和かな幸せ
時計の針はまだ三時丁度。冬の日はもう
とは言っても、聞き慣れない名前の凝った料理をする訳ではない。騅が今から作ろうとしているのは有り触れた煮物だ。
まず鍋の半分程に水を張り、乱切りにした大根を放り込んで火に掛ける。大根を炊くのに二十分程は掛かるが、その空いた時間は他の具材を切るのに使う。
人参と椎茸はそのままボウルに、蓮根と里芋は切った後に水に浸す。
水が沸いたところで騅は
大根に十分火が通って透き通ったところで弱火にして、里芋と椎茸を追加して、粉末の出汁を入れる。
蓋を開けた時に炊いた大根の甘い匂いが立った。新鮮な大根だから鼻に付く辛さがない。
鶏肉を切って鍋に落とし、料理酒と砂糖をたっぷり四杯入れた。
「これ、砂糖多くないのかな?」
紗貴に教えてもらった通りの手順を踏んでいる騅は疑問を口にした。でも牧や駒に美味しいと言ってほしいし、二人は本のレシピよりも紗貴の味付けにした方が喜んでくれる。
鶏肉にも火が通ったところで、蒟蒻を三角に切って鍋に加える。その後に、めんつゆを思いっきり二回し、醤油を一回し入れて味を見る。
浮き味に急かされて味付けを加えると後で濃くなり過ぎて失敗する。騅は瞼を閉じてこの後に味が落ち着いていく様子を想像する。
それで砂糖を一杯と醤油を一回し足した。
あとは十五分くらい火に掛けてから、寝かせる。煮物は冷えていく時に味が染み込むのだと紗貴が教えてくれた。
料理に手を掛ける必要のなくなった騅は椅子を焜炉の前に持って来て本を開いた。
今日食べるのはラルフ・ウォルド・エマソンの詩集だ。アメリカの詩人であり、湖畔に住んで自然に親しみ、自然の中にある動植物や光、風、水や音を見詰めた詩が、騅は美味しくて大好きだった。
この詩集でエマソンの本は三冊目だ。
椅子に腰を降ろし、足を乗せて、表紙を開く。
文字を目で追い、惜しみながら食べていく。活字は泡のように消えていき、騅の栄養になっていく。
時折、口の中で言葉を転がす。エマソンの詩は蜂蜜のように甘い。時々、若葉のように爽やかな苦さがある。
飲み込むのが勿体ない。けれどもっともっと頬張りたい。
目の奥がチカチカする。時折、お腹が満たされてページに指を挟んで本を閉じる。
ゆっくりと息をすると、文字にも声にもならない言葉が溶けたまま頭の中で対流する。それがすごく心地好い。生きていて善かったと幸せを感じる。
鍋の蓋がカタカタと足踏みしていた。
騅は本を右手に提げて、左手で蓋を取り上げる。
煮込んだ湯気がもわりと騅の顔を包み込んだ。鼻を擽る和かな甘い香りが、食べ物には食欲が欠けた騅の胃でさえ刺激する。
それは紗貴と同じ料理だから、騅は嬉しくなる。言葉の、想いの籠った料理だから、騅も食べたくなる。
騅は本を椅子の上に置いて、煮物の汁を小皿に取って味見する。
「美味しい。うん、良かった」
騅は焜炉の火を落とした。ぐつぐつと唸っていた鍋の中身が眠るように鎮まる。
かまみつしい幸せな気持ちが騅のお腹を重たくしている。
エマソンの詩集はまだ半分残っているが、騅はもう食べる気を失くしてリビングのテーブルに置いた。本棚に戻すと、牧に紛らわしいと怒られてしまう。
今日の夕食の献立は、今仕込んだ煮物と焼き魚、白米に納豆を添えて、味噌汁は簡単に油揚げと葱にする。
そして料理を並べたテーブルに着く牧と駒の顔を思い浮かべる。
騅はそんな幸せに自然と微笑みながらソファに横になって毛布に包まった。軽く眠って、起きたら幸せの続きを仕上げようと思いながら瞼を落とす。
外で烏が
幸せに寄り添った寂しさを胸に潜ませて、騅は
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