第一滴 ついぐなに、成る。

ひとつ 翠良尾瀬(みすらおぜ)では死者が待つ

 正午の夏空はすべてがギラギラと輝いて、太陽なんて永遠に落ちないような気がしてくる。いっそのこと、本当に夜なんてこなければいい。

……怪談におびえる子供みたいな考えだ。

 我ながら下らない、と佐強さきょうは自嘲する。しかし、その程度のことすら心から振り払えなくて、背中にずっとのしかかっている気がした。


「明るいうちに、やることやんないと」


 自分を励ますようにつぶやく。ホームに立って直射日光にさらされていると、アスファルトから上がって来る熱と共に、上下から圧迫される気分だ。

 たらりと流れる汗は、外からつけられた水滴のように他人事と思えた。

 着の身着のまま家出して一週間。佐強は初め、人の多い所に隠れようと横浜に滞在したが、一箇所に留まるのも不安で堪らない。

 静岡へ、浜松へ、名古屋へと転々として、滋賀しがけん神島かみしまに流れ着いた。


(まずは寝るトコと、飯と、あとシャワーと。着替えはまだOK。そろそろ、バイトか何か探さないといけないな……)


 やるべきことを確認しながら改札を出る。はるばる近畿の田舎まで来ると、駅舎の小ささ、人けのなさに驚くが、佐強の胸を支配するのは別の気持ちだった。


 ここにいるべきではない。いても良い場所などない。帰る選択肢などない。


 迷子の気分に似ているが、心の傾斜はそこからズレている。自分の生まれ育ちを肯定できない、という思いが、どこにも落ち着けないという心細さで身を焦がす。


(逃げて逃げて、逃げ切ってやるって決めたんだ)


 立ち往生していても仕方がない。バス停に向かうと、佐強は一人の女性に目を引かれた。凜と背筋を伸ばし、睡蓮の着物姿で、後ろしか見えないが綺麗な人だ。

 地面に黒々と影を焼きつける日の下では、ふっと消えてしまいそうに儚い。おそらく二十代だろう女性は、ちょうど停まっていたワンステップバスに乗りこんだ。


 あれに乗ろう、と考えるまでもなく、佐強も同じステップを踏む。プーッとブザー音がして乗りこみ口が閉じた。座席はガラガラで、女性は前の方に座っている。

 佐強はその横を通り過ぎて、後部座席に陣取った。車両は町を抜けて山へ向かい、景色は街並みと言うより集落に変わっていく。


 やがて、車窓一面に森林と岩石と清流のパノラマが広がった。渓谷だ。

 地面がばっくりと裂け、切り立つ崖となって大きく口を開けている。高さは建物の四、五階はゆうにあるだろうか。谷底には碧く澄んだ川が流れ、あちこちに自動車ほどの岩石が転がっていた。バスは谷の上、片側を山肌に塞がれながら道を行く。


(はー、大自然の前に人間の悩みはちっぽけ……なわけあるか!)


 ただの観光ならばと恨めしく思いながら、雄大な景色は少しばかり佐強の心を洗うようだった。崖下に張り出した枝から、カワセミが飛び立つのが見える。

 鮮烈な羽根の青が、残像のように眼の奥に焼きついた。


『次はー、上荒川かみあらかわー、上荒川ー』バスのアナウンス。


 地図帳で確認すると――スマホは位置情報を切っているので、マップアプリは使えない――ここは神島市の西端、翠良みすら尾瀬おぜという地区らしい。

 上荒川はちょうどその入り口部分だ。軽く地名で検索してみると、元は村だったが市町村合併で廃止され、地域名として残っているらしい。


 翠良尾瀬は人口およそ二五〇〇人、面積一六五キロ平方メートル。面積の九割は森林で、もちろん林業が盛ん。先の景色は翠良みすらだにと呼ばれている。

 多摩にも自然豊かな場所はあったが、かやきの家も残るのどかな山村に、佐強は別世界へ来た気分にさせられた。


『次はー、翠良尾瀬学校前ー、翠良尾瀬学校前ー』


 地区の中心地・饗庭あいばの停留所だ。車窓からはすぐ近くにコンビニの青い看板が見えて、ホッとする。まずはあそこで買い物をしようと、佐強はバスを降りた。

 停留所には『みすらおぜ 人魚供養祭』と夏祭りのポスターが貼られている。


(こんな山あいで、人魚? びわ湖のやつが川でも逆上ったんかな)


 ポスターを注視する佐強の隣、視界の隅で誰かがくるりと振り返るのが見えた。駅前から追いかけた形になった、和装の女性だ。

 名も知らぬ彼女は、佐強にたっぷりの親しみをこめて微笑みかける。


「おかえりなさい、さっちゃん。すっかり大きくなったのね」


 声はカワセミの青に似ていた。理由も分からず、とっさにそう思いながら、相手の姿を確認する。柔らかな髪を品良くまとめた、穏やかそうな眼鏡の女性だ。

 佐強はまぶしい物でも見るように目を細めた。


(まばたきしたら、消えちまいそうだ)


 世界が二重にズレる。頭の中にくっきりとした空白があって、佐強は自分がそこをずっとずっと、放ったらかしにしていたことに気がついた。

 世界がズレるのは、女性の姿形が空白の中に焦点を結び、何かを浮かび上がらせようとするからだ。忘れたことも忘れた何かに、眼が逸らせない。


(いつかの、どこかの、だれかさんに、似てる)


 佐強が言うべきなのは、どこかで会いましたか、だったのだろう。けれど、不意にこみ上げた懐かしさがコトリ、と胸の奥を動かし、まったく別のことを口にした。


「ただいま、


 呼びかけた瞬間、すとんと頭の空白が埋められる。

 そうだ、この人は十年前、崖から落ちて事故死した母の小田島おだじま那智子なちこだ。確か享年二十七歳、今もまったく変わっていない。なんて懐かしいんだろう。

 は日傘を開き、いっしょに入ろうと佐強に手招きした。この歳になって母と相合い傘なんて恥ずかしいが、嬉しくてつい甘えてしまう。


「おー、日傘、楽~。ここだけ別世界みてえ」


 荒んだ三白眼を細め、佐強はにへらっと相好を崩した。平穏な日常を過ごしていたころ、二枚目半とよく呼ばれた顔つきだ。初めて訪れたはずの土地で、初対面の相手を家族のように思って、もう離れられない。疑問すら浮かばない。

 は、佐強を一軒の日本家屋へと案内した。十人はゆうに住めるのではないかという立派な屋敷で、東京では考えられないほど庭も広い。

 二階建ての右棟はちょっとした旅館並みで、平屋の左棟だけでも一軒家として充分に使える。佐強は左の八畳和室に上がらされた。


「長旅で疲れたでしょ、さっちゃん。やっと翠良尾瀬に来てくれてありがとう。ここはもうあなたの家だから、ゆっくりしてね。お昼、まだだったわよね?」

「うん」


 和室のすぐ隣がキッチンらしく、はそちらに引っこむ。

 荷物を下ろして、畳と座布団の上に座ると人心地ついた気分だ。ネットカフェなどを渡り歩いてきたから、こんな風にきちんと休めそうなのは久しぶりだった。

 キッチンから戻ってきたは、座卓にトマトとシーチキンのサラダそうめんを一人前並べる。佐強は背筋を正し、両手を胸の前で握り合わせた。


しゅよ、この恵みに感謝します。主の御名によっていただきます。アーメン)


 胸中で祈りの言葉を読みあげ、「いただきます」と声に出して箸を取る。床の間を背にし、対面に座るはニコニコとそれを見ていた。


直郎ちょくろうクンと同じお祈り、続けているのね」

「ずっとやってたら、クセになっちゃって、つい」


 直郎とは佐強の「父さん」だ。

 プロテスタントのクリスチャンで、食前の祈りや寝る前の祈り、賛美歌、聖書などを教えてくれた。今や体が覚えた生活習慣と言っていい。だが。

 こうして祈るたびに、「父さんは神さまを信じているのに、人を殺したのか」というわだかまりで、佐強は心がすすけるような気分になる。

 それも、そうめんに口をつけると、どうでも良くなった。

 トマトの酸味、シーチキンの脂とタンパク質、大葉のアクセントがつゆと混ざり合って、いくらでも麺がすすれそうだ。


「母さんの手料理、すっげー久しぶり」

「みんなはちゃんとお料理してる? 外食や店屋物ばかりで済ませてない?」


 会話はとりとめのない物になっていく。


「ネカフェでさ、『オー!ファーザー!』って映画観たんだ。父親が四人もいる高校生が主人公で、母親は生きてるけど、ぜんぜん出てこねえの」

「あら、なんだかうちみたい」

「あんまり似てなかったかな。ヤクザとか監禁とか出てくるけど、すげー平和で、なんか、夢みたいだったんだ……」

「すぐに、みんなそうなるわよ、さっちゃん」

「うん」


 今まで、自分の家は異常だったと思っていたが、何のことはない。母さえいれば、すべては丸く収まるではないか。父たちも翠良尾瀬に呼んで、みんなで暮らそう。

 あれほど嫌悪した父たちの殺人も、己の先行きへの不安も、綺麗さっぱり忘れて、佐強はひたすら楽しかった。これでいいんだ。何もかもうまくいく。絶対にだ。


「一休みしたら、お庭の祠にあいさつしましょう」

「ほこら?」

「神さまがいるの。翠良尾瀬にずっと昔から棲んでいるから」

「わかった」


 身も心も満たされた佐強に、心地よい眠気が忍び寄ってきた。は押し入れからタオルケットを取り出し、座布団を丸めて枕代わりにと差し出す。

 ありがたく横になると、母は澄んだ声で歌い始めた。


……月の沙漠さばくを はるばると 旅のラクダがゆきました

  金と銀とのくら置いて 二つならんでゆきました……


(『月の沙漠』、母さんが好きだったやつだ)


……金の鞍には銀のかめ 銀の鞍には金のかめ

  二つのかめは それぞれに ひもで結んでありました……

 


『ママはどうして、三人もパパとけっこんしたの?』


 そう訊ねたのは、幼稚園児だったか、小学校低学年のころだったか。佐強と母の名字である小田島の表札には、さらに三つの名字が併記されていた。


……さきの鞍には王子さま あとの鞍にはお姫さま

  乗った二人は おそろいの 白い上着を着てました……


 高校生になった今では、分かる。

 日本は重婚を許可しておらず、佐強は小田島那智子というシングルマザーの一人息子だ。父たちは、母の恋人という立場でしかない。

 もっと言ってしまえば、彼らは「父親を名乗る男性たち」に過ぎない。


『そうねえ、さっちゃん。ときどきママのいないおうちや、パパのいないおうちがあるでしょう? これは、ふつうのことよね』

『うん』

『だったら、ママがたくさんいるおうちや、パパがたくさんいるおうちがあっても良いと思わない? ママはパパたちが大好き、パパたちもママが大好きだもの』


 それであっさり、当時の佐強は納得した。「ママもパパも面食いなんだなあ」と子供心に思ったのは、小学校の高学年だっただろう。


……ひろい沙漠をひとすじに 二人はどこへゆくのでしょう

  おぼろにけぶる月のを ついのラクダはとぼとぼと

  砂丘をこえてゆきました 黙ってこえてゆきました……


 母が死んだ時、佐強は七歳だった。旅先で山に登り、足をすべらせて。日が暮れて父たちが見つけてくれるまで、彼女の傍で泣いていたのを覚えている。

 葬儀は家族四人だけのひっそりした物だったが、来る日も来る日もたくさん肉を食べたのは楽しかった。あれでずいぶんと、悲しみが和らいだ気がする。

 その話を小学校でした後、佐強は転校を余儀なくされた。



「あ、おきはったおきたー」


 物怖じとはほど遠そうな女児の声で、佐強は目が覚めた。まぶたを開くと、小学生ぐらいの女の子と、眼鏡をかけた若い男がこちらを覗きこんでいる。

 男の第一印象は灰色だった。白髪があるわけでも、顔色が悪いわけでもないが、全体的にどこか色あせ、くすんだ雰囲気がある。

 背が高く肩幅も広いが、ポロシャツに包まれた体は薄く、筋肉や脂肪というものが感じられない。骨と皮とまではいかないが、かどがゴツゴツしていそうだ。


「やあ、おはよう」平静な関西弁のイントネーション。

「おはよう……ございました」


 状況がよく飲みこめないまま、佐強は身を起こした。タオルケットがずり落ちる。母が言うには、ここは自分の家のはずだが、この人たちは誰――

 そこまで考えて、彼女がもう死んでいたことに気がついた。


(なんで、来たこともない土地で幽霊になってんだよ)


 故人であることに気がつかなかった恐ろしさより、その事実が佐強には悲しい。何かあってこの家に取り憑いているのだろうか。

 佐強が黙っているのを見て、男性が口を開いた。


「僕は裏巽うらたつみ信多郎しんたろう、この翠良尾瀬で小学校の教師をやっとる。そしてここは僕の家なんやけど、君はどこの誰で、なんでここにおるんえいるんだ?」


 信多郎の口調には詰問という風はなく、声も怒りをふくんでいる感じはしなかった。ただ淡々と、事実を確認したい、という理性を感じる。


「オレは小田島佐強、高校生です。夏休みに旅行してて……ここのバス停についたら、うちにおいでって女の人に誘われたんです。それで、昼にそうめんをごちそうになって、そのまま寝ちゃいました。だから、その人の家だと思ってたんですが」


 まさか母親の幽霊に呼ばれたとは言えない。不法侵入、窃盗、通報、という嫌な単語が次々と頭に浮かび、佐強はできる限りの説明をこころみた。


「女性の名前は?」

「お、小田島那智子です。オレも小田島って言うんですけど、偶然ですかね。眼鏡をかけて、和服姿で、あ、年齢は裏巽さんと同じくらいです!」


 信多郎は、ふーむとうなって顎に手を当てた。鶴のように痩せた直線の腕だ。その隣で、女児は好奇心なのか目をキラキラさせている。

 灰色の信多郎に対し、この子は瑞々しく花開いたヒマワリのように色鮮やかだ。


「その女性には心当たりあらへんけど……まあ置いとこか。佐強くんって呼んでええかな? さっき、僕は教師やって言うたけど」

「はい」


 眼鏡の奥、そこだけは灰色を感じさせない瞳がチリッと光る。


「職業柄、〝君のような事例〟はそこそこ見るんや。家にかいづらい帰りづらいんやったら、しばらくうちにおっても構わんよ。君の気が済むか、誰かお迎えが来るまでは、な」


 あっさり家出少年であると見抜かれ、さらに「お迎え」という言葉に佐強の心臓が跳ね上がる。そこだけパンチで打ち上げられたみたいだ。

 三人の父が来た時、自分はどうなるのか、どうするべきか。


「オレは……」


 最初から、佐強には父たちを警察に引き渡すという選択肢はなかった。逃げ切ろうとは決めたものの、この旅路にはどうしても限界がある。

 死んだ母が現れたのも、家や土地がどうと言うより、仲直りしろと伝えたかったのではなかろうか。そう、彼女といた時は何もかも上手く行く気がしていた。

 それが幻想だとしても、「言い訳を聞きたくない」と逃げ続けるのはいい加減終わりにしなくてはならない。心の準備ができたら、父たちに面と向き直るのだ。


「オレは、考える時間がほしい、です。ちょっと家が大変なことになってて。たぶん父さんたちは必ずオレを見つける。その時は、じっくり話し合いたい、です」

「じゃあ、それまであんばよう適当に過ごしてくれたらええよ」

「あの、でも、本当にいいんですか?」


 仮にも教育者とはいえ、あまりに佐強には都合の良い話だった。というかそれこそ、警察に任せるべき案件ではなかろうか。


「まあ、そう、だしかいね遠慮しないで


 信多郎のことはよく知らないが、笑顔には毒がなく、とんでもないお人好しだと力が抜ける。佐強は姿勢を正し、深々と頭を下げた。


「ありがとうございます」


 父たちに会ったら、必ず「どうしてあんなことをしたのか」と聞き出す。決意を固めながら、一つ思い出して佐強は頭を上げた。


「あの、ところでこの家、祠ってあります?」

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