初めてのお泊まり
金曜の夕方、のんびりと本を読んでいた牧はいきなり
「紗貴の部屋にお泊まりしてきて」
「お前はいきなり何言ってんだよ、無理だって」
若い女性が一人暮らしの部屋に男が押し入るとか訴えられたら逮捕確実だし、紗貴と一晩一緒にいるとか想像するだけでも牧は緊張で心臓が破裂しそうになるし、今回ばかりは騅の暴走を何としても食い止めなくてはいけない。
「大丈夫、紗貴はいいって言ってくれてるから」
騅はスマートフォンの画面を牧に見せ付けた。
騅が『今晩、紗貴の部屋に牧をお泊まりさせて』と送ったメッセージに対して、紗貴からは兎がOKと文字を差し出しているスタンプで返している。
余りに紗貴の応対が軽過ぎる。もっと理由を問い詰めるとか倫理を説くとか拒否するとか、許可する前にやるべき事が幾らでもあるだろうと、牧は頭を抱える。
「という訳で牧に拒否権はないのです」
「俺の人権は無視か」
「問答無用」
騅は牧の説得をするつもりは全くないらしく、即座に実力行使に移った。
騅は細い腕でひょいと牧を米俵のように肩に担ぐ。
手足が宙に浮いた牧は踏ん張って体を固定する手段を封じられて軽々と運ばれてしまう。
「おい、待てって! 本当に待って!」
牧がじたばたと手足を暴れさせて叫ぶけども騅の軽い足取りは止まらない。
「牧がくれる美味しい
「恩を感じてるんだったら俺の訴えを聞き入れろよ!」
恩を感じているからこそ、牧と紗貴の仲を強引にでも進めて上げようと決意している騅は牧の嘆きを一切無視する。
安登姉弟の住む部屋のドアを出て行ってたった四歩で紗貴の部屋のドアに辿り着き、チャイムを鳴らす。
『はい』
「紗貴ー、牧を連れてきたよー」
『あ、ほんとに来たんだ。今開けるね』
インターホン越しに聞こえる紗貴の声がまるで友達を泊めるような軽い調子で、牧は騅の肩の上で男としての威厳を大いに傷付けられる。意気消沈してもう抵抗する元気も失くしている。
紗貴の部屋のドアが開き。
紗貴は騅の小さな体に担がれた牧の大きな体に対して丸っこい目を見開いて。
「あはははははは!」
そして牧のお尻に指を差してお腹を抱えて笑い出した。
この笑い声の一粒一粒が牧の背中に重たい屈辱となって圧し掛かる。
騅が牧の顔に振り返った。
「笑われちゃったね」
「……どこのどいつのせいだと思ってやがる」
打ちひしがれて暗い声を何とか絞り出す牧を、騅は玄関先に降ろした。
「じゃ、後はごゆっくり」
騅が自分の住まいに帰って行った。
絶望に項垂れていた牧は、ハッと気付き、靴を履いていない足で駆け出した。
残念ながら騅はもう部屋のドアを閉めていて牧がドアノブを回しても鍵が掛けられていて不快な音ばかりを立てる。
いきなり騅に担がれたせいで、牧は家の鍵どころかスマホすら持っていなかった。
「おい、騅! 開けろ! 開けろよ!」
ドンドンと牧はドアに拳を打ち付けるが中から反応は全くない。
これ以上は近所に白い目で見られると思って牧は手を止めてドアに額を付ける。ひんやりとした金属製のドアがとても無慈悲に思えた。
「牧ー。かわいそうだから今日はうちに泊めてあげるよー」
そんな牧を見守っていた紗貴がひょいひょいと手招きをする。
牧は力なく光を失った眼差しを紗貴に向けた。
「なんで紗貴はこんな横暴を許してるの?」
「そう? なんかバカバカしくて楽しいじゃない。今しか出来ないし、騅ちゃんがいなかったら出来ないでしょ、こんなの」
紗貴は牧と違ってこのハプニングを楽しんでいた。
紗貴は両腕を牧に向かって広げて迎え入れる。
「ほら、こっちに来るのもずいぶん久しぶりだし、お泊まりなんて初めてじゃない。実家だったらいつも来てたんだから、おいでよ」
家を閉め出されて友人との連絡手段もない牧に、紗貴の誘いを断って行く宛なんて一つもなかった。
ボロボロの心情で牧は紗貴の部屋に入りそして玄関を上がるのを躊躇った。
「紗貴、靴下汚れちゃったから……その……」
親に怒られるのを怖がる少年のように牧はおどおどと紗貴の顔を覗う。
小さい事でも気遣ってしまう牧に紗貴はまた噴き出してしまった。
「別に気にしないけど、脱ぐんだったら洗ってあげるよ?」
今更牧のものを洗濯するのに気後れする程、紗貴の幼馴染としての経験は浅くない。パンツだろうがなんだろうが洗濯機に放り込むだけだ。
牧は顔をくしゃりと歪めた後に、靴下を脱いで裸足で玄関を上がった。
牧が握り締める靴下を紗貴はサッと奪った。
「あ」
「はいはい、気にしすぎ。もうこれだから童貞は」
「はぁ!?」
若い女性にあるまじき言葉を紗貴が言うから、牧は顔を真っ赤にして憤慨する。
けれど紗貴から冷たい流し目と共に続けられた台詞に黙らされた。
「ちなみに牧が童貞でないなら私はキレるけど」
思いも寄らないタイミングで紗貴が独占欲を見せたのが、牧は喜べばいいのか不満に思えばいいのか分からなくて、思考が一瞬で渋滞を引き起こした。
その隙に紗貴は風呂場の方へと姿を消して牧の靴下を洗濯機に放り込んで戻って来た。
「ほら、何時までも突っ立ってないで、座りなさいよ。邪魔よ」
紗貴にけしかけられて、牧はリビングに入ってラグの上に腰を下ろした。
同じマンションの隣同士だから牧の住む部屋と紗貴の部屋の間取りは全く同じだ。
それでも置いてある家具やカーテンや敷物が違うと雰囲気が随分と様変わりする。
紗貴はソファも椅子も置いてなくて敷物を引いた床に直接座る生活をしているらしい。
「ちなみにそこの籠に洗い立ての下着も入ってるけど盗まないでよ」
部屋を見回していた牧の
そんな牧をくすくすと笑いながら紅茶を淹れた紗貴がキッチンからやって来る。
「からかって楽しんでるだろ」
「バレた? だって牧が挙動不審でおかしいんだもの」
紗貴は悪びれもしないでテーブルに紅茶を置く。
それとトレイの上にはスコーンも乗っていて、それも二人の真ん中に置かれた。
牧はじっとスコーンを見詰めている。
「さっき焼いたの。まだちょっとあったかいよ」
「……いただきます」
牧は紗貴に促されてスコーンに手を伸ばした。
柔らかくて硬い独特の食感があるスコーンに牧が齧り付くのを紗貴は目を細めて見ている。
「おいしい」
「ジャムを付けてもおいしいよ」
「うん」
牧は言われるままにスコーンの横に添えられたカップから紫に透けるジャムをスコーンに乗せて口に運んだ。
深みのある酸味の後に微かに甘さが香るジャムは、しっとりとしたスコーンの味に確かに良く合っていた。
「葡萄のジャム、レーズンも入ってる。先週作ったの」
牧の歯が丁度レーズンを噛み潰して濃縮された香りが口の中に融けた。
「やっぱ、料理上手だね」
「そうね。誰かにこうやって食べてもらえるのが好きだから」
紗貴が好きだと言ったのは行為に対してあるのに、それは自分に向けられて言われた訳でもないのに、牧は恥ずかしくなって紅茶のカップで口許を隠す。
けれどその赤くなった耳が牧の気持ちをはっきり見せているのを紗貴は黙って見詰めて心の中でだけ微笑んだ。
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