朝のランニング

 煙る霧に朝日が差し込んで透明な水の雫が目の前できらきらと光っている。

 そんな冷たい空気の中をすいは牧の後ろに付いて走っていた。

 毎朝、日の出の頃にランニングをするのは牧の習慣である。それに何故騅が付いて来ているかというと、昨日駒から貰った助言に因を発している。

 どうすれば牧と紗貴をくっ付けられるか。そんな相談を騅は駒に持ち掛けた。

「そうねー。牧くんのいいところを騅ちゃんがもっと知ったら紗貴ちゃんにそこをアピールできるんじゃないかな。牧くんがどんな生活してるのか、観察してみたら?」

 流石お姉ちゃん、頼りになる、と騅は絶賛した。そして早速、眠い目を擦り欠伸をしながらも夜明け前に起きて家を出ようとする牧に張り付く事に成功した。

 八王子の山坂を牧は黙々と走る。

 時折、後ろの騅を振り返るのは置いてけぼりにしてないか確認しているのだろうか。

 騅は白い息を霧に足しながら遅れる事なく牧に付いて行く。細く小柄だけれども、筋力も体力も見掛けを遥かに超えて備わっているから、まだまだ平気だ。

 だんだんと太陽が街に近付いてきて霧が晴れて行く。透き通った視界に霧で濡れた枯れ葉のふかい薫りが露沁つゆしみてくる。

 その冷えた空気を肺に吸い込むと少しだけ自分の中が綺麗になるようで気持ち良かった。

「街の窓とかミラーに朝日がえてきたな」

 小高い丘に向かって坂道を登っていた牧が顔を横に向けてそう言った。

 騅がその視線を辿ると、切り立った坂の下に広がる街が朝日の鋭い光を反射して煌ついていた。

 騅は息を吸うのと同時に牧の放った未言を飲み込んだ。

 美味しさで喉が詰まる。息を止めて眩い味に浸る。

 跳ね映ゆ。光が鏡やガラスなどに反射して、陰の中に射すこと。

 直接降り注ぐ光は遮られて届かなくても、足場を使って跳ね跳んで届いてくる元気な光。

「おいしい」

 騅は疲れ切った溜め息のように声を漏らした。

 牧が振り返る。

「お前、いったい何食った……ああ、今のか」

 食べられたのは声の響きだけであったから牧も自分の発言を覚えていた。

 綺麗だと思ったままを口にして、それに騅が食い付いた。

 ふと、牧は考える。

「これ、実はすごい楽に餌を与えられるんじゃ」

 牧は走っている間も未言を見付けるとついそちらに意識が向く。そして未言を呼んで感じたものを確かめる癖がある。

 でも普段と違って走る事にも意識を使っているから、そこから歌詞を考える事はしない。ただ灯ってすぐ消える、そんな言葉だ。

 だから騅に食べられても一番困らないかもしれない。

 そこまで考えて、やっぱり効率がいいと感じた。

 問題は、普段昼まで寝こける事も多い騅が定期的に早起きしてランニングに付いて来られるのかという点だ。

 それは疑いの眼差しとなって騅に注がれる。

 騅は丸っこい目で牧を見返して来る。

「いつもより早く起きたけど、眠くないのか?」

 走って自然と距離が空くために、牧の問い掛けは気持ち大きな声になる。

「ねむい!」

 騅は叫ぶようにして牧の背に声をぶつけて来た。

 やっぱり眠いのかと牧は唸った。良い案だと思ったのに実現は難しそうだ。

「牧はいつもこんな早く起きて眠くないの!」

 騅から逆に問い返される。

「別に。昔からやってるから、ふつう」

 牧は体を鍛えるのが好きだ。大学でも時間が空くと体育館の器具を使って筋トレをしている。

 強くなると誰かを守れる力が付いたと思えるからだ。周囲の中で男としては一番の年長者である牧は、駒とは違う意味で年下を守ろうとする気質が強い。

 それに何処かの暴走しがちな弟を止めるにはある程度の実力行使が必要だったという現実的な問題もあった。

「今日はよく起きられたな」

 昨日騅から牧の一日の行動を問い詰めされて、この早朝ランニングを聞いたら一緒に行くとは言われていた。

 でも牧は今朝まで騅が起きられないだろうから置いていくつもり満々だった。

「がんばった!」

「そうか」

 騅は別に学校に通っている訳でもないし働いている訳でもないし、確かに早起きを頑張る必要はない。家事をやってくれているが、意外と手際も要領も良くやっているので時間の遣り繰りに困ってもいない。

 住宅の並ぶ丘の上に到達して、牧と騅は真っ直ぐに道路を通って反対側まで突っ切った。そこからまた下ってぐるりと家に戻るのが牧のランニングコースだ。

「お前、帰ったら二度寝しそうだな」

「しないもん! 今日はずっと牧に付いてくの!」

「俺、今日も大学あるんだけど」

 騅が大学に付いて来たら、また友人達が煩くなりそうで牧は顰めっ面になる。

 朝日はいつしか黄味が勝って街を光景ひかりかげて風景の色合いを変えていた。

 牧と騅の姿もその中で黄金に染めたように影法師として浮かび上がる。

「ダメなの?」

 騅の声がへにゃんと萎れて牧の背中にぶつかった。

 珍しくそんな殊勝な態度を取られると、牧もぞんざいに扱えなくなって困る。

 牧はどうにも、どちらにも答え難くて黙って走る。

 結局、騅の行動を了承する事も食い止める事も出来ないまま、牧は家まで辿り着いてしまった。

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