吸言鬼ちゃん、お茶会をする
牧が出掛けて駒が仕事な日曜日、一人残された
食べ物に関しては小食な騅が色んな味を楽しめるようにと、小さなカップケーキ、プリン、ババロア、クッキー、蒸しパンが散りばめられたテーブルを挟み、紅茶を嗜みながら二人は会話を楽しんでいる。
「そう言えば、紗貴ってどんなことを勉強しているの?」
先日、紗貴が理工学部の住人であるのを知った騅だったが、理学や工学という範囲の広い分野で紗貴が何を専門としているのかはまだ聞いていなかった。
小さなスプーンでレーズン入りのババロアを掬っていた紗貴はちょうど運んでいた一匙を唇に差し込んで舌の上で蕩かしてから口を開く。
「まだ一年だから専攻が決まるのはこれからなんだけど、生命情報学専攻っていうのを目指しているの。いわゆるバイオテクノロジーってやつね」
「ばいおてくのろじー」
騅はまだその手の本を食べた事は無くて、きょとんと目を丸くする。どんな事をするのか全くイメージ出来ないでいるのだ。
そんな見た目の割に知識に疎い騅が可愛くて紗貴は口許が自然に緩んでしまう。
「バイオテクノロジーっていうのは生き物の持ってる機能を使って新しい技術を開発する分野のことね。私はそれで人を救いたいって思ってるの」
「人を救うの? 英雄?」
どちらかと言うと壮大な物語を好んで食べている騅は大仰な例えを出してくる。騅の中では強大な怪物に立ち向かって打ち倒すというのが人を救うという言葉に対するイメージなのだ。
そんな子供っぽい夢想を真剣に語る騅に紗貴はやんわりと首を振って訂正をする。
「たぶん、騅ちゃんのイメージしているのとは違うかな。病気の治療には薬を使うよね? その薬の成分は化学的に合成しているのも多いけど、実は人間が元々体の中って作っていたり他の生物を調べて発見されたりしたものがたくさんあるの。生き物の細胞って言うのは実は色んな薬を作る工場の役目を果たせるんだよ」
「うーん……むー?」
紗貴の難しい話をなんとか理解しようと騅はふらふら揺らしながら懸命に頭を働かせる。
紗貴は騅の混乱がある程度落ち着くのを待ってから話を続ける。
「私は治療のために必要な薬を生産する細胞を作ることや、その細胞を病気の人に移植して薬を飲む手間を省いたり飲み忘れを防いだりして、より確実に人の命を救えるようになりたいの」
分かるかな、と紗貴は少し頭を傾けて騅に問い掛けた。
騅は眉の間に皺を寄せている。
「なんかすごいのは分かる」
「ほんと? ありがとう」
理系の夢物語は専門知識がないと理解されがたいものだ。その技術確立の困難さや達成の功績の素晴らしさに共感を得られないのは、紗貴にとって珍しい話じゃない。
だからこそ、なんとなくても凄い事、人の役に立つ事、つまり紗貴が自分で言った人を救う事なのだと思って貰えるなら、それだけで十分だった。
「牧も人を救うために勉強してるの?」
「あやつはそこまで考えて大学には通ってないかな」
牧が文学部に通っているのは、文化の歴史や仕組みに興味があるからで、その興味の発端は彼が歌詞等の文芸作品を好んでいる事にある。
「でも牧は別にそれで生きていこうとか人に何かを与えようとか思ってないから。大学出たらそれとは関係なく普通に就職するつもりだしね」
別にそれが悪い事ではないけど、と紗貴は食べ掛けのババロアにスプーンを刺した。
モラトリアムというのもその時にしか得られない人生の楽しみであるから、紗貴は人がそうやって大学生活を過ごすのも構わないと思っている。単純に自分はやりたい事があってそこを目指して生きているだけだという考えだ。
「それに牧は今まさに騅ちゃんの命をその趣味で救ってる訳だし、実力も実績もない学生の私よりも素晴らしいかもね」
そう誇らしそうに微笑む紗貴の言う事は騅には難し過ぎた。
紗貴の想いが理解出来ないでいる自分に騅は戸惑い、むず痒くて、そわそわと心をくすぐられているような気分になる。
「ごめんごめん。もうちょっと面白い話しようか? 牧が小三でおねしょして泣いた話とかする?」
「それは牧が可哀想だから止めてあげて」
紗貴は笑えるのにと残念そうにするけれども、騅はきっと牧が知られたくない恥ずかしい出来事を勝手に聞くような性格じゃなかった。
「牧と紗貴はどれくらい昔から一緒にいるの?」
それよりも二人の繋がりの方が騅には興味があった。
どんなふうに二人が過ごしてきて今のような関係になっているのか、それを知りたかった。
「家が隣同士で、生まれた時からだよ。親同士も仲が良くてお互いの家に遊びに行ったり泊まったりなんてしょっちゅうだったし、子供達はいつも一塊になって遊んでたからね」
それは仲良くなる訳だと騅も納得した。幼馴染の年季が想像以上だ。
そう言えば、駒と紗貴も親しげにしているけれど、それも牧を通して生まれた関係じゃなくて元々二人の繋がりがあってそうなった関係なのだと思い至る。
「牧の家はお父さんもお母さんも忙しい人でね、それで駒さんが一番年長なんだけど子供の頃から本当に面倒見が良くて半分私達のお母さんみたいだったの。あ、でも、今もそうかな」
うんうんと騅は紗貴に頷く。駒は世話焼きで、騅みたいな道端に転がっていた不審者も暖かく迎え入れてくれた。
色んな物を買って貰って申し訳なさもいっぱいになるけれど、いつでも気に掛けて貰えるのは此処に居て良いんだって態度で示されているようで、心が安らぐ。その裏返しかかなり過保護なところがあるのが玉に瑕だけど。
「そんなだから弟達も姉離れ出来ないのか、こっちに来る算段つけてるみたい」
「弟? 牧だけじゃなくて他にもいるの?」
「ええ、家には今年大学受験の弟が、安登家には中二の子がいてね、どっちも東京の学校に進学してここに住むんだって意気込んでるの」
勉強のモチベーションが高くて成績が上がってるのはいいんだけどね、と紗貴は困り顔で頬に手を当てた。
でもその瞳には嬉しそうな光が宿っているのを騅は見逃さなかった。
「ふーん。みんなの弟ならいい子そう」
「いい子ではあるけどね。
弟達を思い返して遠い目をする紗貴の横顔になんとも言えない哀愁が漂う。
それを見て騅は会ってもいない二人が恐ろしくなってひぇ、と
「そう言えば、騅ちゃんが自分よりも先に駒さんや牧と住んでるって知ったら轅は発狂しそうね」
「こわいこといわないで!」
「お姉ちゃん命、お兄ちゃん命な子だから、刃物とか出して来そう」
「こわいこわいこわいこわい!」
「駒さんが上京したばっかりの時に、冗談で彼氏出来ちゃうかもねって言った時の轅の闇の深い目付きは今思い返しても背筋が冷えるのよね」
「なんでこわいって言ってるのに止めてくれないの!?」
会ってもいない安登家の末っ子に対して、騅はこれ以上なく命の危機を感じてガタガタと震え出す。
騅の脳裏には出会った時に駒が見せた恐ろしい表情が蘇っている。駒の弟なら同じ殺意を持っていても可笑しくはないという実感が、紗貴の話に現実味を補強して恐怖を煽ってくる。
「騅ちゃん」
「はい」
「強く生きて」
「見捨てないで!」
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