吸言鬼ちゃん、お散歩する

 寝起きで髪の跳ねたすいはつい今し方、駒に握らされた金属製のプレートをじっと見詰めている。

「これ、お家の鍵ね。騅ちゃんの分。なくさないように」

「かぎ」

 騅のとろんとした視線が駒の顔へと移される。

 駒は眠そうな妹分に苦笑を零しながら小さな灰色のキーケースも続けて握り込ませる。

「はい、これは鍵を入れるのに使ってね。出掛ける時はちゃんと鍵締めるんだよ。じゃあ、ごめんだけどお姉ちゃんはもう出なきゃいけないから行ってくるね」

 まだしっかりと頭が働いていない騅は慌てて玄関から出て行く駒の姿をぼんやりと見送った。頭を掻くと、指に髪が絡まって引っ掛かる。

「んーーー」

 騅は駒に渡された鍵とケースを握ったまま腕を真上に上げて背を伸ばし、喉を長く鳴らす。

 そしてくにゃんと脱力してぱちぱちと瞬きをして、やっと眠気を追い払った。

「鍵だ」

 駒や牧が家の玄関を開ける為に使っているのを騅も見ている。

 出掛ける時に戸締りをして、帰って来た時に扉を開ける道具。

 誰かに付いていてもらわなくても、いつでも好きな時に外へと出れて、いつでも好きな時に帰って来れる、そんな権利をくれるもの。

 じわじわと、騅は心臓が融けて潤うような心地になっていく。

 そう思ったら。

 そう解ったら。

 騅は急いで身嗜みを整えて、玄関を開け放った。

 自分でその重たい扉を開けたのは初めてだった。

 ずっと外にいて、野晒しで生きて来て、ようやくこの家に迎え入れられて、ほんのついこの間まで外しか知らなかったのに。

 今日こうして玄関を開けて吸い込んだ空気は、見上げた雲の浮かぶ空は。

 とても澄み切っていて、自分の内側を浄化してくれているような気がした。

 騅がドアノブから手を離す。

 玄関の扉は自重で自然に閉まった。

 振り返り、ドアノブの上に備え付けられた丸い出っ張りに開いた鍵穴に、駒から渡された金属の板を差し込む。丸を右に回すとガチャリとデッドボルトが噛み合う音が重く響いた。

 鍵穴からプレート型の鍵を取り出す時に、騅の鼓動はとくとくと早鐘のように内側から叩いて来て、緊張で舌が上顎の裏に張り付いた。

 騅の手がドアノブを降ろして手前に引く。ガタリと鍵が掛かったドアは開けようとする不審者を非難した。

 それでも騅は何度も鍵がちゃんと掛かっているかまたかんだ。

 何度引っ張ってもドアは音を立てるばかりで開かない。その事実が騅に喜びを灯す。

 騅は鍵をケースに仕舞ってポケットに押し込んだ。

 マンションの廊下を駆けて、階段でステップを響かせて降りて行き、エントランスの自動ドアが開くのをじれったく思って、門から飛び出した。

 振り返ればさっきまで騅がいたマンションが静かに佇んでいる。

 自由だ。それも家族に認められた自由だ。

 騅の胸に芽吹いた誇らしさが双葉を揺らす。

 何処に行こう。目的なんてない。

 そうだ、と騅の脳裏に昨日食べた小説にあった言葉が閃いた。

 散歩だ。これは散歩なんだ。

 買い物でも、デートでも、働きに行くのでも授業に行くのでもない。

 何処に行くのも決まってなくて、ただ足綾あしあやと歩くのを楽しむ。

 それは散歩と言うのだと騅はもう知っている。

 さらり、さらりと騅の耳を誘うような音が届く。

 騅はその音を辿って外へと向き直り、見上げた。

 街路樹の梢を風が撫でて、風虫かざむしが鳴いている。

 こくりと騅は喉を鳴らして唾液を飲み込んだ。

 薄く唇が開く。

 そっと風虫の声を吸う。

 躊躇いながら口の中の空気に歯を立てて。

 つぷりと食んだ。

 こくん、と飲み込む。泣きたくなるくらいに美味しかった。

 風を父に、葉衣を母にして生まれる、姿のない風虫。

 花に誘われる蜜蜂のように、騅は足を踏み出した。

 なるべく我慢しながら。

 それでもどうしても堪えられずに。

 騅の歩く小道は、時折風の音が失われて、そしてそんな事に誰も気づけない程に速やかに風虫はまた生まれていった。

 食べる為に殺すのは、騅にとって酷く、それは酷く切ない生の実感を与え続ける。

 歩きながら騅は思う。今日の夜は何を作ろうか。

 どんな料理なら騅の家族は笑顔を見せてくれるだろうか。

 そう言えば小説にこんな一節もあった。

 食欲の秋、と。

 秋には美味しいものがたくさんあるのだと。

 書いてあった通りだと思いながら、騅は和かな風の中を歩く。

 時折に風は渦を巻いて落ち葉を逆巻き音を立てる。

 楢騒ならさいって鎮まり、終わったかと思えば不意に始まる。これぞ秋、と牧が言っていたのも納得だ。

 からからと。さらさらと。かさかさと。ざわざわと。

 楢騒も風虫も、天紗あめのうすぎぬを張った空が遠く乾いた空気に合奏を響かせる。

 もしその全てを騅が食べてしまえば、音は消えて滅び孤独が彼女を責めてくれるだろうか。

 そんな事は絶対にしたくなかった。

 牧や、駒や紗貴に一緒にここに居て欲しかった。一緒にこの切なくなるくらいに真統ますべしい景色の中に納まって幸せになって欲しい。

 そんな穏やかな幸せを奪ってしまいたくはない。心からそう思っているのに。

 美味しそうな気配に心奪われて、浅ましく口を開く自分が騅はとても嫌になって。

 今すぐに牧に会いたいと願った。

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