猫、騅

 数彰の演奏を聴き終えて牧はその場を立ち去ろうとする。

「なんだよ、もう行くのかい? もっと聴いていきなよ」

「次、授業あるんだよ」

「まだ二十分もあるじゃないか」

 真面目な牧を数彰は揶揄うが、牧は鼻を鳴らして相手にしなかった。

 すいの手を取ってまた引き摺っていく。

「じゃあね、二人共」

 弓を振って見送ってくれる数彰に後ろ髪を引かれながら騅は手を振り返す。

 数彰の姿が遠くなってチェロをケースに仕舞い出すを見届けてから、唯は前を向いて牧に歩調を合わせた。

「そういや、もう騅連れていく必要なかったな」

 牧が今更気付く。そもそも授業の間は何処かへ行っていろと言ったのは牧なのに。

 しかし数彰に騅を預けるのも大いに不安なので、過ぎた事は気にしないでおく。

 牧はパッと騅の手首を握っていた手を放した。

「ほれ、どこかで時間潰してこい。授業が全部終わったら電話入れる」

「それってどのくらい?」

「取りあえず一時間半。そんで昼食った後にまた授業二コマがあるから、そっちで三時間……と授業の合間の十五分もか」

 騅はあんまりに牧と離れている時間が多過ぎて、うへぇと嫌そうに声を漏らした。

「嫌なら帰れ」

「むー」

 騅を直ぐ引き籠りにさせようとする牧に小さな反感を抱く。その反感は騅の心に意地を芽生えさせた。

「だいじょうぶだもん。友達いるし!」

「……だれ?」

「ねこ?」

 猫だけど普通の猫じゃない相手なので騅の返事は傾いていた。

 そして猫が友達と宣った少女に牧は何とも言えない顔になる。寂しい奴というのと、そういや人間じゃなかったなこいつというのとで、不審と納得が入り混じって牧にも自分の感情はきちんと分別出来ていない。

「そうか」

 結果として牧から出て来たのは何の意味もない声だった。

 牧の温度の無い態度に、騅は勝ったと思った。

 勝者の特権として優雅に踵を返し、石畳を高らかに鳴らして呆然とする牧から離れて行く。

 さっき牧が迂回した鬱蒼と樹木の茂る窪みへ向かう階段を降りて騅の背中が見えなくなってから、牧は頭を掻いて授業の行われる建物に入って行った。

 対して騅は意気揚々と進んで行ったけれど、自分がちゃんと前になつと会った正門近くへ向かっているかだんだんと不安を感じてきた。

 どうしてわざわざ来た道を戻るのではなくて知らない道に進んでしまったのだろうと早速後悔している。急な丸太の滑り止めが先端に埋められた階段を恐る恐る降りながら、方角は間違いなく合っていると自分に自信を持たせる。

 牧に勝ったんだから、牧に教えられた道を通るのは違う気がした。ようは気分だ。気分で道を選んだら失敗した。

 いや、まだ失敗とは限らない。方角は合っているんだもの。

 勝てば官軍。つまりちゃんと目的地に辿り着ければ何の問題もない。

 よし、と騅は自分を奮い立たせて階段を降り切った。

 目の前には枯れた下草に埋もれて自然のまま残された木々が鬱蒼と茂り、その中にぽつんと寂れたロッジ風の建物が見える。左右にはアスファルトで固められた坂道がカーブを描いている。

 騅は迷いなく前へと足を踏み出した。方角が合っているのは、前だったからだ。

 茂みの中には意外としっかりとした石畳の道が埋まっていた。秋の湿気で表面がつるつると滑る足元を騅は慎重に歩いて行く。

 そして茂みを突っ切ると直ぐに木製の手摺が柵となって道を作る階段が見付かった。階段の先は方角が合っている。間違いない、と騅は木の手摺を掴んで石造りの階段を踏み締めた。

 登り切れば視界が開ける。

 さっき牧と一緒に上った桜並木の坂道が逆さまに下る景色が広がり、その終点にはきちんと大学の正門が存在していた。

 勝った!

 騅は気分よく車道を横断した。構内なのに車道があるが、当然ながら車なんて滅多に通らない。食堂や生協への業者が誰もいない朝早くに通るくらいだ。

 騅はそんな事は知らなくて、車の気配を全く感じなかったので車道とも気付かずに渡ったのだけれど。

 後は先日と同じように歩いて正門に行き着く前に曲がって建物の隙間に入ればいい。

 騅は迷いなくなつと出会った場所に足を踏み入れた。

「なつー? なつ、いないのー?」

 騅は友達が見当たらなくて辺り構わず呼び掛ける。実はなつの出現ポイントは此処だけではないのだけれど、騅は知る由もない。加えて紗貴がその場所を全て網羅しているので話を聞くと効率良く回れるだなんて事はさらにだ。

 意外と身近な所に解決策はあるものである。

「みゃん」

(呼んだ?)

 しかし騅が途方に暮れる前に向こうが空気を読んで木の上から飛び降りてきた。

「ひゃ! ……びっくりした」

(わたしもきゅうに呼ばれてびっくりしたわ)

 言葉とは裏腹になつは呑気に前足を舐めている。

 一頻り毛繕いを終えるとなつは黄味が勝った緑の瞳で騅を見上げた。

(なにか用?)

「……牧が授業終わるまで付き合って」

(まえとおなじね。いいけれど)

 なつはたしたしと前足で地面を叩いて騅に腰を下ろすように促す。

 騅が素直に座ると黒白の猫はするりと膝に上がってきて身を丸めた。

「あれ? 子供達は?」

 前は一匹ずつ騅の膝の上に咥えて来たのに、今日はなつが率先して昇って来た。それに騅が周囲を見回しても元気にじゃれ合っていた兄弟の気配が全くしない。

(ああ、もうさむくなるからってニンゲンたちがつれていったわよ)

 なつは何でもない事のようにお腹を見せてきた。

 しかし騅は、えっ、と思考を詰まらせる。

「誘拐なんじゃ?」

(んー、いつものことだし。ニンゲンの家のなかのほうが外よりすごしやすいし、あの仔たちにとってはしあわせよ)

 なつは本気で気にしてないようで牙を見せて欠伸をした。そんな事より撫でて欲しいと訴えるように前足を絡ませて騅の手を手繰り寄せる。

「家族と一緒じゃなくて寂しくないの?」

(それは人間らしい考えかたね。猫は群れないのよ)

 騅は指を立ててやわやわとなつのお腹を解す。いや、解す必要がないくらいに元から柔らかいから、解すように指を動かしていると言った方が適切かもしれない。

(自分が生んだものがしあわせであればいいとはおもうけど、べつにそれを見ないとあんしんできないなんてはおもってないわ)

 なつは気持ち良さそうに目を細めている。

 騅が指をなつの喉に這わせた。ごろごろと心地いい振動が指を伝ってくる。

(あなたはべつにもうニンゲンといっしょにいなくてもいいのに、ずいぶんとさみしそうね)

「む」

 自分以外から分かったように言われると何だか不服になるものだ。

 騅はなつをくすぐる指は止めないけれど顔はそっぽを向いた。

(なにをそんなに執着しているのよ)

「だって」

 だって、騅には牧の側にいる理由がある。牧の幸せにする責任がある。

 牧に、隣に紗貴がいてくれるという安らぎを還さないといけないのだ。

 でもそれは言葉にして人に明かしたくない。騅は口を噤んでなつを抱き上げた。

 それでそのまま、なつのお腹に鼻を埋める。

「お日様の匂いがする」

「みゃ」

(さっきまでひなたぼっこしてたからね)

 騅はじとっとなつを睨み付けた。

「なんでも分かってますみたいな顔して」

(意識を存続させている年季がちがうのよ、こむすめちゃん)

 折角牧に勝った気分だったのに、何だか負けた気分になって騅は憮然とした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る