通りすがりのチェロ弾き

 大学へ続く坂道を登る牧の後ろにすいが付いて行く。枝が触れ合う桜並木は疾うに葉を一枚残らず散らしていて物寂しい姿に成り果てて、皹枯ひびかれた朽ち葉が踏まれて粉々になり石畳の隙間を縁取っている。

 結局、騅に牧が押し切られて大学に来るのを許してしまった。

 なんできっちり拒否出来なかったかな、と牧は自分の情けなさに溜め息を吐く。

「いいか。授業の間はどっかに行ってろよ」

「どうしてもだめ?」

「ダメ。約束守れ」

「むー。はーい」

 どうにか授業に乱入だけはしないように言い聞かせているが、こっそり覗き見くらいはしそうで牧は気が気でなく、大学に向かう足取りも重い。

 見るだけならまだしも、何かの拍子で誰かに見付かって騒ぎになるなんていう展開がどうしても牧の頭にちらついて不安を煽ってくる。

 どんなに歩みを遅くしたって大学には到着してしまう。嫌だと思っていても単位の為には授業に出席しなければならない。

 大学の門を潜ってもまだ坂道は続く。理工学部は正門近くに施設が密集しているが、文学部の牧が使う棟は広い大学の敷地の真ん中の方ばかりなのだ。

 教室に向かって構内を歩くだけでもそれなりの歩数が稼げて健康の為の運動を強いられる。

 騅は正門から真っ直ぐ伸びる坂道に植えられた桜並木を見上げている。こちらもすっかり寂れた姿で、しかし二人が歩く石畳はきちんと掃除がされていて落ち葉は植木の伸びる土の上にしか残っていない。

 風が吹いて、桜に紛れて植わる楠が揺らされて、風虫かざむしが鳴き、楢騒ならさいが降る。

 毎日のように通っている牧でも、時折此処は本当に東京なのかという感慨が過ぎる。まぁ、八王子なんて都心とは丸っきり関係ないと言われればその通りなのだけれど。

「此処も散歩するの気持ちいいね」

「そうか。じゃ、今日も退屈しなくてちょうどいいよね」

 騅はにこにこと軽やかに足を前に出している。

 あわよくば散歩に夢中になって授業が終わるまで迷子にでもなって欲しいものだと、牧は淡い期待を寄せる。

 牧は坂道を登り切って、けれど今日の授業がある棟に向かって直線経路を取らず左に折れる。坂道の突き当りの先は樹木が鬱蒼と茂った窪地になっていて、ちょっとした自然公園並みに足場が悪い上に上がり下がりがきつい。

 だから多くの学生が道路のように整備されてなだらかな迂回路を選ぶ。

「お、そこを行くは牧じゃんか」

 向こうから来る誰かが牧に声を掛けたのは、そんな迂回路のカーブを半分程進んだところだった。

 騅が牧の背中越しに声の方へ目を向けると、大きな楽器のケースを背負った男子が気楽に右手を上げていた。

「ん? 女の子と二人で歩いてるなんて珍しいじゃん。しかもかわいい」

「お前な、出会い頭にナンパみたいな発言するなよ」

 相手の品の無い発言に牧は早速辟易としていた。こんなふうに変に絡まれるから騅を大学に連れて来たくなかったのだ。

 牧の知り合いであるのは間違いないようなので、騅はその背中に身を縮ませて隠れた。

「あら。対応マズった?」

「知らない」

 バツが悪そうに声を掛けて来た彼は苦笑いを作るけど、牧はフォローもしない。

 牧が騅の方に首を巡らせた。

「騅、一応、友達。無視して先に進むか?」

 牧は何でもないように放置するかと騅に訊ねてきた。

 でも自分のせいで会話がなくなるのは申し訳なくて、騅はぷるぷると頭を振って長い髪を揺らした。

「そ。こいつは数彰かずあき、背負ってるのはチェロな」

「チェロ」

 チェロが楽器の一つであるのは、最近食べた小説に出て来たお陰で騅も知っていた。

 騅は好奇心に背中を押されて牧の肩に手を置いて背を伸ばし、数彰の背負っている楽器を窺った。

 ふっくらとした数彰の体でも隠し切れない楽器ケースがその大きさを伝えてくる。

「どーもー」

 人好きそうな笑みを浮かべて数彰は騅に向けて手を振った。

 それを見て騅は猫のように素早く牧の背中に顔を隠す。

 牧は肩を竦めて数彰に向き直った。

「で、なんでお前はチェロなんか持ち出してるの?」

「いやいやいやいや。普通に会話する前にオレにもその子を紹介するとかないわけ?」

「必要性を感じない」

「ひっど!」

 牧は数彰を邪険に扱っているけど、どちらも和やかな雰囲気でいる。

 きっと仲が良いんだろうというのは、騅にも分かった。

「えっと、スイちゃん、でいいのかな? 松村数彰です。牧の歌詞を演奏しているジャズバンドの一人だよ。よろしく」

 数彰は牧を避けて騅を覗き込み、気持ち姿勢を低くして自己紹介をしてきた。身を縮ませる騅と目線を合わせるのには少し腰を屈める必要があったのだ。

 騅はきょとんと丸っこい目で牧を見上げた。

 牧の歌詞が誰かに演奏されているなんて、騅は初めて聞いた。

「ん。まぁ、本当の事。歌ってるのは数彰じゃないけど」

「なんだよー、ふうちゃんを紹介したの俺だろー」

「それはそうなんだけど。いきなり歌詞書いてるんだってとか声かけられたのを思い出すとな」

 初対面で唐突に人の趣味に踏み込んで来られてその時は牧も呆気に取られたものだ。

 しかし数彰がここまでしっかりと自分の事を教えてきた以上、こちらが名前も教えないという訳にもいかなくなった。

 牧は数彰に聞こえよがしに溜め息を深く吐く。

「こいつは騅。訳あって家で預かってる」

「預かってる? え、同棲? やるー」

 口笛を吹く数彰が非常に苛ついたので、牧は騅の腕を掴み無言でその場から立ち去ろうとした。

「待て待て待て! 確かに今のは悪かった、謝るから! 相変わらず色恋沙汰になると沸点低いな、牧くんってば!」

 ずんずんと足を進める牧と、手を伸ばしてこちらを追いかけてくる数彰と、騅は両方を交互に見てどうしたらいいのかと戸惑った。

 しかし牧はしばらく歩くと自分から足を止めた。

 騅はその動きが予想出来なくて牧の背中に鼻をぶつける。

「……騅って妙なところどんくさいよな」

「うるひゃい」

 硬い牧の背中にぶつけた鼻を騅は擦る。

「牧が……あの牧が……紗貴ちゃんに告白も出来ないで悶々と常に悩んでいるあの牧が女の子といちゃいちゃしてる……成長、したんだな、牧……」

 何故かそんな二人の様子に感動している数彰が目淵まぶちから膨らむ雫を指で拭っている。

 牧は心底嫌そうに顔を歪めた。

「お前、本当いい加減にしろよ」

「ちなみに紗貴ちゃんの事は諦めたんか?」

「いい加減にしろって! 俺が好きなのは紗貴一人だけだ!」

 牧の絶叫が静かな構内に響き渡った。

 風がひゅるりと足元を撫でて過ぎ去っていく。

 何処からか、パチパチと拍手の音が聞こえて来た。騅が横の建物を見上げると、二階のベランダに出ている人達が手を叩いている。

 牧が顔を真っ赤にしてその場に蹲った。

「盛大な自爆、見事なり」

「半分くらいお前のせいだろが……」

 牧を見下ろす数彰は半笑いだった。

 そんな数彰の袖を、騅がちょんと摘まむ。

「およ?」

 急に距離を詰められて数彰は不思議そうに騅を見る。

 それに対して騅は真剣な顔を見せた。

「牧は紗貴と結婚するの。揶揄わないで」

 冗談を一切交えない生真面目で真っ直ぐな騅の声を突き付けられて、数彰は頭を掻いた。

 そして数彰は、はは、と曖昧な笑いを溢して近くにあったベンチに腰掛ける。

「ごめんごめん。いつも牧は反応が面白くてさ。反省するよ」

 数彰は謝罪を口にしながら、穏やかな手付きで楽器ケースを開きチェロを立てた。

 弓を右手に取り、左手と体でチェロ本体を抱え、調律の音を秋の風に乗せる。

「お詫びに一曲差し上げよう」

 ぱちんとお道化たウィンクが数彰には良く似合っていた。

 騅が数彰に何か言葉を返すという思考を繫ぐよりも先に、彼の右手は大きく弓を弦に滑らせた。

 軽快な音のが跳ねる。少女が森の中を駆け回り、振り返っては大人を呼んで、また走り出しているような、そんなリズムだ。

 牧がその音を注がれて蘇ったかのようにゆっくりと体を起こす。

 騅はお腹の前で両手を合わせて祈りのように指を組み、旋律に耳を委ねる。

 気分が乗って来たのか、数彰の体は次第に動きを大きくして、その動きによって弾かれるチェロは楽しげに声の響きを張り上げる。

 二階のベランダにいる人達が体を揺らして手を叩き出した。ダンスのリズムを促すように弾ける手の音に、チェロの旋律は楽しそうに乗っかって勢いを増していく。

 チェロの音が少し横道に反れた。元の曲を知らない騅には分からないけれど、ジャズらしく即興のオリジナルな小節を数彰は挟んだのだ。

 森のあちこちで落ちる黄葉やどんぐりの音が少女を誘い、少女がそれを追いかけるような、そんな二重奏の響きを、数彰は一人で巧みな間合いを駆使して奏でる。

 少女の手が見えない友人に届きそうになった瞬間に、その場面は唐突に消えて、楽しげに笑うようにチェロは元の曲通りの旋律へと歩みを戻す。

 一曲弾き終えて。

 数彰はベンチから立ち上がり、牧と騅に深々とお辞儀をした。

 それから手を打って演奏を共にしてくれた見知らぬ学生達に向けても、大きく弓で弧を描いて手を振る代わりとして見せ、頭を下げる。

 あちこちから称賛の拍手が数彰に贈られた。

 騅もそうしたし、牧もそうだった。

「なんでカントリーロードなんだよ」

 自分も称賛の拍手を叩いている癖に、牧は不機嫌な声で数彰に問い掛けた。

 数彰は大仰に肩を竦めて両手を広げて見せる。

「少年少女時代から続く純愛に捧げると言ったらこの曲でしょ?」

 国民的なアニメ映画をまだ知らない騅は、何の事か分からなくてただただ目を丸くしていた。

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