吸言鬼ちゃん、お掃除します
牧は大学、駒は仕事に行っていて誰もいない昼間に、
リビングや廊下は勿論、キッチンにお風呂場に窓やエアコンまですっかりぴかぴかだ。駒が買ったはいいものの、最後まで読まないで投げたし実戦もしなかったしと可哀想な目にあった家事の本を食べた成果だ。
駒のお手伝いを出来て、騅はご満悦だ。
騅も一緒に寝させて貰っている駒の部屋の掃除も終えて、最後に残った部屋の扉に騅は視線を向けた。
牧の部屋だ。騅は三秒程、主がいなくていたく静かな部屋の扉を眺める。
「んー、取りあえず、見るだけ見てみよっか」
牧が綺麗にしているんだったら、中に入らずに扉を閉めればいいんだし、と軽い気持ちで騅はドアノブに手を掛けた。
そして騅の視界に入って来たのは、脱ぎっぱなしの上着だったり駒が畳んであげた洗濯物が積み重なって出来たタワーだったり、丸めて転がっているルーズリーフだったり読み掛けでページが開いたまま机に伏せられた本だったりした。
「よし、牧が悪い」
騅は自分の行動に対する正当性と強い使命感を与えられて、ドアを開けっぱなしにしたまま牧の部屋へと足を踏み入れた。
まずは部屋の奥の窓を開ける。秋の
それだけで部屋の空気が清らかになった気分がして騅はまた楽しくなってきた。
騅はすんすんと鼻を鳴らす。放浪生活でよく食べた本の匂いは何処からも嗅ぎ取れない。
本棚をさらっと見る。数は多いけれど、教科書とR指定のないマンガと詩集やら歌詞の参考書、いろんな辞書や言葉の図鑑が多いのが特徴と言えば特徴的な、年頃の男子にしては健全過ぎるラインナップだ。二列重なった文庫本を数冊抜き取って奥を見ても、やっぱり普通の小説しか見当たらない。
「ふーん……参考になるものがないな。残念」
牧の趣味が分かれば紗貴との仲を取り持つのに役に立ったかもしれないのに、と騅は頬を含まらせる。
強いて言えばベッドに匂いが染み付いているくらいか。騅は手始めに牧の布団からシーツを剥がし洗濯機に放り込んで回した。今日は午後も天気が良くて空気も乾いていると予報で言っていたから今からでも日が陰る前に乾いてくれるだろう。
シーツを剥がした中身は先に物干し竿に広げる。
そうするとベッドの木枠が丸見えになるけれども、多少の埃とベッド下に収納された透明な衣装ケースしかない。匂いで分かっていたけど、面白味がない。
掃除機を掛けると埃が立ってしまうので、先に畳まれた洗濯物をぽっかりと隙間が空いた衣装ケースに当てはめる。面白いくらいにぴったりと嵌って、牧が洗って貰った服を仕舞わずに着回しているのが証明された。
駒が折角洗ってくれているのに姉不孝者め、と騅は心の中でデフォルメして想像した牧を叱っておいた。
そして騅はポンポン床に投げ捨てられたルーズリーフの玉を手に取った。さっきからこれが気になっていたのだ。美味しそうな匂いがしているんだもの。
騅が破らないように丸まったルーズリーフを広げると、シャープペンで殴り書きされた英文が姿を現した。
〈Zenithy, great mountains full my sight〉
目にした言葉に、騅はこくんと口の中に溢れた生唾を飲み込んだ。
一目見て分かる。未言だ。
Zenithy――まだ食べた事がないから、どんな意味でどんな味が広がるのか分からない。でも美味しい。絶対美味しい。食べなくても分かる。
騅はキョロキョロと周りを、そして部屋の外、廊下の先にあるリビングやリビングの向こうの玄関を確認する。誰もいなくて静まり返っている。
当たり前だけど、今、この家には騅一人しかいない。
それに騅が手に広げたルーズリーフだって、丸めて床に転がされてたものだ。もう要らない物に違いない。
食べても怒られないよね、と騅の中で言い訳が思い浮かぶ。
それに綺麗に食べたらどうせ牧にも思い出せなくなるんだし。
何枚も同じ匂いのルーズリーフが転がっているから、一枚くらいなら無くなってもきっと問題ないって信じたい。
我慢する程に騅の動悸は早まり息は荒くなる。
吐息は唾液に濡れて漏れた先にあるルーズリーフを湿らせる。
騅は牧の部屋を掃除してあげたんだから、ご褒美くらい貰ってもいいよね、と自分を正当化する。
だから騅は手に持ったルーズリーフを丁寧に畳んでポケットに忍び込ませた。
「お掃除完了の報酬、だから。うん、掃除終わったらこれはわたしのもの」
誰もそんな約束はしていないのだけれど、騅の中ではそういう事になった。
他の部屋だって手際よく掃除したというのに、それ以上にてきぱきと手早く床に置きっぱなし物を、ゴミはゴミ箱に突っ込み、そうじゃない物は仕舞う場所を目敏く見つけて綺麗に押し込んで、真っ平にした床を掃除機で吸った。
その間に洗濯機が呼び出してくるのが、タイミングが良かったのか悪かったのか騅も分からず、布団の中身を取り込んで入れ替えでシーツを干した。
その後に牧の部屋に戻った騅は全体を確認する。心なしか開け放した窓からの光が部屋のそこかしこで
文句の付けようもなく綺麗に様変わりした部屋に、騅はグッと拳を握った。
これなら美味しくご飯が食べられる。騅は達成感と期待を胸に満たして、掃除したばかりでツルツルの床にぺたんとお尻と降ろした。
「いただきまーす」
騅はポケットからさっき畳んだルーズリーフを取り出して両手で広げた。
その紙の端を唇で咥えて、ちゅっ、と音を立てて吸う。
その瞬間に騅は目を見開いた。
空に近くて、草木もなく地肌を晒している山の尾根に立っているような感覚に襲われた。
手を伸ばしても届かないくせにこちらを押し潰しそうな近さを魅せる空に、遠くの海に途切れて霞む端まで見通せる小さな大地。
こんなにも自分は小さいのに、でも見える景色の総てが心に納まってしまえるような全能感を抱いて、でもその大きさに胸が詰まって苦しくなる。
大きいのが自分なのか、小さいのが世界なのか、分からなくなってその勘違いを真理から責められる。
騅はその美味しさの衝動に耐え切れなくて、床にのたうち回って足をバタつかせて床を打ち鳴らす。
「ただいまー……ぁあ?」
そんなあられもない姿を、ガチャリと玄関を開けた牧に目撃された。
騅は恥ずかしくて素肌の見える首から上を真っ赤に染める。
「いろいろ言いたいことはあるけど……取りあえずその今食ってるのはなんだ」
手を離して勝手に閉まったドアをバックして立ち止ったままの牧が騅を詰問する。
騅は唾液の糸を引きながらもルーズリーフを口から離した。
「えと……牧の部屋を掃除してて、それで床に丸まってたルーズリーフを一枚ばかり」
「あー」
自覚があるのか、牧は
騅は反射的に怒られると思って瞼をぎゅっと閉じて身を竦ませた。
そんな騅に向けて溜め息を零れて来る。
「それ自体は書き損じだから確かに食ってもいいんだけどさ、食う前に食っていいもんかどうかは確認しろよ。部屋も入る前に声をかけてくれ」
牧の疲れた感じで降って来た声を聞いて、騅は恐る恐る瞼を持ち上げた。
「お、怒ってない?」
怯えた眼差しを向けてくる騅を、牧は鼻を鳴らして笑った。
「怒ってはいない。呆れてるし、次からは先に言ってほしい、どっちも」
「……ひゃい」
騅はくしゃくしゃになったルーズリーフで
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