第五滴 がんかじが、噛む。

はたそまりみつ 果実は己が生(な)った因を知らず

 八月六日。


来足きたり婿むこが出頭しよったか」

「どうせじいさまに言われてやったんじゃろ、あっこの婿はおじくそ臆病者やさかい」

「それより、あの拝み屋よ。いきなり一人祟られとったそうやが、来足の人魚實にんぎょざねを成仏させたとか。あらホンマモンやな」

「若先生があの状態でどしょしらんどうしようかと思たが、これで鎮まるとええな……」


 饗庭あいば地区の会議所に、オヤカタサマに連なる中高年の男性たちが集まっていた。

 たる田穂たほ生口いたこなつめヶ岡がおか梲鳩つえばとよはの五名で、夏祭り以来頻発する翠良尾瀬の怪奇現象について話し合うためだ。もう一人、願施がぜざきが来るはずだったが欠席した。


 人魚供養祭――その最も重要な部分であるの儀が失敗した時は、まさかと誰もが思った。これまでそんな事例は聞いたことがない。

 だが実際、神主を務める裏巽うらたつみ信多郎しんたろうとその姪すずめ、および裏巽に居候していた少年が、それぞれ体の一部を奪い取られた。

 その翌日には血のような赤い雨が降り、来足家の娘・千乃が祀っていた人魚實に祟られて入院。結局彼女は助からなかった。


 千乃の葬儀は異常な早さで行われようとしたが、そこに現れたのが元々招かれていた信多郎と、彼が呼んだという三人の拝み屋だ。

 どういう手を使ったのか、は祓われた。それは来足の者を狙うに無防備になるということでもあったが、祟りの方が恐ろしい。

 人魚の血を引く人魚実にんぎょざね、中でもそれを色濃く保つオヤカタサマは、人魚のなりそこないのにとっては魅力的な餌だ。食べることで、完全な人魚へ近づく。


おお先生が生きてなすったらなあ……」


 大先生とは信多郎の父・純一郎じゅんいちろう、みすらおがみ神社の先代神主である。彼の急逝がなければ、信多郎はあの若さで宮司の立場に就いていない。

 元々修行を積んでいたおかげで、神職としての仕事にこれまで不備はなかった。

――だが、やはり翠良みすら尾瀬おぜの重要な立場である裏巽の当主として、実力不足だったのではないか。でなければ儀式の失敗など起こさないだろう。


「そもそも、あれや、すずめ嬢ちゃんがああなってからやろ、可怪おかしなったの」


 神隠し、という言葉はあえて使わない。冬に彼女が消えて戻ってきてからわずか数ヶ月、純一郎とその妻・幸恵ゆきえは立て続けに病に倒れ、次に娘の和泉子いずみこが。

 残された信多郎は両眼を、すずめは両足を奪われてしまった。


「嬢ちゃんが、みすらさまを怒らしてしもとんちゃうか」


 暗くよどんだため息が、ふーっと会議所の畳に広がる。

 かつての儀は、生け贄の儀式だった。かといってこの時代に、八歳の女児を神への供物にできるわけがない。


 来足が祟られたのは、一度伝承が断絶したためだった。しかし改めて調べると、どのオヤカタサマも祀っている人魚實についての記述が少ない。

 これまで野良のが騒ぎを起こすことは稀にあったが、代々祀られてきた人魚實は大人しい物だった。だから扱いは形骸化し、本質を忘れ去ってしまっている。


 それに気がついて、オヤカタサマはどこも焦っていた。来足の二の舞はごめんだ。

 どうすればこの祟りは収まるのか。長い眠りから目覚めた人魚實はどう動くのか。何もかも不透明だ。頼みの綱は、もはや裏巽が呼んだ拝み屋しかいない。



 八月八日、人魚狩りの期限まで、残り二十五夜。


 八畳の和室を三つ繋げて十六畳にした裏巽家の大広間には、十数人ほどの老若男女であふれかえっていた。千客万来というやつだ。

 上座には目元を包帯で隠した家主、拝み屋ということになった鴉紋あもん直郎ちょくろう、二人の助手という立場になっている佐強さきょうが座っている。

 すずめは、来客についてきた小学校の友人たちと土間の方で遊んでいた。

 八津次はつじが無事を制し、「裏巽の若先生が呼んだ拝み屋」「化け物退治の専門家」として一家の名が広まった結果、この有り様だ。


 話の内容は、村のどこそこでを見たとか、呪いのアイテムだから見てくれというものがほとんどだった。

 昨日はオヤカタサマ七家が入れ替わり立ち替わり訪れて、代々祀っている人魚實について教えてくれたので大助かりだ。

 加えての儀や、村の伝承にまつわる情報の数々。これにより、信多郎や和泉子が話している内容の正しさが証明された。

 分からないのは、なぜ祟りが起きたのか、なぜ佐強たち三人が体の一部を奪われたかだ。皆、「こっちが知りたい」という態度だった。


「それでは本日はここまで。皆さま、情報提供ありがとうございます」


 刑事の鴉紋と医師の直郎は、他人の話を聞くことに慣れている。一通り聞き終えた所で家主の信多郎が解散を告げると、皆素直に従ってくれた。はずだった。

 妙齢の女性が二人でヒソヒソ話をして、なかなか腰を上げようとしない。時々鴉紋の方をちらりと見ていたが、やがて意を決して「すいませ~ん」と話しかけてきた。


宇生方うぶかたさん、いっしょに写真撮ってもらっていいですか?」

「ああ、構わねえ」

「オヤジさあ……」


 ロケで街を歩いている芸能人じゃあるまいし。それぐらい、鴉紋が四十路にしてなお艶気のある男前ということだが、手慣れた対応が佐強は何か腹が立つ。

 彫りが深く端正な目鼻立ちは、単に美しいというだけでなく、刃物のような冷たさをまとい、危険な香りを放ってた。それで異性は眼と鼻がちょっと悪くなって、父の手に光っている結婚指輪のことを見過ごしてしまうのだ。

 当人が己を男前と自認し、着ているものに隙を見せないのも原因の一つだろう。なんでこの人、死んだ母さんに操を立てているのだろう、と佐強は不思議で堪らない。


「わたしたちが手をこまねいている間にも、翠良尾瀬では事件が続いているようですね。どこから手をつけていいものやら」


 書き留めた内容を整理しながら、直郎は思案顔をしていた。たぶんこの人もそのうちファンがつくんだろうなー、と横で思う佐強である。

 来足家の一件から三日。八津次は毎日のように今日こそ退院すると電話してくるが、直郎に止められてまだ病院だ。使鬼銭を使った消耗と、腹の傷が良くない。


「おーい、佐強」


 高校生ぐらいの少年が親しげに話しかけてくる。昨日父親について裏巽家にやってきた、願施崎がぜざき志馬しまだ。短く刈りこんだ金髪に、よく日に焼けた肌。


「志馬、来てたんだ」

「おう、今日は遊びに。拝み屋の仕事、もっと聞かせてくれよ。の話とか途中だったろ?」

「いやあ、あれは……結局オヤジがぶん殴って解決しちまったし。オレはなにも」

「ケンソンしやがってー。おらっ吐けっ!」


 志馬はサイドヘッドロックをかけてきた。

 こちらは両手がなくて抵抗できないというのに、なんてヤツだ。「お前それ卑怯だろ!」「さっさと吐けば楽になるぞ……」「尋問みたいな台詞やめろ」「いつからこれが尋問だと錯覚していた? 拷問だっ!」「なん……だと!?」

 同世代とのくだらないやりとりが、佐強はひどく懐かしい。出会ってまだ二日だが、目上の信多郎や父たちとも、小さなすずめとも違う。


 志馬は翠良尾瀬で初めてできた、同世代の知り合いだ。直接と対峙しなくとも、忙しい日々が続く中、佐強はやっと人心地つけた気がした。

 このまま九月の期限までに人魚を狩りきれなければ、自分も、すずめも、信多郎も、化け物になる。それは半分恐ろしく、もう半分は実感がない。

 志馬から村の伝承について何か聞けるかもしれない、とも思う。だが彼といる時は、祟りも、呪いも、絶望的な未来も、忘れていたかった。


 事態の渦中にいながら、佐強はまだ、己に背負わされた因果を知らない。



 八月六日。


『へえ~、ナオちゃんのそれ、〝三人吉三さんにんきちざくるわの初買はつがい〟みたいだね』


 前夜に信多郎と「大人の話」を終えた鴉紋と直郎は、通話で病院の八津次とその内容を共有した。そして直郎が自分の秘密を告白して、返ってきた第一声がこれだ。

『三人吉三廓初買』とは歌舞伎の演目である。

 生まれてきた子供が男女の双子だった父親は、片方を川に捨ててしまった。しかし生き延び、長じて双子は夫婦の契りを結ぶが、最後は兄の手で死ぬのだ。

 この物語で男女の双子が生まれてくる理由が、「父親が犬を殺した祟り」だというのがまた気味が悪い。それほどに、二卵性双生児は疎まれていたのか。


「八津次、お前が博識なのはいいが、もうちょっと話題を選べねえのか」

『宮沢賢治の方が良かった? けふのうちに/とほくへいつてしまうわたくしのいもうとよ……から始まる〝永訣の朝〟。妹のトシを溺愛していたのは有名だからね』


 鴉紋が小さく舌打ちした。溺愛していた妹が病死したというのは、彼にも重なる話だ。直郎は戸惑いのすえ、「あの」と蚊の鳴くような声を出した。


「わたしが那智子なちこさんと双子の姉弟で、おそらく佐強くんはわたしの息子で、それが祟りの原因になっているのでは、という話はしましたよね?」

「したな」

『聞いた聞いた』


 頭頂がぐるっと回る感覚……おそらく目眩だ。長年自分が抱えていた悩みをあっさりと受け止められ、どうしたらいいか分からない。


『兄弟は鴨の味ってそういう意味じゃないけど、今の流れで出すとやらしーよね。サッちゃんは健康に育ってんだから、別にいいんじゃない?』


 そのことわざは、喧嘩しても兄弟は仲が良いもの、という意味だ。


『近親相姦って色々言われるけどさー、なんでそれを忌避するかって突っこんでいくとアレでしょ。カニバリズムといっしょで、人類三大タブーなんて言っても定義がきちんとしてないんだよ。まあナオちゃんはクリスチャンだから悩んじゃってんだろうけど。でも聖書って族内婚いっぱいしているし、別に良くない?』

「俺はてめえが兄弟姉妹とヤッたと言っても信じるぞ」

『うははは! さすがにそれはないかなー』


 予想しないではなかったが、八津次は直郎の近親相姦にまったく忌避感がないらしい。彼のロジックは相変わらず自由奔放だ。


『ナオちゃんとシンちゃん、何か似てるな~って思ったら従兄弟同士だったとはね。すずめちゃんの父親も、シンちゃんで確定でしょ。いやーすごいなー』


 もしかして自分はそろそろ切れても良いのでは?

 こちらは十数年苦しんだのだ。何度も自殺を試みて、失敗して、彼女と愛し合いたくともそれができない、汚れた自分を嫌悪し続けて。それが、こんな。


「直郎、俺の初恋を教えてやろうか? 妹の愛夢あいむだ」


 鴉紋の低くこもった声音は真剣で、冗談ではないことがすぐに分かった。


「初恋だったと自覚したのは、あいつが死んでずいぶん経った後だがな。俺は確かに兄として妹を愛していた。だが同時に恋もしていた」


 しらふで話す気になれないのだろう、鴉紋は缶ビールをあおり、長く喉を鳴らす。入院中で飲酒不可の八津次は、スマホの向こうで恨めしそうだ。

 缶から口を離した彼の眼は、今まで見たことがない色をしていた。


 家長として、直郎と八津次の兄として、捜査一課の刑事として、大人として。そんな多重にまとったペルソナをすべて剥がした、少年のような丸裸の眼。

 そのおもてに普段の厳めしさはない。微笑みとも悲しみともつかない、さざなみのような、繊細で静かな感情をたたえた湖。


「もし愛夢が健康になって、成長していたら……自分がプラトニックな恋を貫けていたか、と考えると自信が持てん。そんな俺に、お前を責める資格はないだろうよ」


 この鴉紋は、かつて妹が生きていたころの彼なのだ。胸の深く柔らかい所、ともすれば墓場まで持って行ったかもしれない、誰にだって打ち明けられない本音。

 彼は安心しているのだろうか? 長じた妹と結ばれ、汚してしまわなかったことを。それとも悔いているのだろうか、妹と愛し合えなかったことを。

 もしかしたら、その二つがせめぎ合っているのかもしれない。


 自分のせいで鴉紋の傷を暴いてしまったことに、直郎は急に恥じ入った。だが、まだ二人に確認すべきことがある。


「それで。人魚狩りを続けるんですか? 佐強くんは、あなた方の子ではないのに」

「あァ? 俺は最初から認知する、つったろうが。十七年育ててんだぞこっちは。今さら実の親子かどうかでガタガタ抜かすかよ」

『そーそー。伊達や酔狂で三分の一パパをやってないよ。だいたいサッちゃん、ナッちゃんがたった一人遺してくれた、だいーじな忘れ形見だよ?』


 鴉紋はビールを開けて「飲め」と直郎に押しつけた。そうだ、兄弟たちはここまで来て、はいそうですかと手を引くような人間ではない。

 でなければ、小田島おだじま那智子のために始めた〝赤観音〟だって、とっくに辞めている。自分たち家族のあり方は罪にまみれ、歪み切っていた。

 だが、それでもただ一つの家なのだ。


 いつか佐強は、殺人鬼の父たちと縁を切りたいと思うかもしれない。その時は、決して引き留めないでおこう。だが今の彼には助けが必要だ。

 直郎はビールを一息に飲み干した。こんな危ない飲み方をしたのはいつ以来だろう。もしかしたら初めてだったかもしれない。

 急速に高まる血中アルコール濃度を感じながら、ふうっと大きく息を吐く。


「……取り乱しました、すみません。しかし大事な話はここからです。佐強くんはおそらく、人魚実のサラブレッド。祟りを解く最高の生け贄になるはずです」


 二本目の缶ビールを開けながら、直郎は昨夜からずっと考えていたことを話した。


「これは想像なのですが、わたしと那智子さんの母・裏巽市子いちこさんの夫は、彼女の兄弟ではないでしょうか。翠良尾瀬が近親婚を推奨していたというなら、彼女が生まれた六十年代末は、今より露骨にその風習が残っていた可能性があります」

「そういえば、父親の話は何も出てこなかったな」

「もし佐強くんを贄にしなければ龍神が納得しないというのなら、代わりにわたしを差し出せば対価として足りるのではないでしょうか」


 遺伝子は引き継いでいても、顕在化しなければ意味がない。

 自分と佐強、どちらがより人魚に近いのかは判別はできないが。信多郎の提案で、生きた人間であっても、人魚の血を引いていれば殺す価値があると分かった。

 もし裏巽市子がきょうだい婚をして自分たち双子を産んだなら、期限いっぱいまで人魚を狩って、最後に直郎を殺せばいい。


「もしわたしで足りなければ、オヤカタサマに手を出すのは、その時です」

『ナオちゃん、自己犠牲好きだよね。そういうのダメだよ』

「……今考えつく最適解です」


「気にくわねえな」と、鴉紋は地獄のようにドスの利いた音吐おんとを出した。


「誰も欠けさせずに八王子へ帰る。それが第一目標だってことを忘れんじゃねえ」


 鴉紋の決意は本心からだろう。だが、、二柱であの脅威だ。全員無事に戦い抜けると思うのは、あまりに楽観的ではないか。

 選択肢は少しでも増やした方が良い。直郎はいざとなれば、佐強の身代わりになる覚悟を決めた。あの子だけは、必ず守ってみせる。

 それが那智子への、せめてものつぐないであるのだから。

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