ついぐなの人魚は血を泳ぐ

雨藤フラシ

くちあけ

れい 血では満たされない、夏

 家出したのが、そんなに良くなかったのだろうか。十七歳で、夏休みで、父子家庭の一人息子。佐強さきょうが逃げ出したくなる理由は、いくらでもあった。

 月明かりが差しこむ洞窟――闇に慣れた目に、自身の異変は誤魔化しようもない。全身ずぶ濡れだったが、悪寒と荒い呼吸の理由は、それだけではないだろう。

 ひゅうひゅうと間抜けなあえぎをくり返し、佐強はやっと言葉の形をこね上げた。


「……代わりに新しいの、生えたりしない?」


 肘から先の両手が、痛みもなく消え失せている。

 さっきまで確かにあったのに。切られたわけでも潰れたわけでもない、最初からその形だったかのように、長年ひとつだった体が欠けていた。

 関節部できれいに切断された形だが、切り口は皮膚に覆われて、筋肉も骨も見えないのが救いだ。ただ、不自然に整いすぎた形が気持ち悪い。

 すぐ近くから、聞き覚えのある声が響いた。


「すずめちゃん! 佐強くん! 無事か?」

信多郎しんたろうさん、オレ、手、が――」


 声の方を見やると、佐強はそれ以上言葉が続かない。

 烏帽子えぼしと白い狩衣かりぎぬの神主装束を濡らした男は、顔にぽっかり二つの穴が開いていた。本来なら眼球があるはずの位置で、血が出ている様子もない。

 ああ、自分と同じだとどこか冷静に理解しながら、佐強はその場に凍りついた。


「佐強くんはいるんやな、良かった。真っ暗やけど、灯りはないかなあ?」

「おじさん! さっちゃん!」


 女児の悲痛な叫びが、いやに低い位置から聞こえた。小学校低学年の女の子が、地面にいつくばっている。水を吸った浴衣の下半身が、ぺたんと平たい。


「立てへんの。なんで? こわいよ、こわ、い……」


 手の力だけで近づいた彼女は、二人の姿を認めるとピタリと動きを止め――金切り声で泣き出した。目を血走らせ、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら、直面した現実を否定する狂乱。ばつん、と一息に、頭のたがを千切られたみたいだ。

 すずめにそんな顔をしてほしくなかった。叔父の信多郎も、こればかりは目にしなくて幸いだろう。だが自分は。いや、自分は。


(オレのせいだ)


 ただの夏祭りのはずだった。関係ないはずだった。非合理だと分かっているが、今起きている地獄絵図自体が、そもそも非現実的なのだ。

 だから佐強の脳裏に、そのひらめきが呪いのように焼きつく。


(オレがから、神さまのバチが当たったんじゃないか?)


 この村に、翠良みすら尾瀬おぜに来るべきではなかった。あの恐ろしい人たちに育てられた自分は、やはり壊れて、けがれているのだ。

 だが、どうしてこの二人まで、巻きこまれなくてはいけないのだろう。


◆ ◆ ◆


 イエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。


                     (ヨハネによる福音書 6章53節)


◆ ◆ ◆


 十日前、二〇一八年七月二十一日。東京都八王子市、深夜。


 山の斜面を転げ落ちるように逃げると、本当に足をすべらせてしまった。足首をひねっていないことに感謝しながら、佐強は這いずるようにして前進する。

 あたりは真っ暗闇だった。夜の森など恐ろしくて入りたくなかったが、先ほど見てしまったものを思えば、光のある方へ近づくのが怖い。


 普段は二枚目半と呼ばれるヘラヘラした顔は、いまや見る影もなくおびえ、歪んでいた。山中でも蒸し暑い熱帯夜、流れる汗は冷たくてねばっこい。

 地面に手をついて立ち上がり、木々を支えにバランスを取りながら急ぐ。あの人たちは自分の名を呼んだだろう、たぶん追いかけてくるはずだ。

 短く刈りこんだ髪も、洗いざらしのジーンズも、ゆるキャラのTシャツも、草葉と土にまみれる。捕まったらどうなるか分からない、と言うよりも想像したくない。


(オヤジたちが、人を殺していたなんて……!)


「父たち」は自分を殺しはしないだろう。殴られたり蹴られたりぐらいは、するかもしれない。だが、その前に彼らがどんな言い訳をするかが一番聞きたくなかった。

 心臓にいくつも裂け目ができて、指でこじ開けられるような痛みが続く。全力で走っているからか、それとも衝撃を受け止めきれない葛藤か。


 考えるな。

 考えたくない。

 今はただ逃げろと自分に命じる。


 木の枝と葉が手や顔を切り、羽虫の群れに顔をつっこんで口まで入った。

 それでもあの光景よりはずっとずっとマシだ。こうして闇雲にさまよって、夜の山で迷子になるという最悪な気分を体験すれば、死体も、防水エプロンに返り血をつけた父たちも、夢か嘘だったことにならないかと思った。


 頭の命令に反して心が衝撃的な記憶を振り返る。身体は前を目指しているのに、精神はずっと後ろを見て、何度でも目を覆いたくなる映像を鼻先につきつけ、ついには臭いまで思い出しそうだ。そう、あの死体は臭かった。

 糞便と尿の臭い、そんなものを垂れ流しにするほど無惨にいたぶられ、尊厳を破壊されたヒトだった肉のずたずた。

 どうしてあんな真似ができるのか――


(いや、おかしいだろ……筋が通っていねえ)


 父たちはログハウスの出入り口から、死体を運び出している最中だった。小屋は「とーちゃん」の陶芸工房で、おそらく外のかまへ入れようとしていたのだろう。

 だが、工房があるのは車でしばらく行った山奥だ。コンビニに寄るついで、程度で行けるような場所ではない。なのに、自分はどうしてあそこに居た?

 はっはっ、と肩で息をしながら、佐強はゆるゆると足を止める。呼吸を整え、こめかみに指をあてながら、ここに至るまでの経緯を思い出そうとした。


(確か……夜中に目ぇ覚めて、二時ぐらいだったかな。コンビニ行くかって、ふらっと家を出たんだ。やっべ、どうやって来たか、ぜんっぜん覚えてねえ)


 持ち物は財布とスマホだけ。陶芸工房の場所は知っているが、徒歩で行ったことはないし、深夜に、しかも部屋着で一人行く理由もない。

 はは、と力のない笑いがこぼれた。


(そっかそっか、夢かこれ! あるわけねえよな、こんなバカなこと!)


 厳しい「オヤジ」が、優しい「父さん」が、お調子者の「とーちゃん」が、人を拷問して殺すだなんて。緊張の糸から手を放し、その答えに飛びつけば最後だ。

 ぷつんと体力が尽きて、佐強はその場に寝転がった。開けた地面に、夏の雑草らしからぬ、短い草がほどよく生えて柔らかい。

 目が覚めたら自分のベッドで、気楽な夏休みの続きが始まる。とろりと心地よい眠気が、疲れ切った頭を包みこんだ。



 目の前で何かがチカチカとまたたき、ちらちらと舞っている。

 何だろうと思って視線で追うと、急に辺りが明るくなった。頭上に張り出した枝と、青々とした無数の葉。こぼれ落ちた光が、あたりをまだらに染めている。

 虫刺されだらけの顔や腕は、寝ながら掻いたのか少し血が出ていた。


 しばらくぼうっと口を開けていた佐強は、ひとまずスマホを起動する。幸か不幸かバッテリーは残っており、無数の着信履歴とメッセージアプリの通知が来ていた。

 胸の奥で、がたん、と心がバランスを崩した音がする。


「夢落ちっていいよなあ。夢落ち上等、最高、優勝。現実つらいもん」


 スマホを放り出して、佐強はけらけら笑った。いやに高らかな声は木々に吸いこまれ、顔には微笑と言えるものさえ広がらない。精神の平衡を取り戻そうとするささやかな試みが、かえって彼自身を追い詰めていた。


『どこにいる、佐強。とっとと帰って来い。分かっているだろうが、話がある』

『佐強くん、言い訳はしません。こうなった以上ちゃんと説明します。辛いでしょうが、今は会って話をさせてください。』

『サッちゃんどこ? 一晩中探したよ。ボクは手を離せないけど、聞きたいことあったら何でも連絡してね』


 メッセージの内容は深刻そうだが、驚くほどいつもの調子だ。

 そのくせ暗に殺人を認めている。自分は居るはずのない場所に行って、ありえないはずの物を見た。どう考えても現実ではない、理屈が通らない。

 だが着信が、体中についたままの土汚れが、思い出すだけで喉から舌までこみ上げてくる血と糞の臭気が、あれは実際に起きたことだったのだと突きつける。

 不意に胃液がせり上がり、佐強は横に転がって吐き出した。


「とっとと底割れしろよ、もうどん底だろ。こっから夢落ちしたら拍手喝采だわ」


 のろのろと立ち上がりながら、現状を整理する。鈍い頭痛に、カラカラの喉。目が覚めて三〇分は経っただろうか、少し暑くなってきた気がする。

 熱中症や脱水で行き倒れになる前に、山を下りなくてはならない。問題は、いつ父たちに見つかるか、殺人現場を目にした自分がどう扱われるかだ。


 正直にすべてを説明してくれるのか。殺したのは別の誰かで、父たちは死体の処理をしただけだとか、下手なごまかしをされるのか。

 言い訳など聞きたくない。事実を確認する勇気もない。


(カエルの子はカエル、って嫌な言葉だよな)


 佐強はスマホの位置情報設定をオフにした。

 使ったことがない顔面の筋肉が、奇妙に歪むのが分かった。今の自分はどんなひどい顔をしているのだろう。笑っているのか、怒っているのか、あるいは。


「バカじゃねえの。大の男三人が、こんなママゴトずっと続けて、あげくに犯罪バレてやんの。オヤジとか警官だろ。何やってんだよ、ホント……!」わらうしかない。


 父親ばかり三人もいる父子家庭、しかも三分の一の確率で――あるいは全員が、血縁ではないかもしれない。

 彼らはDNA鑑定で佐強との親子関係を確定させようとはしなかった。ぬるま湯のような煮え切らなさだが、それが嫌だったわけではない、ないが。



 自分は大事に育てられたし、可愛がられていたと思う。今だって財布に、「とーちゃん」がナイショだよと言って、渡してくれた三万円が入っている。

 父子四人の生活は楽しかったが、困った面もたくさんあった。家庭訪問に来た教師の反応、授業参観の時にクラス中から浴びた好奇の視線、父の日の宿題。

 それぞれは大変だったが、振り返ると微笑ましく思えないこともない。


(確かに楽しかったさ! アンタらはたぶん良い父親だった。でも根っこは、とっくにダメんなっててさ。よそはよそ、うちはうちなんて、言い訳じゃねえか)


 佐強が「自分の家は少しおかしいのか」と意識したのは、母の葬儀がきっかけだ。亡くなったのは十年前で、その時は何も疑問に思わなかった。

 一家独特の弔い方を知った同級生たちの反応は、あまりに激しくて。


(アンタら、母さんの時みたいに、また人が食べたくなったのか?)


 自分は人食いの息子で、人殺しの息子か。

 このまま家に帰って、父と子の関係が続くなら、いずれ佐強は同じ道を歩まされるだろう。何しろ、三人の秘密を目撃してしまったのだから。

 今なら……いや、逃げるなら今しかない。


 あの男たちに育てられた自分が、マトモだという保証はなかった。そう思おうとすること自体、図々しい気がする。だが、これ以上いっしょにはいられない。

 佐強はふもとを目指して走り出した。

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