吸言鬼ちゃん、命の危機に怯える

 暗い家に帰ってきた牧は明かりが一つも点いていなくて不審に思った。

すい、まだ帰ってきてないのか?」

 今日は隣の紗貴のところに遊びに行くだけだと聞いていたのに、もう日がとっぷり暮れている。こんな時間まで入り浸っているだなんて迷惑だろうと思いながら、牧は玄関と廊下の明かりを点けて靴を脱ぐ。

 牧はリビングに入って部屋のスイッチに手を伸ばす前に、暗がりの中でもぞりと動く影を察知した。

「牧ー! 死にたくないよー!」

 それが何者なのか牧が認識するより前に、騅は泣き叫びながら牧の腰に飛びついて来た。

 あまりに悲痛な様子に牧は度肝を抜かれる。

「な、なんだ、どうした。最近はちゃんと食わせてたと思ってたんだけど、もしかして足りてなかったのか?」

 牧は騅の命の危機を感じて心配する。なんとか腕を伸ばして部屋の明かりを点けると涙でぐしゃぐしゃになった騅の顔がはっきりと見えるようになった。

「ううん、お腹は大丈夫。でもながえが、轅が……」

「轅? え、あいつ来たのか?」

 まだ教えた覚えのない弟の名前が騅の口から出て来たので、牧はてっきり連絡なしで弟が遊びにでも来たのかと考えた。

 でも騅はそれは違うと首を振る。

「違う、来てない……でも会ったらわたしは殺される……」

「……なるほど、紗貴になんか聞いたのか。人の弟を猟奇殺人犯みたいに言うなよ」

 なんとなく事態が飲み込めてきて、牧は一先ず喫緊の危機ではないなと胸を撫で下ろす。

 紗貴に何を吹き込まれたのか知らないが、人騒がせな事だ。

 牧は聞いた話だけでここまで怯える騅の思い込みの強さに呆れつつ、腰にしがみついて離れようとしない騅を引きずってソファに座ろうと動く。

 何とか騅を引っぺがしてソファに座った牧は出掛けた以上の疲れがどっと押し寄せてきて項垂れる。

「牧ぃ、まだ死にたくない……」

 ぐずぐすと鼻を啜りながら騅は牧の足に縋り付いた。

 物凄く憐れな姿だが、その恐怖が自分の弟に対して抱かれているという事実が牧をやるせない気持ちにさせる。

「だから、人の弟を殺人鬼にするなって。確かに強く警戒されそうだけど、殺される訳ないだろ……………………たぶん」

「たぶんって言った!?」

 騅が叫ぶが、仕方ないのだ。牧だって弟の重度の兄弟愛によって引き起こされた大小様々な事件に対処してきた記憶を思い返すと絶対の自信なんてなかった。

「いや、轅だっていいやつだから。いつも人を気遣うようなやつだし。……俺や姉ちゃんや紗貴が関わらなけば」

「わたし、その三人にがっつり関わってますが!?」

 牧もフォローがフォローになっていなかった。しかし付け足した事実は隠すにしては余りに大き過ぎるのだ。

 どうにも騅を安心させるところが思い付かなくて牧も困り果てる。

「たっだいまー。玄関電気点けっ放しだよー」

 牧が手詰まりになったタイミングでちょうど良く駒の声が響いてきた。

 一人で騅の相手するのも限界を感じていた牧は助かったと期待を抱いて姉がやって来る扉の方に振り返る。

 がらりと引き戸を開け放った駒はリビングを視界に入れた瞬間に立ち尽くした。

「……あれ? もしかして二人でイイコトしてた?」

 駒の目に映っていたのは、ソファに深く腰を沈めた牧の太股にしな垂れかかっている騅という、そういうふうに見えなくもない光景だった。

「んな訳あるか!」

 帰って来ていの一番にセクハラ発言をした姉に向けて牧は遠慮なく吠える。そして今更恥ずかしくなって騅の体を引き剥がして床に転がした。

「やんっ」

「牧くん、女の子に乱暴しちゃダメだよ」

 騅が悲鳴を上げて、駒からは冷たい非難の眼差しを受ける。

 どちらかと言うと今まで被害者だったのは俺だったのにと、牧は釈然としなかった。

「あれ、騅ちゃん、泣いてるの? 牧くんにそんなヒドイ事されたの?」

 すぐに騅に寄り添って抱き上げた駒はその泣き顔を見て心配そうに頭を撫でる。

 そして騅をその胸に抱き寄せて牧に据わった目を向ける。

「待って。騅が泣いてるのは俺のせいじゃない。轅のことを紗貴から聞いて怯えてるみたいなんだ」

「轅くん?」

 牧の弁明を聞いて、駒は騅に眼差しを合わせた。

 騅が頷くのを見て駒も天井を仰いだ。どうやら彼女も事態を察したようだ。

「でもだいじょうぶ! お姉ちゃんがちゃんと轅くんにも事情話してあるから! あ、もちろんうちの親にも連絡して一緒に住むの許可貰ってるからね」

「え、そうだったの?」

 牧もそれは初耳で驚きの声を上げる。ちなみに本人は道に倒れていた女性を拾って同居しているというのを実家に隠し通す気でいた。

「そうそう。お父さんもお母さんも、よくわかんないけど事件だけは起こさないようにすれば好きにしなさいって言ってくれたし」

「それでいいのか、あの放任主義どもめ」

 駒の口振りからすると真実をありのまま伝えたらしいのに、信用があるのか何なのか、口出ししてこない親に牧は呆れてしまう。

 それに対して騅は、此処に住むのを許されていると教えて貰った事で少し涙が引いた。

「わたし、怒られない……」

「うちの親は問題ないよ」

「今、問題視してるのは親じゃないんだな」

 なんとか騅が落ち着きそうになったのに、牧が余計な事を言って問題を目の前に引き戻してきた。

 駒と、駒に抱かれた騅が、真っ平な瞳で牧を見詰めてくる。

 一瞬だけ天使がその場を通り過ぎて行った。

「やっぱりわたし虐められるんだー!」

 そして身の安全が保障されていなかったと気付いた騅がまたぎゃんぎゃんと泣き出した。

「ちょっと牧くん」

「いや、だって事実……」

 駒からも冷たく睨み付けられて、牧はバツが悪そうに顔を反らした。問題を先送りにしても意味がないと本心から思っているけども、煩く騒ぐ騅を見ていると失敗したという気持ちも湧き上がってくる。

「騅ちゃん、だいじょうぶ、だいじょうぶ、轅くんにも話してあるって言ったでしょ?」

 駒は、よしよしと騅の背中を擦って宥める。

 ひくっ、ひぅ、と喉を痙攣させながらも、騅は駒の顔を見詰めた。

「轅くんったら、騅ちゃんに心をこめたお手紙を送るんだって張り切ってたから、だいじょうぶだよ!」

 駒は満面の笑みで心配ないと告げた。

 しかし、心を籠めた手紙と聞いて、牧と騅の脳裏には切り抜きの文字が張り合わせた本文のカミソリレターが過ぎった。

 騅がぶるりと身を振るわせて両腕で自分の体を掻き抱いた。

「騅、もし本当に手紙来たら俺が先に中身確認してやるから」

「絶対だよ! 絶対絶対絶対だよ!」

 結局、騅の中に宿った轅という人物への恐怖は拭い取られる事はなかった。

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