吸言鬼ちゃん、初めての料理

 本を牧のお財布から出た安登あと家の生活費で四冊、何故か紗貴の財布から二冊、それと食材も袋いっぱいに買ってもらったすいは、紗貴の部屋にお邪魔していた。

 最初の料理は紗貴に見て貰いながら作る事になったからだ。

 帰りの車の中で早速、基礎がしっかり載っていた本を食べた騅はすぐにでも作業に入れると意気込んでいる。

「今日はカレーを作ろうね」

 紗貴が提示したのは初心者には鉄板のメニューだった。食材の切り方が下手でも崩れるまで煮込んでしまえば形も関係ないし火の通りも心配ない、味付けも市販のルーが全て担ってくれる、何よりみんな大好き。

「私も最初に作ったのはカレーだったんだよ。それでお隣だった牧達にもお裾分けしたの」

 紗貴の思い出とお揃いだと知って、騅はぴょんぴょんと跳ねて喜んだ。

「カレー! さっき食べた本にもあったから、作れる!」

「ようし、やる気満々ね」

 騅は紗貴の指示に従って調理を始める。

 今日は無難にチキンカレーが選ばれた。

 まずは鶏の胸肉を一枚、切らないで両面に塩胡椒を振って下味を付ける。皮も脂と出汁の旨味にするために取り除かないのが、若くて田舎者の紗貴流だ。その鶏肉は丸のままで一旦冷蔵庫に戻される。

「お肉は野菜の後に切ります」

「なんで?」

「お肉を切ると包丁を洗剤で洗わないといけないからね。野菜なら水洗いかなんなら洗わないでそのまま使い回せる。めんどくさいのはやだからね、包丁は最後に一回洗うだけで済ませたい」

 ほむほむ、と騅は紗貴の効率重視な調理手順を頭に入れていく。

 野菜はスタンダードに玉葱、人参、ジャガイモ、それにしめじとセロリ。

 しめじとセロリは本にはなかったなと騅は脳内で復習をしている。

「今日は炒める順番に分けてボウルに入れていこうか。その方が分かりやすいよね」

 紗貴はそう言って食器棚から小さめのボウルを三つ持って来た。

「最初は玉葱とセロリね。玉葱は櫛切り、セロリは微塵切り。出来るかな?」

「うん」

 騅はまな板の上に玉葱を置いて包丁を握る。

 本にあった包丁の使い方を思い出して目を細める。そして書いてあった通りの動きを体に重ねた。

 騅は背筋を伸ばし、左手で丸い玉葱を押さえて右手に持った包丁を垂直にすっと引く。全くの抵抗もなく刃が徹り、とんと美しい音が木と鋼の打ち合わせで生まれる。

「……やばい、負けた気がする」

「なにが?」

 初めて包丁を握った騅が自分よりも整った所作で包丁を降ろしたのを目の前で見て、紗貴は自信を一気に喪失した。

 しかし騅の技術は人間とは違う習得方法で身に付けているので比べても詮無き事なのだけれど。

 騅はきょとんと目を丸くしながらも、玉葱の根元と頭の先を切り落として皮を剥ぎ、二玉をそれぞれ八等分の櫛切りにしてボウルに移した。

 セロリは一本の四分の一くらい、根元の方を使って縦に裂き横に小分けにする。そこから包丁の切っ先の背を左手で押さえてシーソーのように柄を右手で上げ下げして微塵切りにしていく。

 つんと青臭くて苦い香りが騅の鼻を突く。

「セロリはなんで入れるの?」

「セロリを入れるとカレーが美味しくなるんだよ。味に深みが出るっていうのかな」

「なるほど」

 騅は細かくなったセロリと玉葱の上に掛けるようにボウルに移す。

 それから人参は乱切り、ジャガイモも大きめに切って一緒のボウルに入れる。

 しめじは石突を落として一本ずつに解すだけ。

 どれも初心者とは思えないくらいに形も大きさも整っている。

「ほい。じゃ、次はお鍋に油を引いてね。底にまんべんなく行き渡るくらい」

 コンロの下から紗貴が取り出したサラダ油を受け取って、騅は慎重に深い寸胴鍋に油を垂らす。

 ゆっくりと落ちていく油に見入っていたら、少し多めに入ってしまって、びくりと手を跳ねさせて無理矢理に途切れさせた。

 騅は怯えた目で鍋の底にえるサラダ油と紗貴の顔を交互に見比べる。

「だいじょうぶ、だいじょうぶ、これくらいなら全然問題ないよ。この鍋いっぱいになるんだから、こんなの誤差誤差」

 とくとくと早足になる動悸を紗貴に宥められて、騅は自分の心臓を落ち着かせようと長く息を吐く。

 中火で鍋を温めて、香りの高い玉葱とセロリを最初に投入する。焦げ付かないように弱火にして木べらでゆっくりと混ぜてながら火を通す。

「この時に、生姜とかにんにくとか入れても美味しくなるけど、今日はそのままね」

 アレンジはその内にやればいいと、紗貴は情報だけを騅に伝える。

 騅は真剣に鍋を見詰めて手元に集中しながら、こくんと小さく頷いた。

「玉葱が透き通ってきたくらいでジャガイモとニンジンを入れて」

「うん」

 ざらざらと根菜が入れられると鍋の三分の一くらいが埋まった。

 ジャガイモも人参も軽く油をまぶすような気持ちで混ぜ合わせる。塩胡椒を少し振った。

 それだけで一分も待たずに鍋の野菜がとっぷりと沈むくらいの水を鍋に入れて、しめじも投入して中火に掛ける。

 固形コンソメ一粒を入れる。

「ここでハーブソルトとか、本格的に作りたいならローリエとか入れて煮込んでも美味しくなるよ。それでこのまま最低三十分、出来れば小一時間煮込むの」

「さんじゅっ……」

 思ったよりも長い時間を言われて騅は驚いた。野菜に火が通るだけでいいなら十五分も煮込めば良い筈なのに。

「いっぱい煮込むと野菜の旨味がいっぱい出るの。ブイヨンと一緒だね」

「お肉は?」

「野菜煮込んだ後に入れて火を通すよ。だからそこからさらに十分十五分は煮込むかな」

 美味しいには時間が掛かる。騅は初めてそんな真理を知った。

「だからカレーを作るなら前日の夜に煮込むかな。夜の方が時間作りやすいし」

 意外と身近なところにガチ勢っているんだなと騅は学習した。この人が作るんだから、それはクッキーだって騅でも美味しいと思える訳だ。

 ちなみに今日の具材なら紗貴は灰汁取りをしない派らしい。灰汁も旨味、だそうだ。

「ゴボウとか牛すじ使うなら流石に灰汁も取るけどね。まぁ、その辺りは下茹でするんだけどさ」

「牛筋って多分、普通の家でそうそう使わないよね?」

 鍋が一度煮立ったら、付いてるかどうか分からない位まで火を弱めて鍋の底から泡も立たないようにしておく。時々お玉で掻き混ぜるだけなので二人は自然とお喋りで暇潰しを始めた。

「ねぇねぇ、紗貴ってさ」

「ん? なに?」

「牧のこと、好きだよね?」

 騅が前置きもなく訊いて来た事に、紗貴は意味ありげに微笑む。

 冷蔵庫から取り出した作り置きの洋ナシのジャムをクラッカーに乗せて騅の口に放り込んだ。

 騅は突然口に入れられたおやつが美味しくて目を細めた。

「それを単刀直入に訊いちゃうか」

「うぐ、むぐむぐ」

 口の中にクラッカーが入ってるせいで騅はすぐに言葉を返せない。でも爽やかに甘くてシャリシャリと食感のいいジャムは飲み込んでしまうのが勿体なくて味わうのを優先した。

「まぁ、好きですよ」

 割りとあっさりと紗貴は自分の気持ちを告白した。

 そこでやっと騅は口の中の美味しいのを飲み込んで口を利けるようになる。

「どうして結婚してあげないの?」

 騅にあんまりに突飛な事を言い出すから、紗貴は呆気に取られて丸っこい目で見返してしまった。

 それで一拍遅れてから、けたけたと笑い出す。

「あははは、いきなり結婚とか! 人間にはね、順番ってのがあるんだよ。まずは恋人から、ね?」

 紗貴は騅を諭して、またたっぷりとジャムを乗せたクラッカーを差し出した。

 今度は騅も大きな口を開けて紗貴からの捧餉を迎え入れる。

「でも今の牧とは付き合って上げられないな。ちゃんと言葉に出来ない、その覚悟がない。それなのにこっちが甘やかして気持ちを覚ってあげたら、あの子はそれが癖になっちゃう」

 騅は口をむぐむぐ動かしながら、何処か寂しそうに遠い目をする紗貴を見続ける。ちくりと針鼓はりこが傷む。

 二人は幸せになればいいのにと思う。

 こうやって美味しいおやつを分け合って、それで和笑にこえみを交わして、それだけで満たされるだろうに。

「ちなみに、牧のどこが好きなの?」

「ん? まぁ、幼馴染でお互いの事よくわかってるのってのは大きよね」

 紗貴は野菜を煮込んでる鍋を一回し、二回しを混ぜる。

「それと気遣いの出来る良い子だし、口は悪いけど面倒見はいいし、あと素敵な詩を、書くよね」

 紗貴は数えながらくすぐったそうに笑う。

 騅はその横顔をじっと見詰める。

「それ、こないだ駒も全く同じ事言ってた」

「あいつってば、なんだかんだ完全弟キャラだからね。そこがいいんだけど」

 紗貴はジャムの瓶の蓋を閉めて冷蔵庫に戻すと入れ替わりで鶏肉を取り出した。

「でもやっぱり強い子になってほしいんだよね。強く生きていけるようになってほしい」

 そんな風に語る紗貴の何処か淋しそうで哀しそうな顔は、やっぱり駒に似ていて。

 そして駒とは全然違っていた。

「さ、鶏肉は一口大に切ろうね。お肉は切るのちょっと難しいからがんばって」

 紗貴に促されて騅は包丁を握った。

 後は鶏肉を入れて火を通し、ルーを加えて一煮立ちさせたらカレーは完成だ。

 いつしか夕忍ゆうしのんでいた窓の外に、もうすぐ騅の初めて作ったカレーが夕炊ゆかしく。

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