第二滴 あかかおんが、吼える。

よっつ これは告発ではない

 春、八王子市のさびれた団地の傍だった。

 森のように緑が広がった廃寺の一角に、古びて朱の色もあせた祠がある。誰かが手入れしているのか、瑞々しい花が供えられていた。

 中年に差しかかった女が一人、祠の格子戸に赤い紙をねじこみ、手を合わせる。


「あかかおんさま、あかかおんさま。どうか、夫を殺してください」


 やつれた顔で、祈りの声にも張りがない。服装にはまったく気を遣っていないようで、部屋着そのままのスウェットにぼさぼさの髪、むろん化粧どころではなく。

 女は三度祈りをくり返すと、真っ直ぐ手近な立木へ向かった。幹にはゴミ捨て場から拝借してきたのか、薄汚れたビールケースが置かれている。

 女はそれを足場にすると、ナップザックから太いロープを取り出し、頑丈そうな枝を見つくろって引っかけた。


 くたびれたスニーカーは、しばらく足場をしっかり踏みしめている。

 ロープの扱いに苦心しているらしい。少しバランスを崩しかけたので、ケースを降りて位置を微調整する。今度は思い通りに事は進んだ。


 人はあやまちを犯した時、多くは「足を踏み外した」と表現される。実際、人生とはつまずきの連続で、上手く足運びステップを取りつくろわなくてはならない。

 その取り繕いが巧みなら、踊っているようにさえ見えるだろう。そう、幸せな人はみんなダンスを踊っている。幸せな人は。


 女は自ら足を踏み外した。ラスト・ステップはやはり見目良いものではなく。

 英語では、絞首刑のことをDancing on Air空中舞踏. とも表現するそうだ。



 八王子由鈴宮ゆうりんのみや総合病院・小児科診察室1。


「はい、頑張りましたね、つかさくん。じゃあ、今回のスタンプを押しましょう」


 担当医のせい直郎ちょくろうは、眼鏡の奥の目を細め、透き通った笑みを向けた。小さな命への慈しみがあふれ、内側から淡い光となってにじみ出ている。

 不惑を控えて年相応の落ち着きを持った、スマートで穏やかな男性だ。

 つかさと呼ばれた五歳児は、嬉しそうに新幹線のイラストつきスタンプカードを差し出した。押印する直郎の手には、結婚指輪がある。


「次回でスタンプがいっぱいになりますね」


「お医者さん」に苦手意識を持つ子供は多い。

 泣いて暴れる子供たちをなだめすかし、かつ次回の診療にも苦手意識を持たないようにケアする、これは小児科医の辛いところだ。

 というわけで、直郎の場合はスタンプカードを用意していた。数が貯まるとキャラクター物の絆創膏などがもらえるシステムになっている。


 直郎はつきそいの母親に向かって話しかけた。「処方はいつもの量で出しておきます。次回もこの調子が続くなら、少しお薬を減らしましょう」


 つかさが患っている小児喘息ぜんそくは、七割が自然治癒すると言われるが、患者の苦痛は大きく、早めに治しきりたい病気だ。幸い、両親は息子のアレルゲンに理解があり、日々のケアにも熱心で、問題なく完治できそうだった。


「ありがとうございます。つかさくん、先生に挨拶しようね」

「ヨナオシせんせー、さよならー!」

「はい、さようなら。次回も待っていますよ」


 つかさに請われて指切りげんまんを交わし、直郎は次の診察に取りかかった。

 世という珍しい名字に、直郎という名前が続くので「世直し先生」。いつの間にやら、子供たちの間で広まったあだ名だ。それで親しみが生まれるなら構わない。


 子供たちと触れ合う時の温かな気持ちは、直郎の心の奥深く、いつも冷たく凍えている部分を癒してくれた。あまりにも古すぎて血が巡らない、壊死しかけた慕情を。

 直郎が思うに、それは養護施設出身で、血のつながった親族がほぼいない我が身の寂しさが正体なのだろう。決して表に出すべきではない、卑しい感傷だ。


 自分の使命は、病気や怪我で子供たちの健やかな成長が妨げられないよう、医師として尽力すること。そう言い聞かせていると、ふとあだ名のヨナオシが重くなった。

 小児科医の重大な責務の一つに、「児童虐待の発見」がある。体重増加不良や心身の発育不全から、その背後にあるネグレクトや虐待を疑い、正確な診断と適切な治療を行う。見落としがあれば、それは即座に致命的な結果を招きかねない。


 例えば虐待児童が保護期間を過ぎて自宅に戻された後、心配した医師が電話で確かめたら「その子は階段から落ちて死にました」と言われたケースもある。

 しかし、直郎は自分の仕事を後手だとは思わない。医師は最も早く虐待を見つけられる立場であって、やれることを着々とこなすだけだ。気を病んでいる暇はない。


 一方で、直郎が最近気にかけているのが、美藤みどう華鳳かほという十一歳の少女だ。今年の初め、母親の梨影りえが夫による虐待の疑いがあると相談してきた。

 診察の結果、局部を損傷する明確な性的虐待が確認され、入院加療(観察)へ。警察と児童相談所に連絡を行ったが、直後に父親が失踪してしまった。

 SCAN虐待対策チームの定例会でも取り上げられているが、退院後、美藤母子は病院に姿を見せない。どこもかしこも人手不足なのが、歯がゆかった。


 美藤梨影が首を吊って緊急搬送されてきたのは、そんな時だ。



 季節は真夏に移り変わる。深夜、直郎は山道に車を走らせ、「義弟」の陶芸工房を訪れた。駐車場にしている空き地に、見知った車が停まっているのを見つける。

 エンジンを止めて、直郎は眼鏡からコンタクトレンズに替えた。鞄から取り出した仮面をつけるためだ。神楽や能楽で使われる、伝統的なおきな面を。


 二階建てのログハウスは広々としたウッドデッキを持ち、裏に窯小屋がある。玄関を入ってすぐは吹き抜けのリビングで、奥が陶芸工房になっていた。

 用があるのは鍵付きクローゼットだ。内部の床に地下への扉があり、狭く、暗く、急勾配の階段がある。突き当たりの鉄扉まで来ると、打擲ちょうちゃく音がもれ聞こえた。


 内開きの扉をくぐって入室すると、透明なビニールカーテンに遮られて、ぼやけた人影が激しく動いているのが見える。床は一面のブルーシート。

 部屋が狭く見えるほど筋骨隆々とした男が、天井から吊された大きなズダ袋を竹刀で打ちえていた。顔は般若面で隠されているが、素顔も似たようなものだ。


「オキナ、おっつー」


 カーテンをかき分けると、椅子にだらしなく腰かけるキツネ面の男が声をかけてきた。青く染めた髪を肩口まで伸ばして後ろで結び、退屈そうにしている。

 堂に入った動きで竹刀を振る般若の横を素通りし、直郎はキツネに話しかけた。三人とも、使い捨てていいように安物のシャツ、ズボン、靴でそろえている。


「調子はどうですか。歯の一つも折れていそうですが」

「まあ骨はイッってないんじゃない? そろそろ終わりそー」


 ズダ袋はちょうど、人間が丸ごと一人入る大きさだ。絶えず響くくぐもったうめきと、激しい殴打を聞き流して、二人はごく平静に言葉を交わす。

 数分して、竹刀が大きな音を立てて折れた。そろそろ頃合いだ。


 般若が滑車を操作し、床に転がしたズダ袋から全裸の男を引きずり出す。両手両足に目と口をダクトテープで封じられ、歳は直郎より少し若い。

 持参した診療道具を取り出している間に、般若とキツネは二人がかりで男を部屋中央の椅子に拘束した。金属製のそれは座面に丸く穴が開けられ、下にタライが設置されている。ひじ掛け、背もたれ、脚には頑丈な革ベルトがついていた。

 全身は痛々しいアザだらけで、まるでマダラ模様の動物だ。顔面はれ上がり、元の人相が分からなくなっている。こちらはそれで不都合なかった。


「か、カンベンしてくれよ」


 目と口を解放され、皮が剥けた唇から血を流しながら、男は弱々しく請う。ここまでやればもう気は済んだろう、何でもする、金も出す、と。

 相手の脈拍や血圧を測りながら、直郎は冷たく告げた。


「いえ、今までのはただの慣らしです。これから拷問を受けていただく方に、いちいち気絶されたり、ショック死されては面倒ですので」

「ごうもん?」


 スコン、と頭の中身を抜かれたような間抜けな声だ。直郎は手で、部屋に置かれた作業台を指し示した。そこには多種多様な道具が所狭しと並べられている。

 釘、金槌、裁縫針、ノコギリ、手斧、ネイルガン、電熱式の焼きごて、ペンチ、大小さまざまなナイフ、千枚通し、チェーンカッター、バーナー、その他もろもろ。


「体力は充分ですね、予定通りいきましょう」


 直郎の診断に、般若面は防水エプロンを装備した。これからここは血で汚れる。男は表情のコントロールを手放して、だらしなく口を開けていた。放心状態だ。

 じわじわと、これから自分は地獄を味わうのだと理解するだろう。呆けた男の前で手を振り振り、キツネは軽薄な調子で言った。


「まあそんな顔しないでよ。今からオニイサンにはめちゃくちゃ苦しんで死んでもらうけど、なんでそんな目に合うかはオキナがちゃんと説明するからさ」

美藤みどう政章まさあき三十四歳、小規模ながら建設会社を経営。妻と長女の三人で暮らし、近所では夫婦仲も親子仲も良かったと評判。しかし今年の初め、母親が由鈴宮総合病院に長女を連れ、性的・身体的虐待が発覚。以後は失踪し、埼玉に潜伏」


 美藤家は、児童虐待を抱える家庭の典型的なパターンだ。

 父親が稼ぎ頭で経済的に裕福ということは、家族に対する支配力がそれだけ強いことを意味し、何かの拍子でバランスが崩れた時、暴力が発生してしまう。


「あなたの会社は一昨年から経営難にあったようですが、どういう理由であれ、その行いは決して許されるものではありません」

「し、死のうと思ったんだ!」美藤は自分の運命を悟り、目を血走らせて抗弁した。「あいつが華鳳を病院に連れて行って、児相が来た時、もうダメだ、一家心中しかねえって……でもやっぱり一人でやろうっておも、思って……」


 直郎はそれを切り捨てて言葉を続けた。


「無理心中を選ばなかったことは大変正しい判断です。おかげで命が救われましたが、あなたは逃げた後のことを何一つ考えていない。まったく自己本位な行動です。あなたは人間二人の人生を破壊しました。奥さんの美藤梨影さんは、今年の春に亡くなられましたよ。あなたを恨む遺書を残して、首を吊られてね」


 一瞬、美藤の驚愕が恐怖を上回った。梨影が命を絶った引き金は、彼が一方的に送りつけた離婚届だろう。しかしそのお陰で、般若が美藤の居場所を割り出せた。

 人を殺すときには死体の始末だけでなく、その足取りを追われないようにすることが大事だ。その点、自ら失踪し、人目を避け、偽名を使っていた美藤は楽だった。


「何より気の毒なのは娘の華鳳ちゃんです。初潮もまだの我が子の膣を傷つけたのはどんな気分ですか? あなたが与えた傷痕は、一生彼女に影響する。いつか、自分の身に起きたことを理解してしまった時のことを思うと、胸が痛みます」


 めらめらと憎悪の炎が直郎の臓器という臓器を焼く。

 父親による娘への性虐待は、親子関係の中で発生するため、日常生活の段階から問題が潜んでいることが多い。だから単なる加害者・被害者の関係では測れない物だ。

 このような問題は、家族全員が被害者だとも言える。


 だが、美藤家は――手遅れだ。


「それに、児童養護施設というものはいつだって人手不足なのですよ。あなたはそこにまた一つ負担をかけた。そして施設を出た後も、就職や住居に苦労し、貧困に陥りやすく、しかも抜け出しがたい。あなたが親の務めを果たさなかったから!」

「おっお前らに……お前らに何が分かる!」とうとう美藤は逆ギレした。「人をこうやって拉致して道具をそろえて拷問しようってヤツが、まともな人間かよ! おれを責める資格がお前らにあるっていうのか!?」


 唾が翁面の表面に飛ぶ。なるほど彼の言うことはいかにも正しい、が、自分たちは正義の味方ではない。行動原理は至極単純、「憎悪」だ。

 場違いに、キツネが明るい歌声を上げた。両手の人差し指を立て、リズムをつけて体を揺らす。


「あくにん、た~べる、あかかおん♪ あくにんへって~、おなかがぐう♪ あくにんい~れば、あかかおん♪ いいこにしないと~~? たっべっちゃっうぞ!」

「おいキツネ、それやめろ」


 般若がドスの利いた声で止めたが、キツネは黙殺してしゃべり出した。


「〝あかかおん〟の都市伝説って知ってる? 恨みを持った相手の名前と罪を赤い紙に書いて、あかかおんの堂にお参りしたら、そいつを食ってくれるってウワサ。お堂の赤紙回収したら、けっこう個人情報とかも書いててさ。そこから色々調べると、こ~いう人間のクズが見つかっちゃうってワケ」


 直郎が最初にその噂を聞いたのは、愛息子の佐強さきょうからだっただろうか。それとも、キツネがたまたま見つけたお堂からだっただろうか。


「……美藤正章。あなたは一つ、勘違いをされています。虐待の存在を認識することと、加害者の告発、処罰は別の問題なのですよ。必要なのは、虐待を認め、そのような事態に陥った家庭を支援と福祉につなげていくことです」


 美藤の左目はまぶたが腫れ上がって、ほとんど視界が塞がっている。直郎はペンチでそれをつまみ、ぴんと引っぱった。切り取りやすいように。


「しかし、あなたはそこから逃げた。己を省みて、やり直す道を自ら捨てた」


 まぶたの根元に剃刀を当てる。許しを求める声は耳に入らない。


「だから、もう終わりなんです」



 美藤正章は数時間をかけ、夜明け前に息絶えた。キツネは自分の工房に死体を入れるのを嫌がるので、玄関から運び出し、ぐるっと裏手へ回って窯へ入れる。

 狭く急勾配な階段を登って運ぶのは面倒だが、外へ出れば手押し車に乗せればいい。美藤が死んだ時点で、三人は仮面を外していた。

 万が一逃げられたり生き延びられたりした時のため、仕事の時は素性を隠すのがルールだ。そう、仕事。憎たらしい悪人を一方的に狩る、卑劣でささやかな行い。


(〝人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生まれなかった方が、彼のためによかったたであろう〟)


 マルコによる福音書14章21節。自分は地獄に堕ちるだろう、と直郎は確信している。それはずっとずっと昔から決まっていた。

 しゅに従って歩むことのできなかった裏切り者、主を見捨て、互いに愛し合いなさいという教えを忘れた愚か者。その上で自分はこの道を歩む。


 もし佐強がこんなことを知ったら、何と言うだろうか。たびたび行う想像をいつものように胸中でもみながら、直郎は一瞬まぼろしかと目を疑った。

 有り得ない時間、有り得ない場所――自分の部屋からそのまま出て来たような息子が、呆然と目の前にたたずんでいた。

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