お隣さんとご挨拶

 駒のベッドで本来の持ち主がいなくなった後も寝こけていた騅は、時計の針が天辺に指しかかろうとした頃にやっと、もぞりと動き出した。

 ぼんやりとしたまなこで部屋に入って来る秋の日射しに見詰めて、くぅとお腹を鳴らした。

「おなかすいた」

 寝起き一番で昨日と同じ食欲を誰もいない部屋の中で訴える。

 しかし騅もそれが不毛だというのは分かっているようで、寝癖で髪の跳ねた格好のままで部屋の外へと出た。

「牧ー、おなかすいたー。ごーはーんー」

 目を擦りお腹を擦りながら廊下に出た騅は、玄関を開けて今まさに出て行こうとした体勢でいる牧を見付けた。

「えっ、牧、どこいくの!?」

「大学だよ」

 よりにもよってこんなタイミングで起きてきやがってと牧は嫌そうに溜め息を吐く。

 そして騅は牧の予想通り、一瞬で距離を詰めて背中から抱き着いて来た。

「待って! 大学ってなに? おなかすいた! 置いていかないで!」

「一個ずつ言えよ、返事しにくいっての」

 一息に捲し立てる騅の猛攻に牧はげんなりとする。出掛ける直前でなんだってこんな疲れさせられなきゃいけないのか。

「お前、こんな時間に起きて来てわがまま言うなよ。講義に遅刻しちまうっての」

 引き剥がすのが無理なのは昨日体験しているので、牧は説得を試みる。

 でも騅は不満で頬を含まらせて抗議の姿勢を見せた。

 ここで無駄に抵抗して怪力を発揮させると、また倒れて介護する手間が増えてしまうかもしれないと思うと、牧は強硬手段に出れなかった。

 それで牧が手をかけたまま開けっ放しになっていたドアがトントンとノックされる。

「ちょっと、牧、ドア開けた状態で止まってないでよ。通れないじゃない」

 ドアの向こうから聞こえてくるのは女性の声だった。

 騅は興味をそそられたらしく、牧の体を伝ってドアに隔てられた光景を覗き見る。

 そこには黒髪をボブカットにした女性がいて、騅の顔を見ると目を丸くした。

「あら?」

 彼女はドアを押して隙間を作ろうとするが、ドアが動かないように牧が力を込めてそれを阻む。

 彼女が両手をドアについて腰を入れて押しこもうとしても、牧が腕と肩を入れてドアを押さえるのでびくともしない。

 ずりりと彼女のスニーカーが床を擦って後退したところで、諦めて手を離した。

「おい、通せ」

 しかし諦めたのは力づくで突破することであって、彼女は低い声で牧を威した。

 牧がびくりと肩を跳ねさせて、そろそろとドアを後退させるのを見ながら、ちょっと駒に似てる感じだったと騅は思った。

 彼女はほんの少しの隙間をするりと潜り抜けて、ドアのこっち側に姿を見せた。

 そして牧の背中にくっ付いたままの騅を丸っこい目でまじまじと見る。

「ふーん。カノジョ?」

「ちげーよ!」

 牧が今までで一番語気を荒げて否定してる。

 騅は離れた方がいいのかなと思って、牧から手を離して腰の後ろで組んだ。

「昨日行き倒れてたのを拾ったんだよ」

「行き倒れ? そうなの?」

「え、あ、うん」

 彼女に視線を向けられて、騅はどぎまぎしながら頷いて見せた。

 何も疚しいことはないのだけど、騅はもじもじと口元を手で隠している。

 それと、牧は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。

「なんだか、赤の他人のはずなのに親近感の湧く顔してるねぇ」

 彼女は興味深そうに騅に顔を寄せた。

 横で眺める牧も、並んで見ると確かに面影が似てると思う。騅の方が、彼女を二つか三つ幼くしたような顔立ちだ。

「あっと、しまった。自己紹介もしないでごめんね。牧の幼馴染で今はお隣さんの武野たけの紗貴さきだよ。よろしくね」

 紗貴は愛想良く挨拶をして騅に手を差し出した。

 その掌と紗貴の顔を騅は交互に見詰める。

「紗貴……」

「うん、紗貴お姉ちゃんだよ」

 騅は紗貴には手を出さずに伺うように牧の顔を見上げた。

 そんな幼児みたいな騅の仕草に紗貴はくすくすと笑みを溢す。

「あなたのお名前は?」

「ん……騅。牧に付けてもらったの」

 騅ははにかみながら紗貴に名前を告げた。

「牧が、名前をつけた……」

 そして当然、紗貴は訝しげな視線を牧に向ける。

「あ、いや、そいつ……そう、記憶喪失だって言うから!」

「ちがうよ」

 牧が苦し紛れに出した言い訳は秒も挟まずに騅本人に否定された。

 牧は涼しい風に当て慣れながら冷や汗を額に浮かべる。

 紗貴を見ると丸っこい輪郭の顔ににっこりと笑みを張り付けている。

「牧、ちょっと大学行く前にお話ししよっか」

「いや、あの、講義が……」

「お昼家で済ませたら三限でも余裕で間に合うでしょ。教室まで歩いても十五分かかんないんだから。なんか作ってあげるから大人しくお縄につけ、このやろー」

 紗貴は牧に有無を言わせず、彼がドアから一歩も出れずにいた家の中へと引きずり込んだ。

 騅は二人の後ろ姿を呆然と眺めてから、少し悩みながらもドアを閉めて後を付いていった。

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