安眠

 紗貴の手作りハンバーグはとても美味しかった。そして人参のグラッセは今まで食べたどんな店の物よりも絶品で、夢中で食べる牧の皿に紗貴が自分の分を足してくれた。

「で、牧はお風呂先に入るのと後に入るのどっちがいい?」

 食後でのんびりテレビを見て寛いでいた牧にまた重大な選択が突き付けられた。

 先に入ると牧が浸かった湯船に紗貴が入る事になり、後に入ると紗貴が浸かった湯船に牧が入る事になる。

 気にしなければいいのに、牧は想像を勝手に膨らませて火食ほばむ顔を俯ける。

「いや、意識しすぎだっての。実家で散々同じお風呂使ってたでしょうが」

「あっちだと紗貴だけじゃなくて姉ちゃんとか大勢だったじゃんか」

「それ、人数増えるとなんか薄まるの? むしろいろいろ混ざって濃くなりそうだけど」

 色々ってなんだ。理系の紗貴に聞いたらあれこれと体から出て来る物質やら細菌やらを羅列されそうで牧は反論を留める。

「全くもうぐだぐだいつまでもいらないことばっかり気にして、情けないっての。私は洗濯だってしなきゃなんないんだからさっさと決めてよね」

 紗貴が母親みたいに口煩いのは実家の頃から変わっていない。昔もアニメを見ていた男性陣が纏めて風呂場に追い立てられていた。

 なんて過去を振り返って現実逃避をしていた牧に紗貴は数秒で業を煮やした。

「いつまでも悩んでるんだったら私が先に入るけど、お湯になにが入ってても文句言わないでよね」

「なにがって、なに?」

「さぁ? 体液っていろいろあるからね」

「俺が先に入る!」

 牧は紗貴の脅しに屈して着替えを引っ掴んで風呂場へと走っていった。

 腕を組んで仁王立ちしていた紗貴はやれやれと首を振る。

「後から入ってシャワーだけで湯船使わなければいいだけなのにね。いつまでもそういうところ抜けた牧でいてね」

 まんまと牧を罠に嵌めた紗貴は悪女の微笑を浮かべていた。

 こうやって掌で転がすのが簡単な牧だから相手をしていると愉快で仕方ない。

 ただ、それなのに一番望んでいる言葉をちっともくれないのは不満だ。牧から受けたストレスは牧で発散しないといけない。

 寝室をちらりと見た紗貴はもう一悶着あるのをお浚いしておく。

 牧がその問題を知ったのは、二人が順番にお風呂を済ませてそろそろ寝ようかという時だった。

「俺は床で寝る!」

「バカ言ってんじゃないの。他に布団ないって言ってんでしょ。早く入ってきなさいってば」

 ベッドに寝転がった紗貴は掛け布団を持ち上げて牧を招いているのに、牧は頑なにそれを拒んで寝室の扉まで後退していた。

 紗貴の部屋に来客用の布団なんてなかった。暖房はエアコンとファンヒーターだけで炬燵もない。一枚だけの毛布はベッドに掛けられて紗貴の体に被さっている。

「実家ではよく一緒に寝てたでしょ」

「布団は別だった!」

「ベッド大きいから、距離取れば一緒よ。隙間空けられるから。こうしてるのも寒いんだから早く来なさいよ」

 布団を持ち上げて出来た穴から入って来る冷気で折角お風呂に入って温まった紗貴の体が冷やされる。それがなくても何時までも重い冬用の布団を持ち上げていて紗貴は腕が疲れてきた。

「私がこのまま風邪引いたら牧のせいだし、牧が風邪引いたら駒さんとすいちゃんが騒ぐわよ」

「うぐ」

 どっちも簡単に想像が出来て牧は追い詰められる。論理で攻められたら紗貴にはとても勝てないのだ。

 確かに紗貴のベッドは牧が入ってもまだ余裕がある大きさだ。

 牧は観念してベッドに近付いていく。

「もっと奥に行って」

「はいはい」

 紗貴はずりずりと布団の中で体を動かして壁際まで下がった。

 紗貴の手が掛け布団から離れて垂れ下がったのを牧は捲り大きな体を滑り込ませる。

 二人の間には五十センチメートル程の頼りない隙間が生まれる。

「牧、あんまり下がるとベッドから落ちるよ」

 もっと距離を取ろうとした牧を紗貴が先手を打って制した。

 牧は後退するのを諦めた代わりにせめてもの抵抗として身を縮こませる。

 紗貴が布団から手を伸ばしてリモコンで部屋の明かりを消した。

 暗くなった中でも牧の目にはすぐ近くにある紗貴の顔が良く見えてしまう。

「なんでこんなにベッドデカいんだ?」

 どう見ても一人用ではないベッドの大きさに牧は不審がる。

「牧と一緒に寝れるように」

 そして紗貴はさらりと答えた。

「なっ!?」

 たった一言の情報量に牧の脳が一瞬で茹だって目が回った。

「ってうちの両親が勝手に買った」

「……年頃の娘を持った親としてどうなんだ、それ」

 紗貴の意向ではないと知って牧は胸を撫で下ろした。

 武野家の両親は何かと紗貴と牧をセットにしたがる。

 実は東京で暮らすにあたって駒を含めて三人で一つの部屋に住む案もあれば、隣り合う部屋を二つ借りて駒が一人暮らしで紗貴と牧が二人暮らしをする案もあった。

 後者の方は駒も乗り気であった為に、牧の抵抗も最後まで気を抜けずぎりぎりで今の環境を勝ち取っている。

「そんな牧も今は赤の他人の女の子と同居してるわけですが」

 少し責めるような、もしくは拗ねるような紗貴の声が暗闇に響乃ゆらのと溶ける。

「あれは人間じゃないからノーカンにしてくれ」

「しかたないなぁ」

 牧が困ったように言い訳するので、紗貴は楽しそうに笑いを溢した。

「でも騅ちゃんは少し娘っぽさあるよね」

「どっちかっていうと口の利けるペットかな」

「女の子をペット扱いとか、えっち」

「なんでだよ!?」

 下らない言い合いが楽しい。

 お互いの体温が布団の中で混ざり合ってその温もりに安心する。

 牧を貸してくれた騅に対して紗貴はとても感謝していた。少し遠ざかってしまった牧が今日は凄く近くにいて懐かしくて、幸せで泣きそうにもなるし、表情筋が緩みっぱなしにもなる。

 手を伸ばせば届いてしまう体には触れないようにだけ自分を戒める。

 牧に強くなってほしいと望むなら、自分も針鼓はりこの痛みを我慢しないといけないと紗貴はいつだって自分に言い聞かせている。

 牧の声がゆるゆると萎んでいく。眠くなってるのが良く分かる。

 このタイミングで牧の頭を撫でてあげると牧はそれは気持ち良さそうに安堵した顔で眠りに落ちるのだ。

 それを知っていても紗貴は伸ばさないように自分の手を胸元でぎゅっと抱き締めていた。

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