ふたつ 神さまが祟るまで
『人魚供養の由来と伝説』
昔々、
滝底には地底湖があり、いつしかそこに「みすらさま」という龍の神さまが住まわれるようになりました。翠良さま、または「みすらおがみ」さまは、清らかな水の恵みや、豊かな山の幸を与え、それはそれは信仰を集めたのです。
こうして尾瀬の人々は、自分たちの土地にみすらさまの名前をつけるようになりました。これが翠良尾瀬の始まりです。
女神であらせられるみすらさまは、あるとき村の若い男を見初めました。村人たちは「めでたいことや。」と盛大に祝って男を滝へと送り出します。
みすらさまが来られてから「
「私の名は
村人たちはこれを歓迎し、滝の傍に小屋を建てて翡翠姫の世話をするようになりました。姫の血には、なんと人の怪我や病をたちどころに癒やす力があったのです。
村の誰かが苦しんでいると、彼女は恐れることなく自分の指を噛み切り、ぽた、ぽたと血を垂らしては、肺の病や眼の病、折れた足や獣に噛まれた腕、なんでも綺麗に治してしまいました。まるで最初から傷も病もなかったかのようにです。
村人は姫を大切にし、みすらさまを崇め、平和で幸せな日々が続きました。それも、〝けんのうばそく〟と名乗る行者がやって来た時、終わってしまいます。
※※※
「いやいや、ケンノー・ウバソク? 何語だこれ」
夏祭りだという『人魚供養祭』が明日に迫るというので、家主の
「それはちゃんと日本語やでえ」
年季の入った座卓の向こう側、ノートパソコンをいじっていた信多郎は手を止めた。青いポロシャツ姿だが、何を着ていても彼には灰色の印象がつきまとう。
「ほら、こう書くんや」信多郎は手近なメモ帳に書きつけた。
――〝乾優婆塞〟
「これで、ケンノゥウバソク? 優しい、婆ちゃんが、塞ぐ……?」
こめかみに指をあて、佐強は首をひねった。考えごとをする時のクセだ。
「
「はー、だから行者って書くんだ」
「で、乾の逆方角は東南、十二支で言うと辰と蛇、巽、巽の裏側。つまりうちは、この行者の子孫なんやね。まあ、それなら乾家でもよかったんやろうけど」
佐強が裏巽家の祠に挨拶した(しばらくお世話になります、と頭を下げた)時、信多郎は自分が代々神主の家系であると教えてくれた。伝説に出て来る龍神・みすらさまを祭る神社の宮司で、庭の祠はその分社であり、裏巽の守り神でもあるらしい。
人魚供養祭は屋台が出店する昼の部(
当然ながら、明日は大忙しだ。佐強は本の続きに戻った。
※※※
姫を見たうばそくは大いに驚き、村人たちに話があると集めました。
「人魚の肉を食えば不老不死になる。いちいち血をもらわなくとも、老いず、傷つけられず、病にかかることもないまま、永遠に若くいられるのだ。」
翡翠姫を食べるなどとんでもない。
最初は誰もうばそくに耳を貸しませんでしたが、村には何人も老人がおりました。姫の血では、老いや死人まではどうすることもできないのです。
「人魚の肉を与えたら、死んだ息子がよみがえりましょうか。」
子供を亡くしたばかりの母親に、うばそくは「もちろん。」とうなずきました。それで村の人々は、ついに翡翠姫を殺すことに決めたのです。
※※※
「え……信多郎さんのご先祖さま、悪役じゃん」
伝説、おとぎ話のたぐいとはいえ、そういう由来がある祭りの神主が裏巽家というのは、つじつまが合わないのではないか。
ちなみに伝説ではその後、しっかり龍神の祟りが襲っている。
「いや、祟りの後にみすらさまと交渉してたのがうちの先祖でな。〝これから毎年、娘が死んだ時期に、
佐強が紙面に目を戻すと、確かに信多郎の説明通りで、「あ、ホントだ……」と間抜けな声をもらした。慣れない読書などするからだ、恥ずかしい。
「人魚は海だけやのうて、川にも湖にも沼にもおる。翠良尾瀬では、僕らの血の中を泳いどるんやんなあ。だから時々、村の中から人魚が生まれて、それをみすらさまに捧げとった……ま、伝説やさかい、どこまで本当やら」
それではまるで、人魚を食べただけの村人が、人魚の子孫のようだ。生まれてくるのは、やはり下半身が魚だったり、最低でも鱗があったりするのだろうか。
「人魚の〝ざね〟って何捧げるんですか、まさか生け贄じゃないですよね」
「ただのお供え物やで。果物とか餅とか酒とか魚とか。あと、蛇の卵」
「蛇の卵」聞き違いだろうか。
「みすらさまは龍神で、翡翠さまはそのご息女やからね。翡翠さまの血肉に見立てて、村で飼っている蛇の卵を滝に投げこむんや」
世の中には色んな祭りがあるものだ。へぇーと返事しつつ、佐強は人魚伝説を読み終えて、『翠良尾瀬村民俗誌』をパラパラとめくった。
この本が執筆された当初は違ったのだろうが、翠良尾瀬は市町村合併ですでに村ではない。それでも信多郎のような住人は、いまだに「村」として扱っているようだ。
妖怪種目、という章があったのでざっと見てみた。
「いたこあなと」「いを」「おどはつ」「かくらぼぐ」「がんかじ」「ごうやふとり」「さかたまけやう」「しれのびぬい」「すくへみ」「ぞるつげ」「だかすて」「ほねしくま」「へすめがぎ」「にくべと」「にてれき」「やれがらぐ」……
どれもこれも、佐強が聞いたことがないものばかりだ。よほどローカル妖怪なのだろうと思ったら、あんのじょう翠良尾瀬にしか出ない、と書かれている。
「あ、それとこれ渡しとくな」信多郎は財布を開いた。「すずめちゃんといっしょに、屋台で好きなもの買ったらええよ」
すずめとは、信多郎といっしょにこの屋敷で暮らしている姪だ。彼が教鞭を執っている小学校の二年生で、最初に寝ていた佐強を起こしたのも彼女だった。
一万円札を差し出され、佐強はビックリして本を閉じる。
「えっ!? いやいやいや、悪いですよ。オレお世話になりっぱなしじゃないですか、バイト代も出るし、大丈夫っす!」
佐強は信多郎の紹介で、小学校のプール監視員バイトに就き、あとは多少家事の手伝いをして過ごしていた。衣食住の面倒を見てもらい、この上お小遣いとは。
お人好しすぎて不安になる佐強の気も知らぬげに、信多郎はニコニコと笑った。色あせた、生命力であるとか情熱であるとか、何かが燃え尽きたような灰色の笑み。
儚いのとも違う、柔らかく穏やかだが、どこか物寂しい、そんな雰囲気だ。
「まあまあ、
「え、それってもしかして、すずめちゃんのお母さんですか」
ああ、と信多郎はうなずいた。
彼からすずめを姪と紹介された時、両親のことに触れられなかったが、佐強からも訊ねるのは控えていた。何しろ会ったばかりの他人なのだから。
「な、この家、叔父と姪の二人暮らしには広すぎるやろ?」
それは佐強としても今さらな話だった。信多郎は口にはしないが、何百年という由緒を持ち、村の大切な神事を取り仕切る裏巽家は、翠良尾瀬の名家と言っていい。
その屋敷は和室と洋室合わせて、二十数部屋はあろうという大きさだ。おかげで佐強は、二階の角部屋をまるごと一つ、のびのびと使わせてもらっている。
「うちは少し前まで、姉の他に両親がいたんやけど、相次いで病死してしもうてな。神社関係で人が集まる時は助かるけど、普通に生活していると寂しゅうて」
信多郎に感じる影のようなものは、それが原因だろうか。彼の年齢なら、両親はまだ還暦にすら達していないかもしれない。
祖父母を立て続けに亡くし、母も倒れ、叔父と二人この家で過ごすすずめは、どんな気持ちでいたのだろう。佐強の想像を見抜いたように、信多郎は言った。
「すずめちゃんと仲良うしたってや、佐強くん」
そう言われてしまっては、再度差し出された一万円札を受け取らないわけにはいかない。佐強はせめてもの抵抗に「オレみたいなヨソ者、信用していいんですか」とため息をついた。けれど信多郎は、笑みをやや明るくするだけだ。
「これでも人を見る眼は自信があるんよ。それに、すずめちゃんもめっちゃ懐いてるやん。最近は、佐強くんのお祈りも真似してなあ」
「あれ、ちょっと恥ずかしいんですけどねえ」
「いつもニコニコしてて人当たりもええし」
「いや、ヘラヘラって言うんですよオレのは。頼りにしちゃダメなやつ」
食前の祈りは「父さん」の影響で、ヘラヘラ笑いは「とーちゃん」ゆずりとよく言われたものだ。離れていても、父たちの影は佐強から消えていない。
母は何を想って、自分を裏巽家に招いたのだろう。あれから佐強は、一度も彼女に会っていなかった。
◆
七月三十一日。人魚供養祭当日は、例によって見事な晴れ空だ。
容赦ない真夏の日差しを物ともせず、人出は上々。場の空気が、さあこのリズムに乗って踊り出せと言うように、音楽となって体をゆさぶってくる。
「さっちゃん! つぎ、あっち!」
ウサギのようにぴょんと声をはずませ、足はもっと高くスキップさせて、裏巽すずめは佐強の腕を引っぱった。丸い顔の中に、小さな口と大きい目が礼儀正しく並び、上がり気味の眉と目尻が少しやんちゃで、可愛らしい。
ヒマワリ柄の浴衣という一張羅に袖を通したすずめは、片手に水風船ヨーヨーとリンゴ飴とチョコバナナを持ち、ショートヘアを赤いリボンでまとめている。
動きの一つ一つが、「生きていると素敵なことがたくさんあるね!」と主張しているみたいだ。小学生なんてものは、みんなそうかもしれない。
「おおせのままに、お姫さま」
「よきにはからえー!」
今日は従者キャラで行くと決めた佐強の方針は、彼女のお気に召したらしい。信多郎が言う通り、出会って間もない自分にすずめはよく懐いている。
元からあまり人見知りしない性格のようで、同年代の友達もたくさんいるようだ。それでも、あの家でいっしょに寝起きする住人が増えたのが嬉しいのだろう。
目指しているのは、レインボーなわた飴を出している屋台だ。学校前バス停の正面にある、道の駅『あをによし』の広場で人魚供養祭・昼の部は開催されていた。
「かき氷はいかがされますか、姫」
「にがすな! どこまでもおいつめろ!」
「ははーっ」
すずめは一秒たりともじっとしていない。同級生がいればそっちに飛び、気になる屋台があれば突撃し、己の限界を知らない体力で駆けずり回る。
佐強は彼女を見失わないよう神経を張り、人ごみにもまれたり、買った物を落としたりしないよう、懸命にエスコートした。大した重労働である。
(ちっさい子と遊ぶって、大変なんだなあ)
しかし、これがなかなか楽しい。自分に弟や妹がいたら、こんな感じになったのだろうか、とありもしない可能性がよぎり、佐強は少し気分を落とした。
昨日、信多郎と話した時に、流れですずめが母子家庭らしいと察してしまったのも良くない。
そもそも家出中に、こんなに楽しんでいていいのだろうか? 不意に、佐強は強い不安を覚えた。その予感は、夜祭で的中することになる。
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