かくて、なみのむこう
陸の人魚は自由に泳ぐ
二〇二二年九月二日、東京都内某所。
「ぐべ」
雄猫の
大学生が一人で住むには余裕のある1LDK、腹をなでて痛みを取り、のろのろと自室を出る。朝ごはんの催促はいつも乱暴だ。
右京は、最低でも三歳になる白猫である。
一点の汚れもない純白の体に、エメラルドグリーンの瞳。初めて会ったときは車にでも轢かれたのか、顔の半分が潰れ、内臓がはみ出して、それでも生きていた。
(もし、オレが人魚になったんなら)
血の力で傷を癒してやれるのではないか。
そう思ったら夢中で指を噛みちぎり、滴を振りかけていた。あとは、ご覧の通り。念のため獣医に連れて行ったが、異常なしだった。
「ほーれ右京、飯だぞ~」
なーん、と甘えた声を出して、白猫はキャットフードの皿に顔をつっこむ。佐強は別皿にも、フードと水を多めに用意した。
「今日はオレ泊まりだから、明日戻ってくるまで我慢してくれよ」
問題は、この猫は傷が治っただけで済んだのか、という点だ。元の色がどうだったかは定かではないが、翡翠色の瞳が、佐強を不安にさせる。
一度手を出した命なら、責任を持つのが筋ではないか。佐強がそう思って猫を連れ帰ると、祖父母は快く受け容れてくれた。
拾った時には明らかに子猫だったから、成長しているのは確かなのだが。
「さー、オレも飯にしますか」
佐強はさっとベーコンエッグを作り、レンジで温めた冷凍うどんと、鍋に沸かしためんつゆをひとまとめにどんぶりへ入れ、仕上げにバターを入れた。
イングリッシュ・ブレイクファストうどん、もといベーコンエッグうどんだ。ベーコンの塩気とバターが具材とつゆを一体化させ、日英の調和を生み出す。
父たちと別れた十七歳の冬。あれから佐強は、高校を卒業するまでの一年と数ヵ月を、保護責任者となった
一人暮らしを始めたのは、大学に入ってからだ。祖父母には学費こそ出してもらっているものの、それ以上の仕送りは断ってアルバイトで生計を立てている。
新型感染症は今日も絶好調だ。佐強は黒いマスクをつけ、ドアノブに手をかける。
「じゃっ、留守番よろしくな、右京」
まるまるとした白猫は、くあっと大あくびで返事した。
アパートの出入り口には管理人室があり、そこには管理人件大家の中高年男性がいる。頭のはげ上がった小柄な男性で、色あせたグリーンのジャケット姿だ。
「
「おっ、今日も大学かい」
「そうなんすけど、仕事で泊まりだから、今日は帰らないかも」
「ああ、また例の」
訳知り顔で西室はうなずく。かつて、彼が持っているこのアパート『コスモ西室』は、近所では心霊物件として有名だった。
師匠が「お前やってみろ」と佐強に任せ、対面した西室は今より十歳ほど老けて見えたから、相当まいっていたのだろう。佐強はあっさり事態を解決した。
おかげさまで、1LDKの部屋を格安で貸してもらっている。
「私みたいに困っている人がいたら、助けてやっておくれ」
「そのつもりっす。じゃ、行ってきますねー」
「気をつけてねえ」
みすらは今でも、夢の中で佐強に呼びかけてくる。
それを無視しながら、自分が得た人魚の力におびえる日々だった。何しろ、佐強が望めば人の意志や心をねじ曲げ、気に食わない人間は怪我や病気になってしまう。
ある日はできたことが、次の日にはできなくなっていたりと、非常に不安定で、この力は本当に自分の意志に従っているのか、まったく分からない。
そんな時に出会った――というか、佐強を「見つけた」のが師匠だ。彼はずいぶん昔に、翠良尾瀬で野良いをを片付けた経験がある霊能者だった。
彼の元で修行を積んで、力をコントロールするすべを身につけたが、まだまだ完全とは言いがたい。師匠が持ちこんでくる案件を解決するのも、修行の一環だ。
父たちや、翠良尾瀬の人々に起きたことは、人間の業や欲望に人ならざるものがつけ込んだ結果だった。みすらのことが、佐強は許せない。
人魚の力は望むと望まざると関わらず、自分が一生背負っていくものだ。けれど、それだけで済ませたくない。人間をもてあそぶ怪異や神々から、人を守りたかった。
つまり父たちと母と、佐強自身の仇討ちだ。
「いやあ~お待ちしておりましたよ、
約束していた不動産に寄ると、恰幅の良い社長が満面の笑みで出迎えてくれた。体型がダルマに似ていて、厳つい顔で作る笑顔はマスク越しでもダルマっぽい。
「私どもみたいな業界には、どうしてもね、こういうことがあるんですよ。心理的
佐強も確認済みの資料がローテーブルに広げられ、再三目を通す。
「おーい、
「願施崎?」
珍しい名字に、佐強は目を上げた。
「いやあ、うちの若いのが、気が利かなくてすみません」
「お、お構いなく」
偶然だろうか。同じ漢字かは分からないが、この広い東京で、あの名前をまた聞くことになるなんて。パーティションの向こうから、黒髪が見えた。
「あっ」
褐色の肌に、人なつっこく愛嬌ある顔立ちの若い男が、湯飲みと盆を手に現れる。年月が経っているが、マスクで隠れていても、顔立ちが思い出の中と重なった。
あっ、と相手も短く発声する。
「……
「佐強……?」
「おや、知り合いでしたか。こちら、うちの社員の願施崎くんです」
志馬は目を何度もまばたかせながら、茶を出した。盆を抱えたのを見計らって、「お前、生きてたのか……良かった」とようやく言葉にする。
あの時はまともに話す機会もなく、連絡先の交換もしていないまま別れてしまった。佐強には彼の生死を確認するすべがないまま、四年も経ってしまったのだ。
「まあ、なんとかな。つうか、
――僕は子供が死ぬのは耐えられません。
――佐強くんは命も、それ以外も助ける。
「ふうむ、ふうむ。二人とも積もる話があるようで。願施崎くん、今日は仕事上がったら、小田島さんに同行しなさい。物件に一晩泊まるだけだから、後で報告して」
「残業代……」
志馬のか細い訴えを聞かなかったことにして、社長はさっさとことを進めた。
今回、佐強が仕事をするのは雑居ビルの四階だ。
志馬は社用車で佐強を目的地まで送り、その間に、自分は大津の親戚に身を寄せたこと、高校卒業後に上京して就職したことを話してくれた。
最後に「おまえの親父さんのことは恨んでねえよ」とも。
夜。背広から私服に着替えた志馬は、カップ麺とビール、つまみの入ったレジ袋を手に訪ねてきた。社長の命令は無論、彼も佐強に聞きたいことが山ほどあるはずだ。
「志馬はさ、昼間オレのこと恨んでないって言っていたけどさ」
二人で乾杯して、翠良尾瀬が名実ともに消えたことにしばし黙祷した。志馬の父が起こした殺傷事件は、しっかり記録されている。
だが、佐強の父たちが〝赤観音〟としてやったことは、闇に葬られたままだ。翠良尾瀬で彼らの偽物が人を殺していたことも。
「オレ、人殺しの息子なんだよ」
「いや重い重い! いきなり重量級から話すのやめろや」
「あ、えーっと」
しまった、自分勝手な所から話してしまった。佐強が話題を探していると、志馬は缶ビールをぐびぐびとあおって「『ブレット・トレイン』観たか?」と切り出す。
伊坂幸太郎の小説を原作にハリウッドで製作され、ブラッド・ピットが主演を務める、昨日公開されたばかりのアクションコメディだ。
「観た! 最初ノリがわっかんなかったけど、もっぺん観たい。ちゃんとリズムに乗れなかったの悔しー!」
「やるじゃん。いやもう笑ったよな、ブラピがずっと情けねえ顔してんの」
佐強もビールをあおり、気になっていたことをつっこんだ。
「
「あれはだいたいそのまんま」
「マジで!? 魔界じゃねえか米原駅!」
映画を観ておいて良かった。おかげで話がはずむ。
「それでさ、最後の、あの」
「うんうん」
『ボトルウォーター!!』
綺麗にハモって大声で笑う、笑う。あの十七歳の夏、ひととき過ごしたように。
「ところでお祓いは?」
「いや、オレ一晩泊まるだけで大抵のは逃げていくから。呪文とかねえよ」
「うえっ、メチャクチャ楽じゃん」
「いや、一応集中力は使うんだよ!」
話して、食べて、騒いで、海に潜るように夜は深く沈んでいく。
「つうかさ、こっちには人魚も龍神さまもいないのに、幽霊とかいるんだな」
「人魚がいるのはいいのかよ。実際いたけど」
「ガキのころからずっと話聞かされて、朝晩拝んでたからなー」
やがて。
深夜と言うには少し早いころ、志馬はついに言った。
「な、佐強。けっきょく、翠良尾瀬って、どうしてああなったんだ?」
それについては、志馬にとっては恩人である裏巽信多郎のやったことを暴かなければならない。でも、彼を一方的に悪人と語ることはしたくなかった。
志馬も、佐強の父たちが人魚と戦っていたことは知っている。
「どっから話したもんかな……」
「そういう時ゃ、最初から順番に話していきゃいいんだよ。そだな、お前の両手って祟りで取られたって言ってたじゃん。戻って良かったよな」
「あ、そうか。OK、分かった」
翠良尾瀬の人魚は、血の中を泳いでいた。閉じられ脈々と受け継がれる道筋の中、幾度となく輪廻して。人の業と神の意志に縛られながら。
「オレが両手を取られた時、最初になんて言ったと思う?」
この世で最も新しい人魚である佐強は、血の中にはいない。
『……代わりに新しいの、生えたりしない?』
そして、風の中を泳いでいる。
ついぐなの人魚は血を泳ぐ 雨藤フラシ @Ankhlore
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