牧の未言

 朝日に光冷ひかりひえる街をランニングして帰ってきた牧は、マンションの前にぽつんと立っているすいを見付けた。

 騅は昇ってくる太陽をじっと見詰めていて、真っ直ぐに受け止めた朝日の光は騅の影を長く伸ばしている。

 その影を踏みながら牧は騅の背後から近付いて行った。

「おはよう。どうしたの、珍しいな」

 騅は後ろから声を掛けられて驚くでもなく振り返った。体の向きが変わって差し込んだ日射しが騅の髪できらりと砥光とみつとなって牧の目を刺す。

 牧が目を眇めていても、きらきらと光を透かす騅の髪は眩しかった。

「ん。なんか、気持ち良くて」

 良く冷えた朝の空気に騅の声は白く凍り付いてすぐ消えた。

 牧の息と違って長く立ち上らないのは、彼女の体が温まってなくて息の温度が外気に誓いからだ。

 牧は騅の手を取る。ひやりと氷みたいな感触と冷たさが牧の手をんだ。

「めっちゃ冷えてるじゃないか」

「人じゃないから、冷えても別に気にしないよ? 風邪だって引かないもん」

「そんなの分かんないだろ」

 牧は騅の冷え切った手をぎゅっと握りランニングで火照った熱を掌与たなたえる。

「牧の手、あっつい」

「なんで不満そうに言う」

 自分の手が冷えるのも我慢して体温を分け与えているというのに、あんまりな態度を返されて牧は少し不貞腐れる。

「かほご」

 むくれる牧の顔が可笑しくて、騅はちょっと揶揄ってみた。

 牧はそれ一層面白くなさそうにそっぽを向いたけれど、手は離さそうとしない。

「寒いのが好きなのか?」

 牧は東北出身の友人が寒い寒いと嬉しそうに言うのを思い出して騅に訊ねてみた。その友人からすると寒い方が体の調子がいいし、故郷に比べればまだ快適で、それでいてちょっと向こうにいる感じがすると言っていた。

「ううん、別に。気分?」

「疑問形なのか」

「自分のことだからって全部分かる訳じゃないって本に書いてあった」

「そうか」

 別に騅は寒いのが好きなのではないらしい。

 もしかしたら、ちょっとサウナを楽しみたい、くらいの感覚で体を朝の空気で体を冷やしているのかもしれない。

 こういう訳の分からないところを見せられると、やっぱり人外なんだなと牧は感じる。

「ああ、そうだ。ちなみに、これも未言みことであるんだよ」

 これ、と言って牧は騅と繫いだ手を持ち上げた。

 騅は丸っこい目から不思議そうな眼差しを顔の前に来た二人の手に注ぐ。

むと掌与たなたうだ。指し食むは冷えた手や指先で相手の体温を奪うこと。掌与うは逆に冷えた相手に掌を当てて自分の体温で温めることだ」

 はむ、と騅の口が宙に浮かんだ牧の声を含んだ。もぐもぐと咀嚼しながら、その美味しさで頬が落ちないように空いている右手を添えている。

「そう考えると、掌与うって面白い未言だと思うんだ。掌与える側は、必ず相手から指し食まれる。でも指し食む方は別に掌与えられなくたっていい」

相説あいとくってやつだね」

「どうなんだろうな。今言ったみたいに、指し食むは別に掌与うが必須ではないから……」

 二つの事項がお互いを説明するのに必要として意味が無限循環する関係を、未言で相説くと言う。

 例えば、親と子供。親は子供がいるから親と言う立場になり、子供は親がいるから生まれて来れた。

 しかし、掌与うと指し食むは数学で言う十分条件と必要条件であり、必要十分条件ではない。牧はそんな厳密な関係性を思慮して、二つの未言に相説くが当て嵌まるとは断言が出来なかった。

 騅はごっくんと喉を鳴らして二つの未言を飲み下した。

「んー、でも、未言屋店主的には指し食むと掌与うは相説く未言みたいだよ」

「そうなのか? ていうか、分かるの?」

「ちょっと深めに食べてみた」

「……おまえ、ずるいぞ」

 食べるだけで未言の創造手の思考を把握出来るだなんて、牧は詩を書く者として嫉妬せざるを得なかった。

 そうは言っても、人間である牧は言葉を食べるなんてことは実践出来ないのだけれども、それが尚更深い恨みを呼び起こす。

「生態が違うから。鳥が飛べて、人が飛べないのと同じ」

「それでも人間は鳥を羨むんだよ」

「そうだね」

 騅が髪を掻き上げて真っ直ぐに太陽を見る。昇り出したばかりの頃は真紅に燃えていたのに、今はもう黄金へと色合いを変えていた。

「掌与うって、牧に相応しい未言かもね」

「なにが?」

 急にそんなことを言われても、牧は意味が飲み込めなかった。自分の何が掌与うっぽいのかと、牧は騅の頭を見下ろす。改めてみると、騅の髪には幾筋も白髪が入っていた。透明な糸のような髪で、色が無いから光をえて白く見える髪だ。

「掌与うってようは、自分の熱を他の人に上げるんでしょ? 熱は命で生きてることの証、それで指し食むの冷えてるっていうのは死のメタファー。掌与うは死へと命を与えて蘇らせる、そう、愛を捧げる献身だと思う。わたしから見た牧は、そういう人」

 何の衒いもなく、素直な言葉だけで褒められて、牧は途端に居心地が悪くなって体を揺すった。

 人が困っていれば助けたいとも思うし、家族を守るために体を鍛えている訳だし、現に騅に対しては彼女を生かすために未言を与えている。自覚はあるけれど、自覚があるからこそ身近な相手に改めて核心を突かれるのは、気恥ずかしさが勝ってこそばゆい。

「なんだよ、急に改まって。褒めたってなんも出ないぞ」

「褒めなくても未言をくれるから、それで十分だよ」

「ああ、もう! それより、お前、なんか白髪増えてないか? もしかして食べる量足りてないのか?」

 どうにも今日は騅に口で勝てないと覚って、牧は強引に話題を変えた。

 しかし、よく考えると最近は騅から強請ねだられる事が減って未言を差し出すのも間が空くのが増えていたような気もする。

 騅が言い出せなくて、もし栄養が足りてないのだとしたら、牧が注意しなければならないと責任を感じた。

「え? あ、これ? ううん、逆」

 騅はピンと白髪を一本摘まんで伸ばした。

「ぎゃく?」

 逆と言われても意味が分からない。牧は鸚鵡返しして説明を求めた。

「うん。牧のお陰ですごく栄養状態良くって、わたしけっこう成長してるんだけど、ほら、騅って葦毛の馬の意味でしょう? ほら、名は体を表すって言うけど、わたしの場合生態的にそれが顕著なのよ」

 葦毛とは馬の毛並みの中でも、元は毛色のあったのが成長と共に色素が抜けていって、灰色や白の毛並みになっていくものを言う。

 その意味を持つ名前を付けられた騅も、成長と同時に髪の色が抜けていくという事らしい。

「だから髪が白くなってるのは、体が健康に育ってるからだから、安心して?」

「お前、本当によく分からない生態してるよな」

 今はまだ黒髪が多いから目立たないけれど、このまま髪が灰色や透き通った白に変わると日本人離れした見た目になってしまうだろう。

 それが短期間で起こるなら違和感が強そうだ。外向きには髪を染めたとでも言えばいいんだろうけれども。

「ふふ、わたしの事をまた一つ知れて良かったね?」

 まだ騅は牧を揶揄いたい気分のようだ。腰を曲げた騅に上目遣いに顔を覗かれた牧は、不本意にも可愛いかもと思ってしまった。

 だから強引に騅の手を引っ張って家へと歩き出す。

「長話のせいで体冷えてきたから帰るぞ! 腹も減った! 朝飯!」

「わ、っとと、もー」

 牧に無理矢理歩かされて騅はバランスを崩して転びそうになるけれど、それも牧の手で力強く引き上げられて転びはしなかった。

「こういう強引なところ、紗貴に見せた方がいいんじゃないの?」

「ぐはっ」

 騅の心からの指摘は、牧の胸を鋭く貫き大きなダメージを与えた。

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