夕餉の支度
そんな色付いた光の中で牧は本を読み、紗貴は課題のプリントにシャープペンを走らせていた。
「ところで牧、今晩食べたいものある?」
かちりとシャープペンの先をプリントに押し付けて芯を仕舞った紗貴はもう課題を終えたみたいだった。
その音に
「……オムライスとか?」
「はぁ」
牧が出したメニューを聞いて紗貴はわざと牧に聞こえるように溜め息を吐いた。
「え、なに、ダメなのか?」
「あのね、牧。オムライス作るのにはご飯が必要でしょ。しかも炊き立てじゃなくて置いたやつが。これだから家事をしない男ってやつは」
紗貴に容赦なく駄目出しをされて、牧はうっと喉を詰まらせる。
実家でも紗貴がオムライスを作ってくれるのは炊飯器に白米が残っていた時だったけれど、もう半年以上出来合いの食事ばかりだった牧はそんな事もすっかり忘れてしまっていた。
でも紗貴の作るオムライスは美味しいから、牧はそれが食べられないと知って思っていた以上に落ち込んでしまう。
「他には?」
「他……待って」
プリントを片付ける紗貴を前にして、そんな必要もないのに牧は焦って食べたいものを考える。
しかし紗貴が立ち上がって自室に引っ込み、プリントを手離してリビングに戻ってきてもまだ牧はメニューを決められない。
紗貴はリビングを素通りしてキッチンに入り、冷蔵庫を開けて食材を確かめていた。
「あ、えと、ハンバーグ」
牧の思考から転がり出て来たのは、オムライスと同じ洋食の定番メニューだった。どうしても食べたい訳ではないけれど、それ以外思い浮かばなかった。
「ん? ハンバーグ食べたいの?」
キッチンの方から紗貴の声が確認を取ってくる。
これで他に思い付かなかったなんて言うのも後が怖いから、牧は自分が食べたいのはハンバーグなんだと自己暗示を掛ける。
「うん、ハンバーグ、食べたい。出来る?」
さっきみたいに材料がないと言われるのが嫌で牧はお伺いを立てる。
「ん、挽肉は冷凍してあるし、だいじょうぶ。じゃ、ハンバーグね」
ガサゴソと紗貴が冷蔵庫を漁る音がリビングにまで届く。
牧は一人リビングで出来上がりを待っているのも悪い気がしてキッチンの入り口に足を差し込んだ。
冷蔵庫から人参を手に持った紗貴が牧に振り返る。
「付け合わせにニンジンをグラッセにしてあげようか?」
牧は甘くした人参が昔から好きだった。ファミレスとかでデザートじゃないのに甘く堂々とハンバーグと同じ鉄板に乗っている人参が、何だか豪華で特別なものに思えたから。
「いいの?」
「それくらいの手間はかけてあげるわよ」
ほんのりと目を輝かせる牧に紗貴は苦笑する。何時までも子供っぽいところは割と好きだったりする。
調理器具と食材をサイドテーブルに並べていく紗貴の背中に牧は声を掛けた。
「何か手伝うことある?」
「普段料理しないやつとか邪魔。私の側にいたいならそこで見てなさい」
折角紗貴といるのに一人で過ごすのが嫌だと言う牧の心情は見透かされていた。
リビングに戻れと言われなかっただけありがたいと思う事にして牧は壁に肩を預けた。
「エプロンしないんだ」
「実家でもしてなかったでしょ。なに言ってんの」
紗貴に言われて確かにそうだったと牧はたった半年前の日常を思い返す。
両親が頻繁に家を空ける
それから高校を卒業するまで制服から普段着に着替えた紗貴が安登家にやって来て夕食を食べさせてくれた。安登家の冷蔵庫は何時しか母親が買って来た食材よりも紗貴が買って来たものが多くなっていたのも、もう懐かしく思える。
「こっちでも作ってあげるって言ったのに、変に遠慮しちゃって」
「それは、だって」
牧は言葉を濁す。紗貴にフラれたショックで受験の頃から大学入学して暫くまで、牧はどうにか距離を取った。大学で紗貴を見掛けて逃げないようになったのはゴールデンウイークを過ぎた頃だったろうか。
「ま、いいんだけどさ」
紗貴が玉葱を微塵切りにしてオリーブオイルを引いたフライパンで炒める。その傍らで冷凍の挽肉は電子レンジで解凍される。その動きが一度の停滞もなく、また作業が絡まる事もなく、流れるように進行している。
紗貴はけして速く動いているのではないのに見る見る内に具材は形を変えて美味しそうな匂いがキッチンに満ちていく。
「騅ちゃんの料理はどう? 美味しい?」
「うん。やっぱり、紗貴の作る料理と味が似てる」
「じゃあ、牧にとっては嬉しいね」
紗貴から不意打ちを喰らって、牧はグッと喉を痙攣させる。何か飲んでいたら噴き出していただろう。
人参を乱切りにしていた紗貴が丸っこい目で牧を振り返る。
「人は昔から食べ慣れた味を一番好むんだって、という話なんだけど」
誰も好きな相手の料理だから嬉しいなんて言ってないけど、と紗貴は言外に牧を窘める。
それで一層牧は立場がなくなって手の甲を口に当てて顔を隠そうとする。
「まぁ、でも、牧は上手くすると一生好きな味の料理を食べられるんだね」
紗貴は手元に視線を戻してからそんな事を言った。
無条件ではないんだぞ、と釘を刺すのが紗貴らしいところだと牧は思った。
それでも牧はその台詞を聞き流して、黙ったまま包丁を鳴らす紗貴を眺めるしか出来ない。
「そういや、
少しあからさまかもしれないけれど、牧は話題を変える事にした。実際、実家に残る弟への心配は尽きない。
安登家の両親は相変わらず仕事に飛び回っていて、今は実家のキッチンの主だった紗貴もいなくなっている。
「轅はほぼうちで生活してるってさ。おばさんかおじさんが帰って来た時だけ安登家を使ってるらしいよ」
「うちの実家、もはやセカンドハウス扱いだな」
でも中学生が一人で寂しく暮らすよりは武野家でご厄介になっている方が断然安心出来る。
牧は自分の両親に物申したくもなるが、実家に弟だけ残して家を出たのは自分も同じだとすぐに気付き、自己嫌悪で眉の間に皺を作る。
「正直、轅に関しては早くこっちに来たいって言うのも納得よ」
「そうだな」
紗貴が粗熱の取れた玉葱と挽肉をボウルで混ぜて調味料を幾つか振ってから捏ね始める。
ガスコンロでは人参が砂糖水に浸かって茹でられていた。
「たまには連絡してあげたら?」
「今、そう思った」
思い返せば、騅を拾ってから日常がバタバタしていて、牧はすっかり弟との連絡を忘れていた。それと同時に期間が空いた分だけ弟の闇が深まっていそうで背中に悪寒が走る。
「なるべく早く電話しよう」
「あとでケータイ貸してあげよっか?」
「お願い」
思い立ったが吉日だ。先延ばしにすればする程チャージが溜まって攻撃の威力を高めるゲームのボスが轅の代わりに牧の脳裏に浮かんでいる。
紗貴がハンバーグのタネを手に取って丸く成形する。俵型にしたそれを両の掌で往復させて空気抜きしているところにチャイムが鳴る。
「牧、出てくれる? たぶん駒さんだから」
「姉ちゃん?」
姉が来たと聞いて牧は浮足立って玄関に向かった。駒なら頼み込めば家に入れてくれるかもしれない。
夕食は折角紗貴が作ってくれたからご馳走になるとしても、朝まで一緒にいるのは回避したいと牧は勢い良くドアを開けた。
「やっほー。牧くん、お着替え持って来たよー」
開口一番、駒は明るく手に持った手提げバッグを牧に押し付けた。
外は何時しかとっぷりと暮れてマンションの廊下は真白いLEDが真昼のような明るさで住民の安全を担保している。
「姉ちゃん、俺、家に帰りたいんだ!」
此処で姉に押し切られてはいけない。牧は必死の思いで駒を味方にしようと訴える。
優しい姉はにこにこと笑って牧の前に立っていた。
「ざんねん。今回お姉ちゃんもグルなのでしたー。一晩を共にした報告、楽しみにしてるよっ」
駒は明るく楽しそうに、そして残酷に牧のお願いを退ける。
姉に裏切られて、牧の唇の端が引き攣った。
「姉ちゃん! 間違いがあったらどうするんだよ!」
「むしろ間違いがあった方が事態が進むとお姉ちゃんは思ってます」
駒がグッと親指を立てて牧を激励した。
「そもそもそんなことを言ってるヘタレは間違いを犯せないで悶々とするだけだと思うけど」
部屋の奥から紗貴の野次まで飛んで来た。
牧の頭の中で騅がガッツポーズを取って頑張れだなんて言ってくる。
「あと、はい。ランニング用の靴も持って来たよ」
駒はトン、と玄関に牧のシューズを置いた。これで一応外に出るのは可能になったけれど、落ち葉を浚う冷たい風の中で一夜を過ごすのは牧でも無理だ。
「じゃ、紗貴ちゃん、牧くんのことよろしくねー」
「はーい。駒さん、ありがとうございます」
「牧くん、ばいばーい」
牧の訴えは一切聞き入れて貰えず、駒は無情に思える程の軽やかさでドアを閉めた。
牧の腕が虚しく駒のいた外へと向かって伸ばされて、けれどドアにも届いていなかった。
呆然とする牧の耳に、ふっ、と
「ひぅっ!?」
「なに、女の子みたいなかわいい声出してるのよ」
細息を吹き掛けた張本人である紗貴が悪戯っぽく笑っている。
何時の間に玄関まで来ていたのか、牧は全く気付いていなかった。
牧は耳を押さえて紗貴から少しでも距離を取ろうと背中を仰け反らせる。
「ほら、いい加減味方がいないんだから観念して私と楽しい一夜を過ごしなさい」
妖艶に微笑む紗貴がまるで悪魔のように見えて、牧は今すぐ家に逃げて引き籠りたくなった。
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