行き倒れてた吸言鬼ちゃん

 安登あとまきは駅から家へと向かうバスの中で、先程預かったルーズリーフを鞄から取り出した。

 秋の嫋やかな日射しがバスの進行に合わせ翳り差しを交互にして牧の手元をメリーゴーランドのように律動させて、色ペンで書かれた文字が景懸かげかかって読み辛くはあるが、それでも牧は家に着くまでこの逸る気持ちを抑えられなかった。

 そこに書かれているのは手書きの英文だった。ラメ入りの水色のインクで綴られたそれは、翳りに入っても光が差し込んでも、雨のように煌めいている。

〈Showerslamp, please hold us, so your fantastic world〉

 牧がその文字を雨のようだと感じたのも、それがこの一文から始まっているからかもしれない。

 牧は前二列が空いた最後列の窓際で、その英文を夜に降る秋雨のような淑やかなメロディに乗せて口遊んでいた。

 その音程は牧が耳に差し込んだブルートゥースイヤホンから女性の声で再生されている通りになぞられている。

『シャワーズランプよ、貴女の夢の世界にわたしたちを抱き締めて』

 直訳すればこれくらいの意味になるだろうか。牧の鼓膜を震わせる女声は、願いを天に届かせようとメゾソプラノからソプラノまで伸び切っていく。

「いい詩だな」

 牧がぽつりと呟いて、そのついでに顔を上げたら、バスの電光掲示板は次が牧の降りるバス停だと知らせていた。

 牧は少し焦りって鞄のチャックを閉めた。ルーズリーフは無理にしまうと皺になってしまうと思って手に持ったままにする。バスを降りてからゆっくりしまえばいい。

 牧は左手の降車ボタンを押してから、ポケットに突っ込んでいたICカードの入ったケースを取り出した。

 バスが緩やかに止まり、エンジンが溜め息を吐いた後に、牧は席を立っていつも通りに降車した。

 バスが立ち去るのを見送りもせずに牧は歩き始める。

 ルーズリーフをしまうつもりだったのも忘れて、牧は歩きながらまたその詩を読み始めた。

 あし任せで牧は道の角を曲がる。家はその先直ぐだ。

 そんな集中と油断があったからか。

 牧は足元に転がっている者に気付かずに、むぎゅりと柔らかな感触を踏み付けた。

「うわ、なんだ!?」

 牧は予想してなかった感触に慌てふためいて踏み付けた足を跳ね上げる。その後に何を踏んだのかと視線が地面に向かった。

「……いたい」

 何故か道に横たわっていた女性が舌足らずな声をゆるゆると漏らした。アスファルトにくっついていた顔を上げて、潤んだ瞳が牧を見上げる。

 彼女が伸ばしている白い右手の甲に、牧の履くスニーカーのアウトソールの模様がくっきりと写っていた。

 自分のやらかしをしっかりと認識した牧は大袈裟に後退った。

「ご、ごめん! でもなんで地面に倒れてるんだ!?」

 踏んづけた相手は、見た目からして牧と同い年か一つ二つ下か、それくらいに見えたので、牧の謝罪も敬語は乗らなかった。

 そして倒れた彼女も牧を見上げるばかりでなんの返答もない。

 手を踏んだくらいでそこまでのダメージが入るかと牧は訝しむが、ここから逃げる訳にもいかない。

 様子を伺うしか出来なくて、なんとも言えない沈黙がこの場を支配する。

「……お」

 少女の口から消え入りそうな声が発せされた。

「お?」

 牧は続きを促そうと彼女の発した音を鸚鵡返しした。

 そこで少女はぱたりと力尽きて顔を地面に伏せた。

「おなか、すいた……」

 少女の力ない声を聞いて牧は唖然とした。この少女、どうやら空腹で道端に倒れていたらしい。それを証明するかのように、ぐぅ、と低い音が彼女の腹から響いた。

「現代日本で行き倒れてるってどういうことだよ!?」

 日本の豊かさを当たり前に享受している牧には空腹で倒れるという非常識が理解出来ずに思わず叫んだ。

 けれど少女は最後の力を振り絞り、恨めしそうな目で牧を見上げて。

 彼が手に持ったままのルーズリーフに目を付けた。

「え?」

 少女が急に飛びかかって腕にまとわりついてくるのに、牧は反応が遅れて情けない声を漏らすしかなかった。

 彼女はその隙を逃さず、牧が右手に持っていたルーズリーフに顔を寄せて。

「はむ」

 そして、勢いよく齧りついた。

「て、ちょ、紙! 紙は食いもんじゃないぞ!」

「はむはむはむ」

 牧は少女の奇行にぎょっとして腕を引こうとするが、予想外に相手の力が強く抱き着かれる形で位置を固定させられてしまっていた。

 少女は牧の抵抗を抑えつけて、ルーズリーフの端を食み、時折口に溢れる自分の唾液を啜って、濡れそぼった音を住宅街に垂れ流した。

「つーか、これ大事なもんなんだから、止めろよ!」

 動揺の余り、牧は反対の手で少女の体を押し退けた。渾身の力で少女の細い体はアスファルトに突き飛ばされ、彼女が咥えたルーズリーフの端が千切れて唇に張り付いている。

 牧はか弱い相手に暴力を奮ってしまった自分に後悔して喉を詰まらせた。

 しかし少女は牧のそんな気持ちも知らずに、ぺたんと折り曲げた膝の間でお尻を地面にくっ付けて座り、諦め悪くもごもごと咀嚼を続けてから、ごくんと喉を仰け反らして口の中を飲み込んだ。

「やっぱりキミの言葉、おいしい」

「は?」

 言葉が美味しいとか、そもそも牧が書いたものじゃないだとか、甘ったるい声で短く告げられた内容だけでは情報が少なすぎて牧の混乱は収まらないどころか加速していく。

 こんな相手とは関わらない方が思いつつも、牧は彼女に噛み付かれたルーズリーフが心配で目をそちらに向けた。

「うぇ!?」

 牧が手にした紙は上半分がインクが溶けたようにぐちゃぐちゃになって読めなくなっていた。そのインクが筋になって破れた端、つまりさっきまで少女が食い付いていた部分に流れているように見えて、しかも彼女の唾液に塗れた部分は不自然に途切れて空白になっている。

「なんだ、これ、どうなってんだ」

「ん。わたしが食べちゃったからね。食べかす的な?」

 意味伝わる、と訊ねるように少女が小首を傾げた。

 意味は伝わるが、意味が分からない。

 牧は目の前にいるおかしな存在に対して、恐怖が胸の奥に燻って息が嗄れた。

「でも足りないよ。全部ちょうだいよ」

 そう言って、少女は唇についた紙の端切れを指で摘まんで、名残惜しそうに口に入れて咀嚼し始めた。

「うー、もう味もしない。おなかすいた」

 彼女は顔を顰めて舌を出し、唾液に塗れた切れ端を指にくっ付けて取り除いた。

「なんなんだ、お前」

 牧の問い掛けに、少女はきょとんと見つめ返した。

「わたし? わたしは吸言鬼だよ」

「きゅごーき? それ、名前か? 何語だよ」

「日本語で言ってますー」

 ちゃんと牧に分かるように言葉を選んだのに全く伝わらなくて、少女は不機嫌になって口を尖らせた。

 しかし牧は全く訳が分からず、どうすればいいのかと頭を悩ませる。

「もー。それくれないなら、なにか言葉を食べさせてよ、おいしいやつ」

「言葉を食うってなんなんだよ、お前。妖怪か」

「妖怪じゃないけどモンスターだよ」

「は?」

 煙に巻こうとしててきとうに言った台詞を肯定されて薪は思考が全て无言に掠れてしまった。

 何言ってんだこいつ、と白い目を少女に向けるが、彼女の方は至って真面目な顔をしている。

「わたし、吸精鬼の亜種だから」

「旧世紀? 二十世紀ってことか?」

「吸精鬼も知らないの?」

 少女は話の通じない牧に呆れて溜め息と一緒に首を振った。

 馬鹿にされた牧はムッとするが、残念ながら無知を指摘されて言い返す度胸が彼にはない。

「じゃあ吸血鬼くらいは知ってるでしょ?」

「ああ。なんだ、お前、血を吸うのか」

「違うわよ。けつじゃなくてごんって言ってるでしょ。血を吸って生きるんじゃなくて、言葉を食べて生きるの。言葉の言よ、わかる?」

 そこまで丁寧に説明されたら言いたいことくらいは分かる。

 吸血鬼が血しか食さないように、言葉しか食さない、そういうモンスターだと彼女は主張しているらしい。

 問題はそれが厨二の設定なのか、本当にそういう存在であるのか。

 そこまで考えて、牧はどっちだとしてもイタイ奴なのは変わらないし、関わり合いにならない方がいいに決まっていると気付く。

 それに右手の半分文字が溶けて吸われたような状態のルーズリーフを見て、薄ら寒さも感じた。

「そうか、じゃ、頑張って生きろよ。言葉は街ん中なら食うに困らないだろ」

 牧は軽く手を上げて別れの挨拶にして後ろに振り返った。遠回りをしてでも別の道から家に帰るつもりである。

 しかしその動きは腰にしがみついた自称モンスター少女に食い止められる。さっきもそうだったが、見た目に反して力が強く、筋トレを趣味にしている牧でさえ足を前に出してもまともに進めないし振り解けない。

「放せよ!」

「いや! お腹空いた! おいしいご飯よこせ!」

「なんで俺にそんな事言うんだよ!? 他を当たれ!」

「やだ! どうせ食べるならおいしいのがいい!」

「ふざけんな!」

 二人の叫び声は閑静な住宅地に木霊して段々と衆目を集める。

 牧はその中に躊躇いながもケータイを見ている人がいるのに気付き、抵抗を止めた。こんな下らない言い争いで警察なんて呼ばれたら困る。

 どうやってこいつを説得するかと少女を見下ろすと、彼女は腰が抜けたように牧の足に縋り付いて状態で崩れ落ちていた。

「お、おい、だいじょうぶか?」

「……だめ。お腹空いてるのにこんなに力使って……もう、げんかぃ」

 そんな弱々しい言葉を最後に彼女は糸が切れた人形みたいにくたりと地面に転がった。

 気絶している。死んではいないと思う。

 そんな力を失った少女の体を目の前にして、牧は血の気が引いていく。

「ああ、もう、くそ!」

 牧はもうヤケクソになって少女の細い体を抱き上げた。

 牧の動きを止めるほどの力を見せた癖に、その体は怖くなるくらいに軽い。

 人命救助だと牧は自分に言い訳をして、彼女を抱えたまま自宅へと走った。本当に人命なのかどうかは、ちょっと自信がなかった。

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