晩ご飯はオムライス
玉葱一玉を微塵切りにしたのを半分、フライパンに流し込んでからオリーブとケチャップが馴染むように木べらで軽く混ぜる。
そこでやっとフライパンを弱火に掛けた。火力が弱いので始めの内はフライパンの中に何の反応もなく、傍から見ると本当に火が付いているのか不安になるかもしれない。
しかし騅は黙って木べらをゆくりと撫でるように返しつつ辛抱強く火の通りを待つ。
紗貴から、ここで焦って強火にするとオリーブオイルとケチャップが盛大に跳ねてキッチンが汚れて大変な事になるし、焦げが増えて味も悪くなるし、絶対に止めた方がいいと教えられている。
やがてオリーブオイルに包まれたケチャップの端が捲れて、それからぷつぷつと泡が弾けてきた。ジュワジュワと音も立ってきたので騅はさらに火を弱める。
フライパンの中の合奏は鳴りを潜めて、けれど油で玉葱が緩やかに揚がる音が甘い匂いと一緒にキッチンに立ち込める。
じっくりじっくりと時間を掛けて騅はケチャップの水分を飛ばして焦がしていく。
玉葱の欠片は次第に形を崩してぐずぐずになり、ケチャップは面積を減らしているのだけれどその朱色がオリーブオイルに映って透き通っている。
とろ火でも熱し続けられて臨界に達したケチャップはまたぷつぷつと
朱から赤茶色へと色が変わってきたように見えた所で、騅は一口大に切って下味を付けておいた鶏肉をフライパンに加えた。火を弱火まで戻す。
熱くなったオリーブオイルによって鶏肉の表面はあっさりと色を変えてじくじくと焼ける音を奏でる。
鶏肉に火が通ったら、これまた微塵切りの人参、ピーマン、それから玉葱の残り半分もフライパンに追い立てられる。騅は具材が揃ったフライパンの上から塩と胡椒を掛けて木べらで掻き混ぜた。
「いい匂いがしてきたー。お腹空いたよー」
リビングで寛いでいた駒が匂いに釣られてキッチンを覗いてきた。
遠くでドアが開け閉めされる音もした。そろそろ夕飯の時間が近付いているから牧も自室から出て来たらしい。
「今日はオムライスだよ」
騅は二人に聞こえるようにはっきりと声を通す。
駒が感激の声を上げて、牧が足を止める気配がした。
急に立ち止った牧の様子が気になって騅は炊飯器に入れっ放しの昼に炊いたご飯を取るついでにそちらに目を向ける。
リビングに踏み込んだ体勢のまま停止していて騅をじっと見てくる牧の顔はあんまり嬉しそうではない。
騅はおかしいなと思いつつもご飯の釜を炊飯器から取り出してまたコンロに向き直った。
木べらでご飯をフライパンへと落とし、空の釜は流しに置いて水を満杯にする。
「なんでオムライス?」
牧の停止が解けたようだ。
「牧が好きだって紗貴から聞いたから、作ってあげようと思って」
好物だって聞いてたのに、晩ご飯がオムライスと聞いてもちっとも嬉しそうじゃない牧が、騅には不可解だった。
騅はコンロの中火に強めて、ざくざくとご飯を切るようにしてソースや具と混ぜていく。冷えて固いご飯を力を込めて分けてソースに絡めると真っ白だったのが赤味の強いピンクへと変わっていく。
ご飯が温まるのに連れて抵抗は弱まっていき、色もムラがなく具材も均一に混ざった所で騅はコンロの火を落とした。
チキンライスがたっぷりと乗ったフライパンに蓋をして、騅は新しいフライパンを隣のコンロに取り出した。
「今日、オムライス嫌だった?」
お皿を三枚取り出した騅は、嫌って言われても困るなと思いつつ牧に訊ねる。
「いや、別にそうじゃないけど」
牧がキッチンに入って来た。最近は騅が作った料理の配膳を手伝ってくれる。
騅は牧の大きな体を避けて冷蔵庫からバターと卵、それと牛乳を取り出す。バターをフライパンに落として中火で温める間に、お椀で牛乳を垂らした卵を溶く。
溶けたバターをフライパンに満遍なく広げてから、騅は溶き卵を流し込んだ。
フライパンに触れた部分から焼けて固まる卵の、その真ん中に菜箸を突っ込んでくるくると円を描く。そうして真ん中に厚みを付けた卵が半熟手前の所で騅は火を止めてチキンライスを乗せた。
そのまま手首を返してフライパンを持ち、お皿を左手に構えて、フライパンの方を引っ繰り返す。丁寧にお皿に移されたオムライスは綺麗な檸檬の形で盛り付けられている。
騅はそのお皿を牧に渡して、コンソメスープをカップに注いでそれも空いている手に持たせた。
「はい、駒」
「はいよ」
駒の分を牧に持って行かせた騅は、直ぐにまた卵を三つ割って牛乳と一緒にお椀で溶いた。
次に作る牧の分は駒のよりも大きなお皿を準備している。チキンライスも大盛りにして、それでも騅は綺麗に卵で包んでみせた。
「はい、牧。食べてていいよ」
「ん」
キッチンに戻って来た牧にスープと一緒にオムライスを渡す。
残るは騅の分だけで自分で持っていける。
でも何時も、牧も駒も騅が座るまで食べるのを待ってくれているから、騅は手早く卵一つ分で包んだ小さなオムライスを仕上げた。
騅が座るのを、待ち切れないとそわそわして見守る駒の視線で追尾されて騅は思わず笑ってしまう。
「食べてていいってば」
「そんな。お料理してくれた妹を差し置いて食べるような非情なお姉ちゃんではないんだよっ」
駒はスプーンを握って子供っぽく意気込む。
牧はじっと自分の分の大きなオムライスを見下ろしていた。
ぱん、と駒が大きな音を立てて手を合わせた。
「いただきます」
駒に続いて牧と騅も手を合わせる。
二人が手を降ろすよりも早く、年長のお姉ちゃんはオムライスを口に運んでいた。
「うんまーい! 騅ちゃん、とってもおいしいよ!」
「良かった。嬉しい」
駒がどんどんオムライスに穴を広げていくのを見て胸を暖かくしながら、騅はテーブルのケチャップに手を伸ばした。
牧を見ると一口食べてもごもごとゆっくりオムライスを噛み締めている。その眉の間に皺が寄っていて騅は弱ってしまう。
「え、紗貴のと味違う?」
「あ、いや」
不安そうに騅が訊くと、牧は小さく首を振った。
「むしろ、完璧に同じで驚いた」
「そうね。懐かしい味だよ」
駒も去年までずっと紗貴が作った料理を食べてきた。その中でもオムライスは紗貴の自信作の一つだったから、駒は騅が作ったオムライスをにこにこと喜んでくれている。
けれど牧には紗貴と同じ味のオムライスを騅が作れてしまった事実に複雑な思いに襲われている。
「良かった。紗貴から教えてもらった通りに作って失敗したら申し訳ないもん」
ちゃんと上手に出来たと言って貰えて騅は安心して自分のオムライスをスプーンで掬った。
牧をもっと喜ばせたかったのだけれど、その原因が味じゃないなら騅にはどうする事も出来ないと割り切っておく。
「でも牧くんはこないだ紗貴ちゃんにもオムライス作ってもらったんでしょ? いーなー、こんな短期間でオムライスいっぱい食べれてー」
「あ、牧、もしかしてオムライス続いて嫌だった?」
「そういう訳じゃないけど……てか、なんで二人共それ知ってんの?」
紗貴の部屋に泊まった時の出来事が一緒に暮らす家族に筒抜けになっていて牧は普通に引いた。どんな辱めだ。
「紗貴ちゃんから連絡来てたもの。牧がオムライス食べたいっていうから朝ご飯まで食べさせるって。ね」
「ね。だから朝帰らないように鍵閉めててって言われたんだもんね」
女子二人が楽しそうに言葉を交わす。
牧は頭を抱えたくなった。
「ところで紗貴ちゃんの部屋にベッドは一つしかないんだけど、一緒に寝たんだよね!」
「え、牧ったらちゃんと教えてよ! 一歩進んだのね!」
そして恋バナが好きな女子二人が身を乗り出して牧に尋問を始めた。
本気で勘弁してほしいと牧は心の底から絶望する。
「なんで姉ちゃんはそんなこと知ってんの」
「え、ふつーに紗貴ちゃんから聞いたけど」
「お前ら、俺をイジメて楽しいのか……」
身内の女性陣が全て敵に回っていると知って牧は逃げ場がないのを知った。
下手に言い訳しても駒に押し切られて白状させられる。それどころか曲解されて事実無根な体験が押し付けられる未来さえ見えた。
だから牧は黙ってオムライスを食べ進めて二人に好きに妄想させようと決意する。全て聞き流して我慢すればいいだけだ。
幸いにして、この美味しいオムライスが牧に心の平穏とちくりと痛む違和感を与えてくれるから気は紛れる。
「む、牧が黙秘権を行使するつもりだ」
「仕方ない。紗貴ちゃんから聞くか」
どっちにしろ、牧に逃げ場がなかった。もう一人の当事者が向こう側だから牧一人が貝になって口を噤んでもまるで意味がない。
牧は溜息を吐いて、それで騅に伝えておく事があるのを思い出した。
「あ、そうだ。俺、明日は昼も夜もメシいらないから」
「え? どっか行くの?」
明日は土曜日で休みなのにご飯いらないなんて珍しいと騅は丸っこい目を牧に向けた。バイトが夜遅くてもご飯は自分で温めて食べるのに。
牧は言い辛そうに目を反らして、でもぼそりと用事を告白する。
「紗貴と出掛ける」
「デート! デートね! ついに一歩進んだのね!」
騅の食い付きが予想通りに良過ぎて牧は辟易とする。
しかしそこに駒がちっちっちっとスプーンを揺らして騅を窘めた。
「騅ちゃん、残念ながら、月に一回くらいは二人でお出かけするの、いつものことなんだよ。まぁ、デートだけど、進んではないんだなぁ……いや、むしろ今回こそ進んじゃう?」
「進まない」
牧は煽ってくる駒に冷たく返す。
「いや、そこでデートするのに進まないって断言するのもどうなの?」
反射で答えてしまった牧は騅のもっともなツッコミを受けて、バツが悪そうにオムライスを口に運んで沈黙を保った。
「そういえば先月はどこも行かなかったね」
「どっかの誰かを拾ってバタバタしてたからね」
その忙しかった元凶に姉弟の視線が揃って向けられた。
ぱちぱちと騅はスープカップを口許に運んだ体勢で止まって瞬きをする。
「……えっ、わたし、牧と紗貴のデートを邪魔してた?」
騅が気付いた事実に、姉弟は深く頷いて肯定の意を示す。
騅は居たたまれなくなって笑って誤魔化した。
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