むつ 穢土(おど)果つるまで、降り注ぐ
『この雨は、光の加減で赤く見える、大変珍しい気象現象の一種です』
暦は八月。仏間に置かれた受信機が、ホワイトノイズを背景に告げる。
『体に害はありません。みなさん、あわてず落ち着いて、一日を過ごしましょう。くり返します。この雨は、光の加減で赤く見える、大変珍しい気象現象の一種です。体に害はありません。みなさん、あわてず落ち着いて、一日を過ごしましょう。以上、
締めくくりのピン、ポン、パン、ポーンという甲高いチャイムを聞き流し、
眼鏡は滝壺に落ちた時に流されたらしく、見当たらない。代わりに、空になった
「若先生、なんで儀式が失敗したんですか?」
「今の段階では、判断しかねます。情報が少なすぎますので」
失明していなければ、自分は周りに座した老人たちの姿を目にしたはずだ。皆、さぞ不安な顔をしているだろう。今は、彼らの聞きたいことを言ってやるしかない。
「私らは、どうしたらいいですか」
「まずは、
他にもいくつか簡単な指示を出す。放送ではああ言っていても、神主と子供二人が滝壺に落ち、その後地底湖でつながった洞窟から救出されたことは知れ渡っている。
そこへ来てこの怪雨。誰もが龍神の祟りと結びつけているはずだ。
「いをはいつごろ、集落に現れるやろ」
「今おどはつの雨が降っているそうじゃないですか、いつ出ても
御怒髪、あるいは小渡果つ、澱果つ。みすらおがみが激怒した時、翠良尾瀬に災厄の前兆として降り注ぐ血色の雨を、「おどはつ」と呼ぶ。
それを知るのは裏巽家とオヤカタサマのような、古くからの知識を伝える家だけだ。巷では妖怪の名として、誤った伝承だけが残された。
体に直接害がないのは事実だが、老人たちはこの後に来るもの……いをとにくべとの再来におびえている。
できそこないの人魚、かつて翡翠姫を食らって罰を受けた、罪人のなれ果てを。
◆
『くり
遠くで響く村内放送はノイズが混ざり、聞き取りづらい。辛うじて赤い雨についての呼びかけであると理解できたが、それでは、自分に降り注ぐものはなんだろう。
ここは本来、古民家が建ち並ぶ通りの中で、傍には生け垣があったはずだが、もうろうとした視界ではよく見えない。濃厚な生と死と血の悪臭に感覚が
ぴちゃぴちゃと音を立て、人間になりかけた肉の塊が辺りにしたたり落ちる。それを踏みつけたくなくて、彼は一歩も動けなくなっていた。
「……そんな目で見ないでください」
時間と共に肉塊たちは成長し、ついに眼球を獲得したらしい。魚のような、何の感情もうかがえない平坦な黒い丸が、無数に視線を向けてくる。
胎児は
気がつかない内に地獄へ迷いこんだのだとしたら、こんなにも己に相応しい場所はない。直郎はこれまでに救えなかった、小さな命のことを思った。
この子たちはどこから来たのだ。なぜこんな形で、地上に産み落とされねばならなかったのだ。医師として学んだ知識が、技術が、何の役にも立たない。
手の中の乳幼児はずしりと重みを持ち、自分の指をしゃぶりながら物言いたげに見上げてくる。泣きもせず、笑いもせず、ただただそこにいて――
「直郎クンったら、思いつめやすいんだから」
傘が差し出され、血の雨と赤子の波を遠ざける。バランスを崩した手のひらから、ぱしゃりとただの水がこぼれ落ちた。
「まだわたしたちのこと、気にしているの? ううん、あなたは一生ずっとそうなのよね。もっと自分に正直になってしまえば良かったのに」
笑顔の輝きが目をくすぐり、よどんだ心をはっと澄ませる。血の臭いも、生肉を舐めたような生物の原液じみた味わいも、夢のように消え去った。
◆
洞窟から救出された後、佐強はすずめや信多郎と共に軽く診察を受け、ヘルパーをつけて裏巽家に帰された。何しろ手や足や目がなくなったのだ。
まずは温かいシャワーを浴びて着替えを、次に食事を。お手洗いに行って、布団を出して寝る。それらのすべてに、佐強は人の手が必要だった。
(分かった分かった、どん底って二重底三重底だから、簡単には割れないんだわ)
当たり前にできていたことが、できなくなる。「体をもがれたような」なんて喪失感の表現があるが、実際にもがれてみやがれ、と悪態を
自分の生活も、行動も、何を楽しむのも、「できること」を前提にして成り立っている。それが一気にひっくり返され、テレビのチャンネル一つも他人頼みだ。
「さっちゃん、元気出してね」
「すずめちゃんもね」
しかして両足をなくした少女に慰められると、佐強は虚勢を張らずにいられない。顔は青ざめているかもしれないし、目は赤く
それでもいつものように、にへらと笑ってみせるのだ。
すずめは貸し出された子供用の車椅子に座り、女性ヘルパーに付き添われていた。浴衣から花柄のワンピースに着替えており、中身のない
『佐強くんの家の事情は分かったけれど、お母さんのことが祟りの原因とは限らんよ。言いづらいこと、話してくれてありがとう』
家族四人の葬式で母親を食べた話をしたのに、信多郎はいつもと同じ、色あせた灰色の笑みで静かに受け容れてくれた。すずめはよく理解していないようだが。
龍神の祟りは、娘である人魚を食べたことで起きた。この地と縁もゆかりもない母を食べたことと、関係がないと言われれば関係がなさそうに思える。
母の思い出は少ないが、ちゃんと両足のついた人間だったはずだ。
(……だったら、滝で見た母さんは何だったんだ?)
奪われた三つの体と、空が丸ごと赤くなったような雨。『翠良尾瀬村民俗誌』を読めば何か分かるかもしれないが、ヘルパーの手を借りるのは気が引ける。
両手の先がないだけで、とてつもない不便だ。昨夜も食前や眠前の祈りをしようとして、手がなくなったことを再確認してしまった。切り口のあたりをくっつけて、それでよしとしたが、父さんなら何と言うだろう。
「佐強くん、ちょっと来れるかなあ」
もう一人のヘルパーに先導されて、信多郎が部屋に入ってきた。
少し前まで、オヤカタサマや村役場(※神島市役所翠良尾瀬支所)の人が入れ替わり立ち替わり出入りしていて、やっと一息つけそうだった所だ。
「何ですか」と佐強は腰を浮かせた。裏巽家の洋間、椅子に座っているから立ちやすいが、座布団だと巧く立てるか自信がない。
「今、
「ピンチはチャンスにもほどがあるのよ!!」
思わず声が裏返ってしまった。なぜよりにもよって、こんな時に来るのか。
五体が欠損した時に最も頼れるのは家族だろうが、その家族に問題を感じて――というか殺人を見て家出した真っ最中に、それはないだろう。
「でもこんな状態で、佐強くんもまだ心の整理、ついてないやろ。会うのやめとくかい? いやー、むしろ黙って追い返した方が良かったかな」
ふいに、佐強の脳裏に山で見た死体がフラッシュバックする。
かっと目を見開いた、胴体がぐちゃぐちゃの男。今思い返すと、あれははらわたを
なぜそこまでしたのか、どうしても父たちから聞き出さねばならない。だが、ヘルパーが二人いるとはいえ、こちらは体の一部を失ってている。
襲われたら、きっとひとたまりもない。
「ああ、それとさっきの会合で不審者の話も聞いたよ。この近くを眼鏡をかけた男が歩いとって、まあ見た感じは普通だったらしいんやけど。急に雨の中で立ち止まったかと思えば、ずっと自分の手のひらを見つめていて。そのうち、見えない誰かと話しだしたとか何とか。戸締まり、気をつけへんとなあ」
信多郎は、もう話を終わったものとして雑談に入る姿勢のようだ。
「……あの。ここに来ているのは、一人だけですか?」
「多分。どうやったかな、
信多郎が男性ヘルパーに訊ねると、一人しか見えなかった、と返ってきた。由緒正しい日本家屋である裏巽家にも、インターフォンはある。
「……オレ、会います。モニター越しにですけど、やっぱり話しておきたい」
洞窟で救助を待つ間、「これが祟りなら、みすらさまの怒りを解けば体は元に戻るかもしれない」と信多郎は話していた。だが怒りの原因が何かは不明だ。
父たちの所業が本当に無関係なのか、確かめなくてはならない。自分のためにも、すずめや信多郎たちのためにも、この祟りを終わらせるのだ。
すべてを解決できる鍵があるのかもしれない――佐強はまだ、そんな希望を捨てていなかった。
※
『佐強、てめえやっぱりここに居やがったのか』
バリトンよりさらに低く、深みのあるバスボイス。嫁を食ったり人を殺したり、頭がおかしいとしか思えないことばかりしているのに、相変わらず男前だ。
込み入った話なのでヘルパーには一旦引き取ってもらった。信多郎は後ろにいる。
「……オヤジ。何か言うこと、あんじゃないの」
『そうだな。まず、てめえをぶん殴ろうとか思っちゃいねえよ。この家の人間の安全も保証する。俺たちにも俺たちなりに、理由があった。ゆっくり話したい』
「そりゃ、できるならオレもそうしたいんだけどさ」
向こうはこちらの姿が見えないので、佐強が両手を失っていることは分からない。知られたら、さすがに殺人がどうの以前に、そのへんの事情を訊かれるだろう。
「なんつうか、ちょっと、こみ入っていて」
『あァ? 今のウチの状況より、こみ入ることがあって堪るかよ』
「そりゃそうなんだけどねえ!」
手が残っていたら頭を抱えたい所だ。鴉紋が舌打ちするのが聞こえたが、本当に複雑怪奇な事態になっているのだからしょうがない。
『らちが開かねえな。とっととそこから出て来い』
「あのさ。オレ、裏巽さんに、オヤジたちが人殺しなのも、母さんを食べたことも、全部話しちゃったんだよね。やむにやまれない事情があってさ」
沈黙が返ってきた。鴉紋だけでなく、佐強も黙って互いの腹を探り合う、無言の
ふーっ、と細く、長く、鴉紋は息を吐き出した。
『そうか』
声音は落ち着いていて、投げやりさや開き直りは感じられない。それだけで、佐強はもう一度父を信じてみたくなった。そんな誠実さがある一声だった。
単に美声に騙されているだけではないか、と佐強は一応吟味したが、心はとうにほぐれている。警察の取り調べでも、この声で何人も落としてきたに違いない。
『お前が話したんなら、そっちにもそれだけ信頼できる相手がいたんだろう。……今まで、黙っていてすまなかった。俺たちの息子を追い詰める気はなかったんだ』
鴉紋が頭を下げる姿など、滅多に見られるものではなかった。
張りつめていた気は一度途切れると、そう簡単には戻らない。いくら奇妙でも、異常でも、十七年育てられた家族だ。反論を探して、佐強は質問を重ねた。
「念のため聞くんだけどさ。あれ、食べるためにやったわけ?」
インターフォンからドスの利いた『あァ!?』が不機嫌に飛び出す。「あなたはこのウンコを食べますか?」と大真面目に質問されたみたいにだ。
『てめえ、何がどうしてそんな勘違いしやがった』
「他に動機なんて思いつくわけないじゃん!」
先ほどより数段大きい舌打ちが響く。
『仕方ねえな、そのへんも含めてよく言って聞かせてやる。ただ、覚悟しとけよ。那智について、お前に隠していたことがあるからな』
母の名前が出てドキリとした。翠良尾瀬に来てから、姿を現した幽霊と、それを何の疑問もなく受け容れた自分。なぜだか、胸騒ぎがする。
『七つだったお前は覚えちゃいねえだろうが、あいつは翠良尾瀬で死んだんだよ』
全貌が見えないパズルのピースが一つ、カチリとはまった気がした。
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