドアを開けると、むせかえるような血の臭いがした。車外へ出ると、Yシャツの白い生地がみるみる赤く染まっていく。
顔についた雨粒を手の甲で
ここまで濃い血臭は、拷問部屋でも感じたことがない。
「鴉紋クン、ひさしぶり」
官能的な唇が動き、はっきりと自分の名を呼ぶ。二度と聞くはずのなかった声に、鴉紋のたくましい体はネジを二、三本抜かれたように脱力した。
なだらかな
「やっと翠良尾瀬に来てくれてありがとう。さっちゃんを探しているのよね? それなら、
「待て、那智。本当にお前なのか? いつからここにいた?」
鴉紋は幽霊やオカルトを信じない。だが、永遠に別れてしまった愛する者との再会という奇跡を前に、誘惑に抗える人間がいるか?
今すぐ抱きしめたい。だが自分は、文字通り血に汚れすぎていた。
「大丈夫よ、鴉紋クン」
同じ血溜まりを踏みながら、彼女はまばゆく輝かんばかりだ。
てらてらと
「鴉紋クンも、直郎クンも、八クンも、間違ったことはしていないわ。さっちゃんだって分かってくれる。みんなでいっしょに、翠良尾瀬で暮らしましょう?」
「……そうだな」
あぁ、とでくの坊になったように返事をする。今にも息の根が止まりそうな思いで、鴉紋はただただ彼女の一挙手一投足を見つめていた。
佐強の居場所は分かった、すぐに直郎と八津次も呼んで、迎えに行かなくては。
「ねえ、鴉紋クン。わたし、美味しかった?」
「舌が
「また食べたい?」
「お前が居てくれれば、それでいい」
うふふ、と
鴉紋は血濡れた手で肩を抱き寄せた。唇を重ねればひやりと冷たく、ゼリーのように柔らかく変化してぴたりとこちらに合わさる。
かけがえのない柔らかさに、魂まで吐き出してしまいそうだ。抱き寄せようとした腕が不意に空振りし、目を開けると彼女の姿はかき消えていた。
あれほど辺りに充満していた血生臭さも失せ、見れば服にも体にも血液はついていない。ただ雨に濡れただけだ。一体、今のは何だったのか。
混乱しながら鴉紋は車に戻り、蓋つきタンブラーの中身をあおった。ホテルを出る前、自前のコーヒーミルでお気に入りの豆を挽いたものだ。
愛するカフェインとクロロゲン、苦味の中に段階的に広がる香りと酸味、ほのかな甘味のバランスが頭をスッキリさせてくれる。
外を見やると、まだ赤い雨は続いていたが、フロントガラスを叩くのは透明な水滴だった。狐にでも化かされた気分だ。あるいは自分が正気を失ったか。
己の正気だの、魂の平安などはクソ食らえだ。鴉紋が自分の精神から手綱を放さないでいるのは、ひとえに佐強の養育に差し障っては困る、という一点にあった。
八津次は基本的に
直郎は信心と子供たちへの奉仕精神を柱にしていた。自身をクリスチャン失格だと言いながら、信仰は捨て去っていないようだ。
何の助けにもならない神仏に祈ってどうするのか。
『祈れば必ず利益があるなら、それはただの取り引きです。むしろ無利益だからこそ、真に祈る価値があるのですよ』
ああそうだ、信心深い義弟はそんなことを言っていたか。そういう心構えは鴉紋には分からない。ただ、自分は地獄に堕ちるだろうという彼の言葉には同感だった。
大切なのは、佐強に同じ罪を背負わせないこと、きちんと独り立ちさせることだ。まずは、一刻も早く息子へ会いに行こう。
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