みっつ 人魚の果てざねを、返し入れ奉れ

 夜の六時半、日祭ひまつりを終えた佐強は、すずめと共に学校前バス停へと足を運んだ。翠良みすら尾瀬おぜ小学校と中学校は、長い長い坂道の先に道路を挟んで左右に並ぶ。

 坂の終わりが、みすらおがみ神社の入り口だ。佐強は早めに来たつもりだったが、既に中々の人出があり、残照の底に出始めた影を提灯が照らしている。

 石造りの鳥居を見上げれば、束には『翠良龗神社』とあった。佐強が生まれて初めて目にする漢字が入っているが、翠良龗で「みすらおがみ」と読むのだろう。


「ジンジャ、ついたね!」


 浴衣姿のままやって来たすずめは、嬉しそうに上の神社を指さした。さぞ通学には苦労するであろう坂道の次は、長い石段が待ち構えている。


「おくのタキはねえ、が出るから近づいたらアカンの。今日はトクベツなん。にんぎょざねを、えーと、〝かーしいれまれ〟するから」

「滝に蛇の卵、投げ入れるやつかね?」


 すずめがうろ覚えで言っている単語が何かは、佐強にはまったく分からない。とはいえ、なにがしか説明されるだろうからと、気にせず石段に足をかける。

 は『翠良尾瀬村民俗誌』にも妖怪として載っていた。いはカタカナのイで人偏にんべんを表しており、をは「うお」で魚。つまりイ魚、亻魚、人魚だ。説明によると偽物の人魚で、村のものはお化けや妖怪をひっくるめてと呼ぶのだとか。


「あら、あんた若先生んところの」

「東京から来たボウズか、夜の部も出るなんて感心やなあ」

「若の姪っ子さん、君が面倒みとるんか」


 祭りの時期もあってか、裏巽うらたつみ家には訪問客が多い。それとは別に、自宅で作ったという夏野菜やらスイカやらを、おすそわけに来る人もいた。

 さらにプールの監視員などをしていたことで、佐強の顔は村の人々に知れ渡っているようだ。こちらは名前も知らない相手なので、奇妙な感じがする。

 適当に受け流しながら境内に入ると、『人魚実にんぎょざね』と金糸で刺繍されたお守り袋を渡された。通常の平たい袋ではなく、うずら大のふくらみがある。


「これをね、タキに入れるんだよ!」


 すずめも赤い袋の人魚実を渡されていた。佐強が受け取ったのは水色なので、カラーバリエーションまであるらしい。


「さっちゃんのにんぎょざね、いいなー。すずめとコウカンしよっ」

「姫さまはブルーがお好きですか。どうぞどうぞ」


 わぁい、とすずめは袋を手にバンザイし、その場で一回転した。ずいぶんな喜びようだが、滝に投げ入れる時「手放したくない」と嫌がったりしないだろうか。

 心配半分、微笑ましさ半分で佐強は境内を見回した。扉を解放した拝殿の前に、少し間を空けてパイプ椅子が並べてある。

 佐強たち通常の参加者はここに陣取り、〝オヤカタサマ〟と呼ばれる七家系の代表者だけが、拝殿内に上がることを許されているそうだ。何の家系かは知らない。


「すずめ姫、前のほう座られますか?」

「うん!」


 拝殿内には、すでに黒紋付の羽織袴で正装した男たちが、胡床こしょう(折りたたみ椅子)に勢ぞろいしていた。その奥、一段高い所に白装束で身を固めた裏巽信多郎しんたろうがいる。

 無紋の白狩衣かりぎぬに、無紋の白差袴さしこ、そして烏帽子えぼし。そこにいつものくすんだ灰色の印象はなく、冬の朝に見る新雪のような、凛と澄んだ気配をまとっていた。

 和太鼓が叩かれる。石段の下で佐強が聞いたのはこれだ。祝詞を唱える信多郎の声は、能や歌舞伎のような独特の発音で、別人のようだった。


「かけまくもかしこ伊邪那岐いざなぎの大神おおかみ……」


 祝詞を終え、大幣おおぬさをまっすぐ立てて持つと、右手を上げ、左手を下げ、左、右、左と振る。本当に神主さんなんだな、とようやく佐強は実感した。


「おじさん、がんばれー」


 どうやら夜祭よまつりの開始前に、オヤカタサマ一同のお祓いを先に済ませるらしい。まだ本番ではないからと、佐強はすずめの無邪気な声援を止めなかった。

 拝殿内には信多郎と似た格好の神職が五、六人と、いくつかの祭具が見える。お祓いのたび鳴らされる和太鼓、円形の木枠に皿のような銅鑼どらを吊したもの。

 パイプオルガンのミニチュアみたいに、管がいくつもある竹の笛は、佐強にも見覚えがある雅楽器だ。馴染みのない世界に感心している間に、時間が来る。


 大仰な挨拶の代わりに、どぉん、どぉん、という太鼓の合図で空気が変わった。

 信多郎のまとう雰囲気はひときわ白く輝き、まるで今死んでも構わない、というほど真剣で穏やかな落ち着き見せる。

 神職たちがしょう、和太鼓、つり鉦鼓しょうこの演奏を始めた。


 トコトコトコトン トントントントン

 トコトントントン トントン

 トコトントントン


 天津あまつ祝詞、大祓おおはらえのことば神宝かんだからの祝詞といった祝詞が次々と奏上されるが、佐強にはどれもこれも同じように聞こえて困る。そして七人七度の玉串たまぐし奉奠ほうてん拝礼はいれい神酒しんしゅ

 隣のすずめは退屈そうに、人魚実の袋を手の中で転がしていたが、佐強の心境もどっこいだ。年上だから、じっと静かに我慢しているだけで。

 佐強は信多郎から、事前に夜祭の式次第を聞いていた。昔は他にも神楽かぐらまいなどもあって、それこそ夜通し舞い続ける大きな祭りだったという。


 トン トトン トン トン


 締めの太鼓が鳴らされ、信多郎が拝殿から降りてきた。


「それでは皆々さま、〝の儀〟締めくくりの次第で御座います」


 それを合図に、彼を先頭にしてオヤカタサマと村人が動きだす。境内を右手に抜け、ぐるりと回った先に龍神が棲まうという御前ごぜんたきがあるのだ。

 夏とはいえ辺りは暗くなってきて、提灯が照らす山道を歩くと、すぐに水音が聞こえてきた。想像していたよりも大きく、立派な滝だ。

 高々とした岩場に白く水煙を上げる瀑布がかかり、ごうごうと滝壺に荒波を流しこんでいる。周囲は錫杖と注連縄がぐるりと囲んで、水辺への立ち入りを阻んでいた。

 信多郎に合わせて一同が礼をすると、最後の祝詞が読みあげられる。


「かけまくもかしこ翠良龗みすらおがみの神社かみのやしろ大前おほまえに裏巽信多郎かしこみ恐みもまおさく、大宮おほみや静宮しづみや常宮とこみやしづまり大神おほかみの高くたふと大御恵おほみめぐみあふぎまつりて、今日けふ生日いくひ足日たるひ一年ひととせ一度ひとたび御祭みまつりつかへ奉るとはまはりきよまはりて献奉たてまつる……」


 すずめだけではなく、周囲の人々が人魚実の袋を取り出すと、佐強も何となく終わりを察した。祝詞を終えると、信多郎も白い人魚実の袋を取り出す。

 彼は恭しく両手で、目の高さまでそれを捧げ持った。


大神おほがみ御前みまえに、人魚ひとをざねかへまつれ!」


 ここ一番の大声を上げ、信多郎は人魚実を滝壺へ投げ入れる。しぶきは水煙にまぎれて見えず、小さな袋はたちまち沈んでいった。

 最後に二度柏手かしわでを打ち、一礼して彼は後ろへ下がる。そこへ七人のオヤカタサマが続き、祈るような仕草を交えて同じ手順を踏んだ。


 なるほど、これがすずめの言っていた〝かーしいれまれ〟かと佐強は得心する。

 少女は少女で、さきほどまであんなに喜んでいた水色の人魚実を、すがすがしく放り投げていた。出遅れた佐強も、先人にならって人魚実を滝壺に投げ入れる。

 宙を舞う赤い袋を目で追っていると、有り得ないものを見た。


「え」


 腰から下を水に浸し、滝壺の中に黒い留め袖姿の女性がたたずんでいる。その下半身から伸びているかのように、すぐ横で翡翠色の尾ひれが水泡みなわを叩いた。

 だ。


 その瞬間、巨大な水柱が立ち、人々を呑みこんだ。


◆ ◆ ◆


 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。


                     (ヨハネによる福音書 6章55節)


◆ ◆ ◆


――しばらくの間、気を失っていたのは確かだ。


 目を覚ますと、佐強は見知らぬ洞窟で両手を、信多郎は両眼を、すずめは両足をなくしていた。誰も水を飲んでいなかったのは、不幸中の幸いだろう。

 信多郎は、泣き疲れたすずめを抱きかかえて狼狽ろうばいしていた。


「おかしい、可怪おかしいぞ! 人魚の肉を食べていなんだら、祟りは起きんはずやったのに。〝の儀〟は失敗や……!」


 そして「なんで、すずめちゃんが、こんな」と涙声になる。自分の失明より、姪の体のことがショックなのだろう。無論、佐強もまったく余裕がない。

 どうしてこんなことになったのか。

 佐強は無意識に片肘を上げて、自分は何をしているのだろう、と首をかしげた。そうだ、こめかみに指を当てようとしていたのだ。考えごとをする時のくせだった。

 手がないからもうできない。その事実が、驚くほどリアルなコンクリートブロックの質感で、ずしんと胸に沈み、思わずよろめいた。


 全員が黙りこんだ。おぼろな月光しか明かりのない闇で、壊れた人形のような格好になって呆然としている。黄泉の国とは、こういう場所なのかもしれない。

 佐強はこのまま呆けていれば、心臓も自然に鼓動をゆるめ、やがて停まるのではないかと思った。生きながら自分というものが剥がされ、奪われていく感覚だ。

 二十年と満たない人生で起こしてきた、小さな悪事やズルや失敗、後悔の数々がここぞとばかりに闇の中から自分を嘲笑あざわらう。これではいけない、と彼は口を開いた。


「その、信多郎さん。オレたち、が、手とか……目とか……なくしたのは、つまり、ええと神さまが怒っている、ってこと……ですか」

「そうとしか考えられん!」


 返事はほとんど怒鳴り声だ。

 普段穏やかな彼からは考えられない荒れように、佐強はびくりと身をすくませた。それ以上に反応したのはすずめで、叔父の膝上で少女は再び泣き出してしまう。

 怒声の残響が残る中で、洞窟に暗く反響する泣き声は気が滅入った。ここは空気もひんやりとしていて、水を吸った衣服が徐々に肌を刺すように寒くなってくる。


「大声出してごめんな、すずめちゃん。かんにん、かんにんやで」


 叔父に頭や背中をなでられあやされて、すずめが泣き止むと、佐強はその場に膝をついた。岩肌が骨に当たって痛むが、気にしていられない。

 土下座でもしたい気持ちだったが、肘から先がない状態では身を起こせないかもしれないと思い、できるだけ深く頭を下げる。


「信多郎さん、すずめちゃん、すみません。オレ、実は人殺しの息子なんです」


 ぞわ、と。

 悪寒を超えた、戦慄とも言うべき不可解なショックが背筋を走った。その言葉を待っていたとばかりに、己を押さえつける手が背後から伸びる気がする。

 何かが――誰かが、自分を見ている。見つめている。じっと目を凝らして、決して逃すまい、捕まえたら、さぁどうしてやろうかと思案するように。

 肺が握りつぶされたみたいに息苦しくなった。きっと視線の主がみすらさまなのだろう、振り向けばそこに神が立っているだろうか。それとも、いるのは亡き母か?

 ぱたぱたと、佐強の涙が岩を叩いた。


「家出したのもそれが理由です。それで、小学生の時に、母が亡くなって。その死体を、家族みんなで食べたんです。だから祟りはきっと、オレのせいなんだ」



「葬式とは故人の遺体を食べることではない」と小田島おだじま佐強が知ったのは、小学校五年生の時だった。同級生の男子が、祖父の葬儀で休んだのだ。


「おじいちゃん、おいしかった?」


 登校してきたクラスメートにそう訊いたときのことを、よく覚えている。言われた当人も、周りの子らも、佐強の言葉が分からないようだった。


「えっ。今なんて?」


 なぜ聞き返されるのだろうと思いながら、もう一度質問する。


「だからさ、オソーシキでおじいちゃんを食べたんでしょ? ぼくのお母さんの時は一ヶ月ぐらいかかったけど、おじいちゃんはまだたくさん残ってるよね」


 水槽に毒を入れられた金魚は、きっとあんな顔をするに違いない。当時の佐強が知るよしもない当惑、困惑、嫌悪感は、即座に恐れと怒りになって噴き出した。

 口々に「気持ち悪い」「食べるなんておかしい」と罵られ、しまいに祖父を亡くしたその子と取っ組み合いのケンカに。その夜、佐強は父たちに説教された。


「いいか、佐強。母さんを食ったなんて二度と外で言うなよ」と、オヤジが。

「あれはウチ流オリジナル葬儀だからね! ところでサッちゃんとケンカになった子の名前と住所分かる?」と、とーちゃんが。

「子供のケンカに首をつっこまないで下さい。それより佐強くん、わたしたちがちゃんと説明しておくべきでしたね」と、父さんが。


 あれはよそでは言ってはいけないこと、よその人はしないであろうこと、知られたら変だと思われるということ。

 我が家は少しではなく、とても変わっているということ。


 そうしたすべてをこの件で佐強が理解してしばらくのち、一家は引っ越した。

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