強くなる理由
大学の授業は一コマで一時間半もある。それが二コマも続くと間の休憩十五分も含めて三時間十五分も、
なつの所に行っても見回りがあるからとつれなく袖にされてしまったし、牧の受けてる授業を窓の外から覗いてみたけど難しくてちっとも分かんないし、広い構内を歩き回って迷子になったりもしたけれど、待ち遂げた。
そして授業終わりのチャイムが鳴り響く廊下で、騅はスマートフォンを片手に準備して教室を出て来た牧を出迎えた。
「お前さ、なんでこんなとこで待ってるの?」
知り合いに騅を見られるのを避けたい牧は人目に付く場所で合流してきた騅に眉尻を下げる。
「だって早く牧に会いたくて」
むっとした騅の台詞に通り過ぎる学友達の視線がこちらを向いた。
問い詰めるんじゃなかったと一瞬で牧は後悔を覚える。
「やっぱ、発言がカノジョだよな、あれ」
「止めろって。また牧に睨まれるぞ」
さっき昼食を一緒に摂った友人Aも牧に後ろ指を差してきたから、お望み通り振り返ってガンを飛ばしてやった。相手は即座に両手を上げて降参の態度を示す。
今日は何時になく疲れてしまって、牧は溜息を吐いて逃がした。
「じゃ、帰るか」
牧が諦めて歩き出せば騅は当たり前のようにその後に続く。ついでに友人二人も。
「お。アトマ、今日水曜なのに筋トレして行かないのか?」
そして友人Aから牧の背中に余計な一言が投げ掛けられた。
騅が牧の顔を見上げる。
「筋トレ?」
牧はまた要らない事を言って不利になるのを回避しようと沈黙を貫く。
しかし牧が話さなくてもお喋りな口は彼の背後に付き纏っている。
「そうそう。アトマは水曜と木曜は授業が終わった後に体育館の機材使って筋トレしてんの。うちの生徒なら使いたい放題、ジム代も浮く」
牧は人の生活を暴露した口の軽い友人を睨み、そんな牧の横顔を騅がじっと見詰める。
「わたし、今日は牧のいつもの生活を見届けるって決めてるの!」
勝手に決めた事に関して非難を受けるのが牧は全く納得が行かなかった。筋トレも予定が入った日はやらないのだから、今日だってパスしてもそれはいつも通りだと言い訳が立つ筈だった。
でもそれは自分の中だけで処理出来た場合だけだ。騅にバレた以上、自分への納得だけではなくて、他人への説得という過程が必要タスクに浮かび上がる。
そしてこの騅という少女は、説得に屈しない真っ直ぐな性根の持ち主だった。
「まじおまえしね」
取りあえず、牧は腹の底に溜まった怨みを余計な事しか言わない友人に向けて発散しておいた。
騅が連れて来られたそこは、普通の人がイメージする体育館というよりジムと言った方がしっくりとくる施設だった。実際、広いフロアで球技を行える部屋とは別に備えられた筋トレ用の器具が整然と並んでいる部屋だ。
もっとも、騅にとっては体育館もジムもまだちゃんと食べた事のないよく知らない言葉だから、そのイメージ像と現実のギャップが違和感にならなかった。
生まれたばかりの少女はただただ見た事のない機械や錘、それに部屋の造りに関心を抱いてきょろきょろと見回している。
「じゃあ、俺はいつも通りに筋トレするけど、周りの迷惑にならないように騒いだりするなよ」
友人達二人は疲れる事に興味ないと言って教室棟を出て直ぐに別れた。大学の敷地で端に位置しているこの体育館に来るのがそもそも怠いのだろうと牧は知っている。
牧の顔見知りも何人かいるが、誰もが自分の筋トレに集中しているので用もなく声を掛けてはこない。牧が連れている騅の事もちらりと視線を向ける学生がいるが、特に話し掛けるような素振りはない。
授業前や授業後で友人達がこぞって野次馬になる状況より、牧は遥かに気が楽だった。
牧は荷物と上着を騅に預けて、空いていたベンチプレスに足を向けた。シャフトの両端に十キログラムの錘を三つずつ差し込んでからベンチに横たわる。
合計六十キロのバーベルを牧は歯を噛み締めて余裕を見せて持ち上げた。
「おー」
ピンと真っ直ぐに伸びた牧の腕を見て騅は小さく拍手をした。
「これ、何回持ち上げるの?」
牧の横に立つ騅は、自然彼を見下ろしながら訊ねた。
二回目の持ち上げに入っていた牧は一旦騅の問い掛けを無視してバーベルを胸の上に戻したところで制止する。
「この重さで十回やって、その後八十キロに増やして五回五セットやる」
「ひぇ」
牧の淡々とした返事に、騅は小さく悲鳴を上げた。
何が悲しくてわざわざそんな重労働をしなきゃいけないのか、彼女にはちっとも理解出来なかった。
牧は十回のパワーリフティングを素早く終えた。ウォーミングアップとしてはばっちりで筋肉が温まってきた。
バーベルの錘を入れ替えるところを狙って騅は質問を投げ掛ける。
「なんでそんなに体鍛えてるの?」
「ん、そうだな……趣味、だし……強いと安心する、からかな」
「安心?」
折角ウォーミングアップをしたんだからインターバルを挟まずにトレーニングをするつもりの牧だったけど、騅の問い掛けを後回しにする気になれなくてプレスに腰掛けた。
その代わりに手を強く握っては緩めて筋肉に刺激を与える。
「力があったら、何かあった時に周りの人を守れるだろ?」
「それは……紗貴とか駒とか?」
「それに弟達……
牧が家族を語る時、自然と紗貴の家族も一緒くたにしている。
人でなくて倫理観にどうしても疎い騅は、もう事実婚でいいじゃん、と思わなくもない。
そこで話は終わりというつもりなのか、牧は勢いを付けて便利に体を乗せた。
「それと、最近面倒臭い妹も、増えたし、なっ!」
かと思ったら、牧は台詞の最後を掛け声にして八十キログラムのバーベルを持ち上げた。
最近増えた妹である騅は、自分もちゃんと家族に入れて貰ってるのが嬉しくて、それで何だか気恥ずかしくて、牧の上着に顔を押し付けて隠した。
牧は重量を増したバーベルを息を吐きながら持ち上げるのを繰り返して、話す余裕なんてない振りをしていた。
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