落し所

 牧はいつもの習慣で日が出る前の暗い中で目を覚ました。

 空気が冷え込んでいるからか、紗貴は頭まで掛け布団に潜っていて牧からは布団の膨らみしか見えない。

 それでも布団の中に満たされるいつも以上の温もりに落ち着かなくなる。

 牧は紗貴を起こさないようにそっとベッドから出る。顔を洗って歯を磨いた後に、リビングで駒が昨晩持って来てくれた服に着替える。

 ランニングシューズを履き部屋のスペアキーを拝借して外へ出た。

 ゆきむ空気が牧の肺を冷やす。もう冬がすぐそこまで来ているのだと実感する。

 紗貴の部屋に鍵を掛けた牧は五歩隣の自宅のドアノブを倒して引いた。

 駄目元ではあったけれど、やはり鍵は掛かったままで牧は帰宅を拒まれた。

 女性二人が寝ている間に部屋の鍵が開いているなんて危ないからと牧は自分を宥めてマンションを発った。

 気持ちを落ち着かせるにはいつも通りに過ごすに限る。特に運動は気分転換に効果があると科学的にも証明されているのだから。

 牧は白い息を吐いてどんどんと加速していく。薄っすらと湿り気が凍りそうな空気はもしかしたら霧なのかもしれない。

 牧が息を吐くと空気は融けて、吸う時にはまた凍りかけて入って来る。徐々に火食ほばんでくる体にはその冷たさが心地好かった。

 牧が坂を登る頃にやっと太陽は細い光線を投げ掛けてきた。黎明の薄明りに牧の長い影が伸びる。

 ちらほらとランニングしている人や犬の散歩をする人が出て来た。

 中には冬用の内側が起毛になっているパーカーを着込んでいる人もいる。あと数日で十一月に入る。八王子は東京だなんて思えないくらいに冬が冷えると先輩から教えられた。

 この辺りは山が近いから尚更だ。

 牧も冬に走る為の防寒着をしっかり考えないといけないなと思いつつ足を動かす。

 普通の防寒着では走っている内に暑くなり過ぎるし、かと言って薄いものでは汗が冷えて風邪を引く。

 そう言えば、すいはこないだこの早朝ランニングに付いて来たけれど、また気紛れで早起きする事もあるんだろうか。人間じゃないけど風邪とか注意した方がいいのか。

 帰ったら聞いてみようと牧は心に留める。勿論その前に今回やってくれた事に対して反省をさせてからだけど。

 秋の太陽は遠い。その光は白が砕けて黄味が勝っている。

 牧は丘の頂上でその色に光景ひかりかげている街を見下ろした。

 まるで暖炉に当たっているような街のこの景色が牧は好きだった。

 夜の色の無い街とも、昼間の自分の色合いを表している街とも、違う。

 太陽の黄金に色付いた街だ。

 穏やかな暖かさを感じさせる色味の街は、けれど息が白くなる程に冷える。

 目に映る街と肌に触れる街と、同じなのに全く違うものとして牧に接してくる。

 そんな朝だけしか体感出来ない幻想的な街の中を駆け抜けて牧はマンションに戻る。

 牧はもう一度自分の家のドアに手を掛けた。ガチっとデッドボルトが牧を拒絶した。二人共まだ寝ているようだ。

 牧は疲れ切った溜息を吐き出した。太陽に十分暖められた空気はもう息を白く凍らせなかった。

 紗貴の部屋のドアをスペアキーで開けて入る。

 中から人の動く気配と音と温もりが牧の肌に触れる。

「お帰り」

 キッチンの方から紗貴の声が届いた。トマトケチャップが炒められた香ばしい匂いが牧の鼻をくすぐる。

「ただいま」

「ん。手洗ってきて。もうすぐ朝ごはんできるから」

 紗貴はコンロの前に立って牧に背を向けたまま言った。

 朝のランニングから帰ってきて丁度良く朝食が仕度されているなんて、最近の安登家でもなかなかない。騅は朝に弱くて、朝食は前の晩の残りとかコーンフレークとかで済ませる方が多いのだ。

 牧はじんわりとした喜びに胸を締め付けられつつ、言われた通り洗面所で手を洗った。

「ほいよ」

 そして紗貴がテーブルに出してくれたのは湯気の立つオムライスだった。牛乳のコップとスプーンが一緒に並べられる。ケチャップもテーブルに出されて自由に自分でかけるスタイルだ。

「紗貴、オムライス……」

 呆気に取られてオムライスを見詰めていた牧が数秒経ってから紗貴に顔を上げた。

「食べたかったんでしょ?」

 紗貴が牧と向い合せに座って手を合わせた。

「米がないって、昨日」

「だから昨日多めにお米炊いたのよ。主婦は献立考えて行動するの、大変なのよ」

 戸惑う牧に紗貴は呆れっ放しだ。スプーンを手に取ってびしりと牧に突き付ける。

「ほら、これ食べさせる為に朝に牧が帰らないように閉め出してもらったんだから。お食べ」

 家の鍵が閉められていたのは、単純に起きていなかっただけではなかったらしい。

 牧はまだ呆然としながらも手を合わせる。

「いただきます」

「はい、どうぞ」

 牧はふわりとした卵にケチャップで波線を描く。

 スプーンで卵を破って中身ごと口に運んだ。いつものオムライスより遥かに香ばしくて肉の旨味が口に広がる。

「美味しい。いつもとなんか違う」

「そう。昨日のハンバーグのタネを炒めてミートソース風にしてご飯と絡めてたの。こういうのもいいでしょ?」

 牧は一生懸命に首を振って頷く。

 調味料が強くて辛味が感じるくらいのライスをふんわりと微かに甘い卵が優しく包んで舌を安らげてくれる。それで挽肉の旨味がやってくると尚更美味しく思えた。

 牧は夢中でスプーンを往復させる。

「そんなに急いで食べないの。ほんと、子供みたい」

 揶揄い混じりの紗貴の声は、それでも和やかに柔らかかった。

「今度からたまに泊まりに来れば? オムライスくらいいろんなの作ってあげるよ」

 うぐ、と牧はスプーンを咥えたまま動きを止めた。

 紗貴のオムライスは記憶を思い出したよりももっと美味しかった。牧の食欲はまたこれが食べられるならと提案を受け入れたがっている。

 でも牧の節度はやはり貞操観念に悖ると歯止めを掛ける。

 牧はゆっくりと口の中身を咀嚼して飲み込んだ。

「泊まるのはやっぱマズいと思う。……でも晩飯食いに来て寝るまで一緒にいるのは、いいのかも、しれない」

 それは誰に許しを得ているのか、牧も分かってはいない。自分の思いなのに人に言われているようにしないと、何かが崩れてしまいそうだった。

「なにそれ。このヘタレ」

 そして紗貴は容赦ない。言葉短くも牧を罵倒してくる。

「ま、それでもいいけどね」

 それでも紗貴は牧の意見を落し所としてくれた。

 牧が泊まってくれないのが物寂しそうな、残念そうな声色だったのは、きっと勘違いだと牧は思いたかった。

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