牧の怪我
牧は眠りから覚めた時に、視界に広がる白い天井と眩しいLEDに開けたばかりの目を細めた。
ベッドの感触も普段と全く違う。知らない場所で寝かされている。
牧はぼんやりとした頭で思考しながら、もぞりと身動ぎする。
「牧くん? 起きた?」
「……姉ちゃん?」
ベッドの横に座っていたらしく、駒の顔が牧の視界に大きく入り込んだ。
姉がやけに不安そうな顔をしているけど、何かあったんだろうかと牧は記憶を探る。
「なに、が……」
牧は駒に話を聞こうとしたら、やたらと喉が渇いていて声が擦れた。随分長く眠っていたらしい。
何時寝たんだっけと牧は考えるが、答えが上手く像を結ばない。
「待って、今、お医者さん呼ぶから。はい、お水」
駒からペットボトルを手渡されて牧は大人しく口を付けた。
水分が喉を通ってきて、そのまま血管を巡ったみたいに思えるくらい頭がすっきりしてくる。
医者を呼ぶって言うなら、此処は病院らしい。なんで自分が病院のベッドで眠っていたんだろうと牧は考えて、それでやっと記憶と意識に掛かっていた靄が晴れていく。
そして覚えている最後の記憶を思い出して、牧は目を見開いた。
「紗貴! 紗貴は! 無事なの?!」
牧は跳び起きようとするが両肩を駒に抑えられて動きを阻まれる。
「落ち着いて、牧くん。紗貴ちゃんは無事だし、
「騅? あいつもなにか……そうだ、騅も電車に乗ってた……」
目の前で刺された紗貴にばかりが気に掛かっていたけれど、騅も同じ電車に乗っていたのに気付いた。もしかして騅も巻き込まれていたのかと思うと不安が押し寄せてくる。
いや違う、紗貴が刺されたのは夢の方だ。夢だった、はずだ。
でも夢じゃないなら、どうして牧は生きているのか分からない。紗貴を庇って突き刺さったナイフが、内臓を捻る感触が生々しく思い出せる。
あんな目に遭って生きてられる訳がないから、やっぱり牧が紗貴を身代わりになれた方が夢で、紗貴が刺された方が現実か。
しかし駒は紗貴は無事だと言っている。じゃあ、やっぱり紗貴は刺されてないんじゃないか。
牧にはどっちが事実でどっちが虚構なのか絡み合った記憶が上手く解けなくて判別が出来ない。
「まずはお医者さんのお話を聞こう? ね?」
駒が努めて柔らかく牧に言い聞かせる。
自分が取り乱すと姉に要らない心配を掛けるだけだと覚って、牧は一旦、自分の頭で考えるのを止めた。
医者なら客観的な事実を教えてくれる。そう信じて、重たい体をベッドに沈める。
牧が落ち着いたのを見て、駒はほっと安堵の息を吐いた。
「あれ。ていうか、姉ちゃん、今日は収録じゃあ……」
「今日っていうか昨日だけど、大事な弟が刺されたと聞いてお仕事にかまけるほど、お駒は薄情じゃありませんが」
「……あー、ごめん」
牧の失言に駒は鋭く目を細める。
姉に仕事を辞退させたのだと知って、牧は申し訳無い気持ちになった。
そんな弟の考えはお見通しな駒は不満そうに目を据わらせるけど、今は牧に負担を掛けたくなかったので苦情は差し控える。
駒が押したナースコールを聞き付けた看護師が直ぐにやって来て、牧の脈を計り幾つか質問をすると、また病室から出ていって、医者を連れて戻ってくる。
「牧さん、通り魔にナイフで刺されて入院したんですが、そのことは覚えておりますか?」
「あ、はい。なんとなく」
医者の問診に答えつつ、牧はそっちが現実かと情報を整理する。
先に医者の方から牧に対して記憶や体の具合に関する質問をされた後に、やっと牧は自分の容体について教えて貰えた。
曰く、ナイフの傷は浅く手術の必要はなかった。
刺された事自体のショックで意識を失った可能性が高い。
傷は医療用の絆創膏で押さえていれば自然に塞がるだろう。
「ナイフが刺さった瞬間に反射で腹部の筋肉を絞めて刃が入るのを阻止出来たのでしょうね。普段から鍛えてるそうですが、それが良かったのだと思いますよ」
医者はそう言って牧の生活習慣を褒めてくれたが、牧は釈然としなかった。
ナイフが深く刺さらなかったなんて有り得ない。牧は紗貴と体を入れ替えるのが精一杯で、ナイフがぶちりと嫌な感触を伴って腹膜を突き破ったのを実感している。
でも牧が自分の腹に手を当てても、表皮の浅いところがじくりと痛むだけだ。筋肉に力を入れても表面は引き攣るけれど筋肉が千切れる感触はない。
ともかく、牧の容体は安心だというのでそれで退院という運びになった。
牧は駒が運転する車に乗せられて家に帰る。
「絶対におかしい」
二人きりになったから、牧は病院では言えなかった疑惑を姉に漏らす。
ハンドルを握る駒を見ると、正直者の姉は困った表情をしている。
「うん、帰ったらちゃんとお話するから。ぶっちゃけ、お駒も騅ちゃんや紗貴ちゃんの言ってることが半分も理解出来てないんだよー」
当事者ではなく、後から話を聞いた駒では上手く説明出来ない事態が起こったらしい。
そんな良く分からない事が起きるだろうかと牧は頭を悩ませて、はたと気付いた。
最近、慣れてきてすっかり忘れていたけれど、騅は吸言鬼とか言う良く分からないモンスターだった。
もしかしなくても牧の怪我が不自然に浅いのは騅が何かしたからじゃないのか。それで騅に何か負担が掛かっているんじゃないか。
そう考えると、駒だってさっき、紗貴は無事で、騅も死んだりはしてないと言っていたのを思い出す。死んだりは、と言う事は、死んでないけど何かは起こっているんじゃないか。
その辻褄合わせは、けれど牧にしてみてもしっくりと話が通ってしまい、不安が溢れてくる。
「姉ちゃん、もしかして騅の身になんかあったの?」
「あー、うん。そのー……実際に見たほうが早いよ。あと本当に元気は元気だから、そこは心配しないでいいからね?」
心配しないでいいと言われても、本人を見ていない牧の不安は拭えない。
そもそもとしてあのお節介な騅が病室に付き添っていなかったのが今にして思えば不自然だ。
駒が車を停めるや否や、牧は荒っぽくドアを開け閉めして家に向かって駆け出した。
「あ、ちょ、牧くん! ケガ! ケガしてるんだから、走らないの!」
駒が牧の背中に焦った声を浴びせて来るけれど気にしてられなかった。
牧は腹部の痛みに顔を顰めながらも矢も楯も堪らず足に力を込める。
玄関のドアを開けようとして、がちりと
牧は焦ってポケットを探るけれど、空っぽなそこを幾ら
「もう、牧くん! ちゃんと自分の体を気遣いなさい!」
ぷんぷんと怒って拳を振り上げる駒がやっと追い付いて来た。
「姉ちゃん、鍵! 開けて! 早く!」
「もー」
言った側から姉にぶたれるかもしれないと言う自分の身の危険を省みてない牧に、駒は怒る気も失くしてプレート型のキーを差し込んで鍵を開けた。
駒が扉を開くのも待っていられなくて、牧は隙間から身を滑り込ませて家に入る。
「騅!」
玄関に靴を脱ぎ捨てて牧は家に上がる。
「牧? 帰ってきたの?」
リビングから返事が聞こえて、牧は体をぶつけるようにドアを開けた。
リビングのソファに小さな女の子が読み掛けの本を指を挟んで牧に振り返っている。
その顔は牧にも良く見覚えがあるのもで、牧はとても信じられなくて目を見開いた。
「紗貴……?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます