美術館デート

 牧は大学近くにある美術館の入り口で紗貴を待っていた。

 そこは常設展示で西洋美術でも質の高い作品を観覧出来て、年に何度も特別展を開き国内海外両方の希少な作品がやって来るので、牧はデートスポットとして重宝している。

 今回はエジプトの古代美術が来日している特別展を目当てにしている。

 牧は外で待つのも寒いのでエントランスで突っ立っていた。硝子張りの自動ドアが開く度に顔をそちらへ向けて、待っている相手ではないのを確認しては視線を止めずに動かして知らない相手を見てるのではないと言い訳がましい仕草を繰り返している。

 ただ待ち惚けになる事は決してない。

 自動ドアが一度開き、閉まり掛かった所で続けてまた開いた。

 牧が待っていた女性は真っ直ぐに彼の元へと近付いてくる。

「待った?」

「待ったけど、まだ約束の五分前だから」

「そう? ごめんね、女の子は仕度に時間が掛かるのよ」

 紗貴の姿を見たら、牧は待ったのも報われる思いだった。

 黒のロングスカートの前に赤とオレンジが紅葉のように鮮やかなチェックの生地が被さっていてスコットランドの民族衣装みたいな印象を受ける。

 それに合わせてトップスは生成りのゆったりとしたニットで防寒着として黒のダッフルコートを羽織っていた。

 ボブカットの髪も今日は可愛らしく外に跳ねさせているし、頬も薄っすらと赤みが差している。

 ぼんやりと見詰めて来る牧に対して、紗貴は気分良さそうにくすりと笑いを零す。

 その声にハッと意識を取り戻して牧はバッグから二枚の券を取り出して一枚を紗貴に差し出した。

「券、買っといた」

「うん、ありがと」

 紗貴はそれを牧から受け取ったそのまま受付へと足を運ぶ。牧はその背中を追い掛けて列に並ぶ。

 二人は受付を済ませるとその横に伸びる長いエスカレーターで二階へと上がっていく。牧の二段上に乗って後ろを向く紗貴が、小さく手を振った。

すいちゃん、手を振ってるけど牧は手を振ってあげないの?」

「あえて気付かないフリするのが優しさかなって思ってる」

 紗貴と連続して自動ドアを潜った二人組に牧だってすぐに気付いていたけれども、気合で無関係を装っていた。

「てか、手を振ったら自分からバラしてるって分からないのか、あいつは」

「牧がこっち向いてないから大丈夫って思ってるのかも。二人でお揃いのサングラス掛けてて可愛いよ」

「ちらっと見た。姉ちゃんとか変装がいつも通り過ぎて知ってたらすぐ分かっちゃうんだけど」

「駒さんは他の人に正体隠しているだけで、牧から隠れようとはしてないんだと思うな」

「初回から欠かさずにデートを観察されてる弟がどんなに悲しい思いしているか、理解してくんないかなぁ……」

 現実が余りに辛過ぎて、牧は両手で顔を覆って悲しみに打ち拉がれる。

「ちなみに、騅ちゃんには出掛けに行き先を訊かれました」

「なんでそこで素直に答えた?」

「言わなくてもどうせ付いて来るから一緒じゃない」

 紗貴は軽やかに微笑んで踵を返して、エスカレーターから綺麗な仕草で降りた。

 それからデートが始まったばかりなのに背中を丸める牧の手を取って引っ張り上げる。そのまま牧の手は紗貴の掌に包みこまれた。

「今日、常設展はどうする?」

 エスカレーターから少し離れた位置で足を止めた紗貴が次に向かう先を牧に訊ねる。

 常設展示に向かうには左に進み、右に行くと特別展示の方へ行ける。特別展示を抜けた後は出口が目の前になるので、わざわざ引き返さない限りは常設展示を見ないで美術館を後にする事になる。

「今日はいいんじゃない」

 けれど、牧にとっても紗貴にとっても身近でよく利用する美術館だ。常設展示を新鮮な気持ちで見るにはもう少し間を空けたいところだ。

「そう」

 紗貴は牧の手を引いて右に足を踏み出す。

 牧も足に勢いを付けてその隣に並んだ。紗貴のスカートが視界に入らない代わりに彼女の体温が直ぐ側に感じられる。

 後ろからなら紗貴の着飾った姿が見れて良かったのにとも思うけれど、手を繋いで女子の後ろに付いて行くのは男子として格好が付かない。

 長い廊下を過ぎて暗い展示室の入り口が見えた。けれどその中へ踏み込む前に紗貴は足を止める。

 入り口横に並んだ主催者の挨拶、それから今回展示品の多くを貸し出したエジプトの博物館館長の挨拶を、紗貴は丁寧に目でなぞっていく。

「紗貴ってこういうの読み飛ばさないよね」

「ちゃんと理解して観た方が楽しいじゃない」

 理系らしい発言をする紗貴が文章を読み込むのを牧は黙って待った。

 紗貴と違って牧はこういう解説文は実物を観て気になった時だけ目を向ける。

 そっと紗貴の手から牧の手が解かれる。文章を読む間に自然と力が抜けたのか、それとも先に行ってもいいと離してくれたのか。

 彼女の意図は計りかねたけれど、牧は紗貴が動くまで隣で待ち続ける。

 手持ち無沙汰になった端目はしめには廊下の曲がり角が入っていて、サングラスを掛けた誰かさんがこちらを見て慌てて引き返して隠れたのなんて気付かなかった事にしておく。曲がり角の向こうでのほほんとした姉の声が行っちゃえばいいのに、とか、堂々とした方が気付かれないんだよ、とか言ってる声も聞こえていないと自分に言い聞かせた。

「こんな無駄に疲れなくていい幸せなデートがしたい」

「え? 牧ってば、私が一緒にいるのに幸せじゃないとでも言うの?」

 牧の呟きを耳聡く拾った紗貴が意地悪く丸っこい目を細めて見上げてきた。

 それだけでも可愛いなと思ってしまうから、牧は負けなのだ。

「いえ、とっても幸せで嬉しく思ってます」

「よろしい」

 ちなみに、幸せじゃないと言ったら最後、紗貴はその場で尾行している二人と合流する気満々だった。

 対応を間違えると取り返しが付かない相手であるのは、牧だって一年前に大いに思い知らされている。

 ともあれ、二人はやっと展示室内へ足を運んだ。照明は薄暗く、展示ケースの中へとスポットライトが当てられて展示品へと人の注目を集めている。

 古代エジプトのピラミッドを始めとする遺跡から発掘された品物が並ぶ。手始めに陳列されているのは当時の人々が使っていた生活用品だった。

 木製のカヌーに似た舟と櫨、ミイラに使用される包帯、パピルスの紙に、神と崇められた動物や虫を象った装飾品の数々。

 宝石類は三千年の時を越えて今なお輝き、黄金も光を放っている。

 紗貴は周囲の人よりも時間を掛けて一点ずつ足を止めて見入っている。時には次の展示品を観てから関連する前の物へとまた足を戻したりもした。

「先に行っててもいいからね?」

 翡翠で出来た子供を抱く女神の像を腰を屈めて観ながら、紗貴は牧を気遣う。

「平気」

 見回りスタッフに目を付けられないように、牧は静かに言葉少なく返事をする。

 しかし紗貴と違って下ばかり見ていると疲れてしまうので、牧は首を回して凝りを解した。

 その仕草の途中で展示品には目もくれずにこっちを指差している不審者が視界に入った。

「あの二人、折角来たのに展示観る気はないのか?」

「こーら。デートなのに他の女の子気にするなんて浮気?」

 紗貴の一言で牧は黙らせられた。

 でもデートを覗き見する向こうが悪いという不満はある。

 そこで腰を伸ばした紗貴はついでとばかりに豆知識を一つ披露する。

「ところで、古代エジプト人って脳みそは鼻水作る器官だと思ってミイラ作る時に捨ててたらしいよ」

「心臓とか肺とかは壺で保管してたのに?」

「捨ててたらしいよ」

「ミイラって甦った人が使うために保存してた体なのに、脳なくてどうやって動かすんだろう……」

「甦っても脳がないから体動かせないとか、本人からしたら絶望しかないよね」

 正しい知識というのは大事だ。でもそれは現代医療でも言える事かもしれない。

 新薬はたくさん開発されて、人々はそれがどんな化合物なのか殆ど知らないで服用している。でも全てを知ろうとしても、牧はとても覚えきれないと早々に諦める。

「死んだ後、ね」

「スウェーデンには夫が死んだ後にその心臓をハンカチで包んでずっと取って置いたお妃様がいたんだって」

「……それ、腐らなかったの?」

「スウェーデン寒いしね」

 牧は思わず自分の心臓がある辺りを撫でた。掌を押し返す鼓動を確かめて仄かな安堵を得る。

「牧が死んだら心臓貰おっかな」

「え……」

「だめ?」

 紗貴が小動物のように小首を傾げて無垢な瞳で見上げて来る。

 そんな仕草で可愛いと思うから牧の負けなんだけれど、今回の申し出は不穏で不吉に過ぎて負けられそうにもない。

「えっと……死ぬまで保留で」

「まぁ、死んだら牧の意識ないから好きにしていいよね」

「そういうところで躊躇いのなさを見せないで」

「愛って怖いね」

「怖いのは紗貴の思考だから」

 牧に窘められて、くすくす笑う紗貴はさっきまでの話が本気なのか冗談なのかちっとも分からない。

 取りあえず、死ぬまで一緒にいるのが前提になっているその会話に、二人は少しも疑いを抱いていないのは確かだった。

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