吸言鬼ちゃん、チェロを聴かせてもらう
大学を散歩していた
「数彰ー!」
「おや、スイちゃんじゃないか。また牧くんの授業が終わるのを待ってるのかい?」
騅が手を振って名前を呼ぶと、数彰は足を止めて太い腕を振り返してくれた。
「ううん、今日は一人でお散歩してたら数彰を見付けた」
「へぇ、牧にべったりだと思ってたけど、そうでもないんだ」
数彰は騅が隣までやって来ると、さっきまでより歩調を緩めて足を進め出した。騅は横に並んで一緒に歩く。
「チェロ弾くの?」
「うん、そうだよ。良かったら聴かせてあげよう」
「ほんと? やったー」
「オレなんかの演奏で喜んでくれるだなんて、スイちゃんはやさしいなー」
数彰は校舎から次第に離れていって、木々が落ち葉で埋もれさせていく道を踏み締めて行く。
真っ直ぐに前を見て当たり障りない笑顔を見せる数彰を、騅は横から見上げた。
「なんで? 数彰の演奏はとても素敵だよ」
「はっはっは、牧とよく似た素直で躊躇いのない好意が堪えるなぁ。惚れちゃったらどうしてくれるんだい?」
数彰は純粋に褒められたのを素直に受け止め切れずに茶化す。
そんな数彰の発言に騅は不思議そうな顔をした。
「数彰はわたしに惚れないじゃない」
「おやおや? そんなことはないさ。だいじょうぶ、スイちゃんはかわいいよ」
「数彰は可愛いから惚れる訳じゃないでしょ?」
「ははは」
相手を立てて受け流したつもりが返す刃でばっさりと切られた数彰は乾いた笑いを漏らして手近なベンチに腰掛けた。
吹き抜ける
「いやー、実際、牧はあんなに真っ直ぐに好きでいられる相手がいて羨ましいよ」
観念した数彰はチェロをケースから出しながら友人の眩しさに目を細める。
牧が褒められて騅は満足そうに頬を緩めた。
「でも、スイちゃんも牧のことを大好きだと思ってるんだけど、違うのかい?」
「わたし? わたしは牧は紗貴と結婚してほしいと思ってるよ」
「ぶれないねぇ。ずっと一緒にいたいと思ってそうだけど」
チェロの調律を始めた数彰に問われて、騅は視線を
「うん、まぁ、牧がいてくれないとわたし生きていけないからなぁ……」
「いや、予想より愛が重くてびっくりなんですが、なんでそれで他の女の子と牧くんが結婚すればいいって思えるわけ?」
騅はご飯貰えないと餓死するという意味で言ったけれど、事情を知らない数彰からすると愛の告白にしか聞こえなかった。
「んー、二人が結婚して一緒に暮らす?」
「スイちゃんはあの二人の子供にでもなりたいのかな?」
「あ、それいいね」
「え、今のでスイッチ入れちゃった感じなの?」
そんな訳がないというツッコミ待ちの発言がまさか騅に気に入られてしまって、数彰は頬を引き攣らせた。
目の前に立つ少女の情緒がちっとも分からない。
相手は人外なのだから普通の人間には理解し難くてもそれが当たり前だというのを、可哀想なことに数彰は教えられてなかった。
無駄に負ってしまった心労を溜息で吐き出して、数彰は自分の隣で空いているベンチを叩いた。
騅はちょとんと目を丸っこい目を瞬きさせた後に、遠慮勝ちに数彰の隣に座る。
たった一人の聴衆を立たせているのが居心地悪かった数彰は、それでやっとチェロの弦を弓で弾き鳴らす。
軽やかな音が冷えた空気に跳ね回る。それは夫の浮気を責めるために、バスルームに口紅で伝言を残して夫の実家に家出した妻の心情を、軽やかなメロディで歌った人気アニメ映画の主題歌だ。
自分の実家でなくて夫の実家に向かった女性の心持ちが、まだ若い男である数彰にはちっとも分からないが、この曲も歌詞も好きだった。
騅の言ってることもちっとも分からないけど、彼女が心から牧の幸せを求めているところはとても共感出来るから、この曲を聴いてほしかった。
「数彰は牧が羨ましいんだ」
チェロの踊るような演奏に耳を傾けながら、騅はさっきの話を蒸し返した。
自分の曲に浸っていた数彰は音楽から意識を現実に引き戻されて、嫌そうに唇を笑みに引き攣らせた。
「そうとも。正直、オレは一生を掛けて一人の女性を選ぶだなんて、自分だとしたら想像も出来ないね」
チェロを弾きながら、数彰の台詞は曲とは乖離して放たれる。
「牧はきっと、紗貴ちゃんのためなら命だって喜んで差し出しそうじゃん? オレはたぶん、好きな相手でも他人のために死ねないな。怖いって」
「ん、そうね」
数彰はジャズらしく独自にアレンジしたパートに入って口を噤んだ。体を揺らし、自分の生み出す音に聴き入り、世界に浸る。
「てか、命とか以前に、彼女のデートの約束してても、チェロ弾きたくなったらドタキャンする自信すらある」
原曲通りの旋律に戻って数彰はまた心情を吐露した。
「それ、自信って言っていいの?」
「どうだろうね。それくらい身勝手って話だよ。……牧はほんと、すごい、キレイな人間だと思うよ」
キレイ、という言葉を呟いた数彰は羨望と共に、自分とは違う遠い存在だという寂しげな眼差しを見せた。
そんなふうに誰かを愛せるのはとても尊いのだろう。
そんなふうに誰かを大切にするのはとても幸せなのだろう。
でも自分はそうはなれないと分かってしまう。
せめて自分はそんな友人のために手助けをする人間でありたいと、数彰は思っている。
「数彰も優しいと思うよ。牧のとは違うけど、数彰らしい優しさ」
騅が身を乗り出して数彰の顔を覗いて来た。
数彰も首を微かに傾けてその視線を受け止める。
「いやぁ、オレなんかを優しいって言ってくれるスイちゃんの方が優しいさ」
一曲目は引き終えて、けれど数彰は弓を止めずにそのまま次の曲に繋げた。続けたのは空に浮かぶ城を探して冒険するアニメ映画の主題歌だ。
「そうかなー?」
騅は不思議そうに自分の頬をペタペタと触っていた。顔の形を確かめてもそれで優しいかどうかなんて分からないのに。
そんな騅の仕草を見ていたら笑ってしまって音を外してしまいそうで、数彰は瞼を閉じて指先の感覚に意識を集めた。
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