みっつ 人魚の果てざねを、返し入れ奉れ
夜の六時半、
坂の終わりが、みすらおがみ神社の入り口だ。佐強は早めに来たつもりだったが、既に中々の人出があり、残照の底に出始めた影を提灯が照らしている。
石造りの鳥居を見上げれば、束には『翠良龗神社』とあった。佐強が生まれて初めて目にする漢字が入っているが、翠良龗で「みすらおがみ」と読むのだろう。
「ジンジャ、ついたね!」
浴衣姿のままやって来たすずめは、嬉しそうに上の神社を指さした。さぞ通学には苦労するであろう坂道の次は、長い石段が待ち構えている。
「おくのタキはねえ、いをが出るから近づいたらアカンの。今日はトクベツなん。にんぎょざねを、えーと、〝かーしいれまれ〟するから」
「滝に蛇の卵、投げ入れるやつかね?」
すずめがうろ覚えで言っている単語が何かは、佐強にはまったく分からない。とはいえ、なにがしか説明されるだろうからと、気にせず石段に足をかける。
いをは『翠良尾瀬村民俗誌』にも妖怪として載っていた。いはカタカナのイで
「あら、あんた若先生んところの」
「東京から来たボウズか、夜の部も出るなんて感心やなあ」
「若の姪っ子さん、君が面倒みとるんか」
祭りの時期もあってか、
さらにプールの監視員などをしていたことで、佐強の顔は村の人々に知れ渡っているようだ。こちらは名前も知らない相手なので、奇妙な感じがする。
適当に受け流しながら境内に入ると、『
「これをね、タキに入れるんだよ!」
すずめも赤い袋の人魚実を渡されていた。佐強が受け取ったのは水色なので、カラーバリエーションまであるらしい。
「さっちゃんのにんぎょざね、いいなー。すずめとコウカンしよっ」
「姫さまはブルーがお好きですか。どうぞどうぞ」
わぁい、とすずめは袋を手にバンザイし、その場で一回転した。ずいぶんな喜びようだが、滝に投げ入れる時「手放したくない」と嫌がったりしないだろうか。
心配半分、微笑ましさ半分で佐強は境内を見回した。扉を解放した拝殿の前に、少し間を空けてパイプ椅子が並べてある。
佐強たち通常の参加者はここに陣取り、〝オヤカタサマ〟と呼ばれる七家系の代表者だけが、拝殿内に上がることを許されているそうだ。何の家系かは知らない。
「すずめ姫、前のほう座られますか?」
「うん!」
拝殿内には、すでに黒紋付の羽織袴で正装した男たちが、
無紋の白
和太鼓が叩かれる。石段の下で佐強が聞いたのはこれだ。祝詞を唱える信多郎の声は、能や歌舞伎のような独特の発音で、別人のようだった。
「かけまくも
祝詞を終え、
「おじさん、がんばれー」
どうやら
拝殿内には信多郎と似た格好の神職が五、六人と、いくつかの祭具が見える。お祓いのたび鳴らされる和太鼓、円形の木枠に皿のような
パイプオルガンのミニチュアみたいに、管がいくつもある竹の笛は、佐強にも見覚えがある雅楽器だ。馴染みのない世界に感心している間に、時間が来る。
大仰な挨拶の代わりに、どぉん、どぉん、という太鼓の合図で空気が変わった。
信多郎のまとう雰囲気はひときわ白く輝き、まるで今死んでも構わない、というほど真剣で穏やかな落ち着き見せる。
神職たちが
トコトコトコトン トントントントン
トコトントントン トントン
トコトントントン
隣のすずめは退屈そうに、人魚実の袋を手の中で転がしていたが、佐強の心境もどっこいだ。年上だから、じっと静かに我慢しているだけで。
佐強は信多郎から、事前に夜祭の式次第を聞いていた。昔は他にも
トン トトン トン トン
締めの太鼓が鳴らされ、信多郎が拝殿から降りてきた。
「それでは皆々さま、〝ついぐなの儀〟締めくくりの次第で御座います」
それを合図に、彼を先頭にしてオヤカタサマと村人が動きだす。境内を右手に抜け、ぐるりと回った先に龍神が棲まうという
夏とはいえ辺りは暗くなってきて、提灯が照らす山道を歩くと、すぐに水音が聞こえてきた。想像していたよりも大きく、立派な滝だ。
高々とした岩場に白く水煙を上げる瀑布がかかり、ごうごうと滝壺に荒波を流しこんでいる。周囲は錫杖と注連縄がぐるりと囲んで、水辺への立ち入りを阻んでいた。
信多郎に合わせて一同が礼をすると、最後の祝詞が読みあげられる。
「かけまくも
すずめだけではなく、周囲の人々が人魚実の袋を取り出すと、佐強も何となく終わりを察した。祝詞を終えると、信多郎も白い人魚実の袋を取り出す。
彼は恭しく両手で、目の高さまでそれを捧げ持った。
「
ここ一番の大声を上げ、信多郎は人魚実を滝壺へ投げ入れる。しぶきは水煙にまぎれて見えず、小さな袋はたちまち沈んでいった。
最後に二度
なるほど、これがすずめの言っていた〝かーしいれまれ〟かと佐強は得心する。
少女は少女で、さきほどまであんなに喜んでいた水色の人魚実を、すがすがしく放り投げていた。出遅れた佐強も、先人にならって人魚実を滝壺に投げ入れる。
宙を舞う赤い袋を目で追っていると、有り得ないものを見た。
「え」
腰から下を水に浸し、滝壺の中に黒い留め袖姿の女性がたたずんでいる。その下半身から伸びているかのように、すぐ横で翡翠色の尾ひれが
その瞬間、巨大な水柱が立ち、人々を呑みこんだ。
◆ ◆ ◆
わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。
(ヨハネによる福音書 6章55節)
◆ ◆ ◆
――しばらくの間、気を失っていたのは確かだ。
目を覚ますと、佐強は見知らぬ洞窟で両手を、信多郎は両眼を、すずめは両足をなくしていた。誰も水を飲んでいなかったのは、不幸中の幸いだろう。
信多郎は、泣き疲れたすずめを抱きかかえて
「おかしい、
そして「なんで、すずめちゃんが、こんな」と涙声になる。自分の失明より、姪の体のことがショックなのだろう。無論、佐強もまったく余裕がない。
どうしてこんなことになったのか。
佐強は無意識に片肘を上げて、自分は何をしているのだろう、と首をかしげた。そうだ、こめかみに指を当てようとしていたのだ。考えごとをする時のくせだった。
手がないからもうできない。その事実が、驚くほどリアルなコンクリートブロックの質感で、ずしんと胸に沈み、思わずよろめいた。
全員が黙りこんだ。おぼろな月光しか明かりのない闇で、壊れた人形のような格好になって呆然としている。黄泉の国とは、こういう場所なのかもしれない。
佐強はこのまま呆けていれば、心臓も自然に鼓動をゆるめ、やがて停まるのではないかと思った。生きながら自分というものが剥がされ、奪われていく感覚だ。
二十年と満たない人生で起こしてきた、小さな悪事やズルや失敗、後悔の数々がここぞとばかりに闇の中から自分を
「その、信多郎さん。オレたち、が、手とか……目とか……なくしたのは、つまり、ええと神さまが怒っている、ってこと……ですか」
「そうとしか考えられん!」
返事はほとんど怒鳴り声だ。
普段穏やかな彼からは考えられない荒れように、佐強はびくりと身をすくませた。それ以上に反応したのはすずめで、叔父の膝上で少女は再び泣き出してしまう。
怒声の残響が残る中で、洞窟に暗く反響する泣き声は気が滅入った。ここは空気もひんやりとしていて、水を吸った衣服が徐々に肌を刺すように寒くなってくる。
「大声出してごめんな、すずめちゃん。かんにん、かんにんやで」
叔父に頭や背中をなでられあやされて、すずめが泣き止むと、佐強はその場に膝をついた。岩肌が骨に当たって痛むが、気にしていられない。
土下座でもしたい気持ちだったが、肘から先がない状態では身を起こせないかもしれないと思い、できるだけ深く頭を下げる。
「信多郎さん、すずめちゃん、すみません。オレ、実は人殺しの息子なんです」
ぞわ、と。
悪寒を超えた、戦慄とも言うべき不可解なショックが背筋を走った。その言葉を待っていたとばかりに、己を押さえつける手が背後から伸びる気がする。
何かが――誰かが、自分を見ている。見つめている。じっと目を凝らして、決して逃すまい、捕まえたら、さぁどうしてやろうかと思案するように。
肺が握りつぶされたみたいに息苦しくなった。きっと視線の主がみすらさまなのだろう、振り向けばそこに神が立っているだろうか。それとも、いるのは亡き母か?
ぱたぱたと、佐強の涙が岩を叩いた。
「家出したのもそれが理由です。それで、小学生の時に、母が亡くなって。その死体を、家族みんなで食べたんです。だから祟りはきっと、オレのせいなんだ」
◆
「葬式とは故人の遺体を食べることではない」と
「おじいちゃん、おいしかった?」
登校してきたクラスメートにそう訊いたときのことを、よく覚えている。言われた当人も、周りの子らも、佐強の言葉が分からないようだった。
「えっ。今なんて?」
なぜ聞き返されるのだろうと思いながら、もう一度質問する。
「だからさ、オソーシキでおじいちゃんを食べたんでしょ? ぼくのお母さんの時は一ヶ月ぐらいかかったけど、おじいちゃんはまだたくさん残ってるよね」
水槽に毒を入れられた金魚は、きっとあんな顔をするに違いない。当時の佐強が知るよしもない当惑、困惑、嫌悪感は、即座に恐れと怒りになって噴き出した。
口々に「気持ち悪い」「食べるなんておかしい」と罵られ、しまいに祖父を亡くしたその子と取っ組み合いのケンカに。その夜、佐強は父たちに説教された。
「いいか、佐強。母さんを食ったなんて二度と外で言うなよ」と、オヤジが。
「あれはウチ流オリジナル葬儀だからね! ところでサッちゃんとケンカになった子の名前と住所分かる?」と、とーちゃんが。
「子供のケンカに首をつっこまないで下さい。それより佐強くん、わたしたちがちゃんと説明しておくべきでしたね」と、父さんが。
あれはよそでは言ってはいけないこと、よその人はしないであろうこと、知られたら変だと思われるということ。
我が家は少しではなく、とても変わっているということ。
そうしたすべてをこの件で佐強が理解してしばらくのち、一家は引っ越した。
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