命を掌与う
八王子から新宿へ向かう私鉄は、通勤ラッシュのような混雑は見せていなかったが、座席は埋まっていてぽつぽつと人が立っていた。
始発駅で乗った牧と紗貴は勿論一旦は席に座っていたけれど、途中で乗車して来た老夫婦に席を譲って今は吊革を掴んでいる。
「てか、あいつはなんであんなとこにいるんだか」
牧は呆れ顔で車両の連結部に繋がるドアに視線を送る。
すると硝子越しに牧達の様子を見ていた
「あれでバレてないって思ってるのが不思議でならない」
「危ないからこっちに来ればいいのにね?」
「……流石に堂々と隣にいられるのも、それはそれで邪魔だなぁ」
「あら、牧ってば、私と二人きりがいいんだ」
言葉の挙げ足を取って紗貴が意地悪く笑うから、牧は憮然として口を閉じた。
連結部は空調がなくて寒いけれど騅は風邪を引かないと本人が言っていたし、揺れが激しくても転ぶこともないだろうし、牧は自分の心の平穏の為に放っておこうと意志を固める。
そんな風に牧が騅の視線に落ち着かなかったり紗貴に揶揄われたりしている内に、急行の電車は次の停止駅に到着した。
疎らに人が降りて、その倍位の人数が乗車してくる。
牧はその人の流れを見るともなしに見る。
そして何故か背筋が冷えた。
その理由を牧自身も理解が出来なかった。ただ、最後に乗ってきた暗い雰囲気を纏ってパーカーのフードで顔を隠した青年を見て、牧は途轍もなく嫌な予感がした。
牧は紗貴の手を掴んだ。彼女は牧の不意な行動に彼の顔を見上げる。
そして紗貴は彼女を見ていない牧の視線に疑問を抱く。
「どうしたの?」
牧は喉が張り付いて声が出せなかった。
牧が気に掛けた青年がパーカーのポケットに突っ込んでいた手を引き抜いた。
銀色の刃が窓から差した日の光を
牧よりも紗貴の方がドアに近い位置に立っていた。
フードの下の濁った眼差しが牧や紗貴の方に向けられていた。
「紗貴!」
牧は掴んだ手を強く引き寄せた。
そのまま放り投げてもおかしくないような勢いで腕を引かれた紗貴は体勢を崩しながら牧の体の後ろへと踏鞴を踏む。
牧は一歩踏み出し。
ナイフを手にした青年もまた足と手を突き出した。
「ぐあっ――」
牧の腹に金属の冷たさがのめり込む。それからじわりと牧は自分の腹が熱くなっていくのを感じた。
「きゃあああああ!」
牧の服に血が滲み出していくのを目の当たりにした老婦人が悲鳴を上げた。
紗貴の視界は電車の床ばかりが広がって、まだ何も状況が見えていなかった。
牧にナイフを突き刺した犯人は、牧の体を苛立たしそうに押し退けて、深く刺さったナイフを引き抜いた。
牧の腹は傷を塞いでいた蓋を失って血飛沫を噴き出す。その瞬間が余りにも痛くて、牧は顔を歪めた。
「き、ひひ、いひひ」
ナイフを持った男は奇怪な笑い声を口から零しながら、紗貴の背中に向けてナイフを振り上げた。
反射的に腹を押さえて自分の出血を止めようと足掻いていた牧は、紗貴に向かう凶器を見て目を見開く。
何も考えていなかった。
考えるよりも先に。
牧はナイフを掲げた男の顔面に左の拳を叩き込んでいた。
傷を抑えていた手は暴力として振るわれ、その暴力を起こす為に収縮した筋肉は腹の傷から血を押し出した。
びしゃりと電車の床に牧の血が吐き捨てられた。
「牧……?」
やっと首を巡らせて紗貴が牧の姿を視界に入れた時、牧の体は力を失ってゆっくりと倒れていった。
「牧ぃっ!?」
血が出てる。体が倒れている。顔に血の気がない。左手が血塗れになっている。
牧を見下ろす紗貴に一辺に入って来た情報は余りに多く、紗貴はまともな判断も出来ずに彼の横に跪いた。
紗貴は牧の肩を掴んで彼の体を揺らす。
「牧! しっかりして! 牧!」
悲痛な叫びは、意識を失いかけていた牧の耳にも届いた。
牧は重そうに瞼を持ち上げて、視界一杯に広がる紗貴の顔を見る。
熱い雫が紗貴の
牧はやっと夢で見た悲劇を思い出した。そして夢と違って現実では紗貴を無事に守れたのも誇らしく思えた。
「紗貴、けが……してない、よね?」
「してない! バカ! 怪我してるのは牧の方でしょ!」
紗貴に罵倒されたのに、牧は安心した様子で意識を手放した。
紗貴は服に血が広がっている牧の腹に気付く。慌てて両手で傷口を押さえ付けた。
けれど血は止まらず、紗貴の手が赤く染まっていくだけだった。
「牧! 紗貴!」
騅が駆け寄って来た。
ちょうどその時に電車が急停止して、騅は足を縺れさせて転びそうになりつつ、二人に縋り付く。
紗貴は今更ながらにけたたましい非常ベルの音が耳を叩いていたのを知った。
「騅ちゃん! 牧が!」
騅は悲痛な顔で振り返る紗貴と、血を流して眠るように気絶している牧を一つの視界に見る。
彼女は一瞬で、自分に何が出来るのかを把握した。
「落ち着いて。助けるから」
騅は紗貴の肩を抱いて場所を譲って貰った。
不安をありありと顔に浮かべて涙を流している紗貴に、騅は自信を見せて頷く。平気だからと真っ直ぐに眼差しを送ってから、牧の傷に手を当てた。
「騅ちゃん、でも、血がたくさん出て、牧が死んじゃう……」
「うん。牧の命が流れ落ちて行ってる。だから、わたしが貰った分の牧の命を……牧の
牧の体からは血を一緒に体温が失われていっている。
体温というのは、そのまま命でもある。人は熱によって活動して生きているのだから。
「
騅は何時か牧に食べさせて貰った言葉を還す。
騅の体の奥、心の真ん中、魂の芯から、騅自身を形作っている言葉を吐き出した。自分そのものが遊離して流れ出していく嫌悪と倦怠が騅を襲うが、それを歯を食い縛って意志を貫き徹す。
騅の掌から、触れた牧の腹へと、体温が移っていく。
命が体から抜け落ちていく感覚に、騅は一瞬だけ気を失った。
騅の華奢な体が崩れ落ちそうになって。
紗貴が騅の両肩を抱いて、その細い体を支えた。
「騅ちゃん、体が……」
騅に触れた紗貴はひやりと
騅は自分を犠牲にして牧を救おうとしているのだと否応がなく実感させられる。
「平気。牧は絶対に助けるから」
自分はどうなのか。
それを騅は言葉にしなかった。
その代わりに、騅は、騅自身が抱いた未言の在り方を言葉にする。
「掌与うは死へと命を与えて蘇らせる、そう、愛を捧げる献身だと思う。わたしから見た牧は、そういう人」
こんなにも素敵な人はいない。
騅は心からそう思うからこそ、この人を救う為に命だって捧げたいと強く想う。
「牧、あなたから貰った言葉と命を、少し返すよ」
それは吸言鬼という存在にとって生来備わっている機能だった。吸収して自分そのものへとなった言葉を、消費することでその言霊を最大限に引き出して実現させる、そういった神秘の機能だ。
それは夢魔が人を孕ませるが如く、吸血鬼が体を霧に変えるが如く、或いは鳥が空を飛び魚が水の中を泳ぐが如く。
生き物それぞれが持つ機能と全く等しいものだ。
騅は自らの存在を確かに、牧へと掌与えたのだ。
騅の体がぐらりと傾いで、紗貴は彼女が冷たい床に倒れないように抱き寄せた。
騅は呼吸もしてないように見えた。
逆に牧の腹部は緩慢に膨らんでは凹み、息が安定しているのが確認出来た。
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