言えない言葉
都心に向かう私鉄は十二月二十四日という日付も相俟ってか、昼間でも席が埋まっていて、牧は紗貴と隣り合って吊り革を握っている。
電車の中という狭い空間に押し込められた大勢の他人は奇妙に気配が薄く、自分たちに関係ない雑談の
牧はただ、隣にいる紗貴の存在だけを確かなものとして肌に感じている。
「今日のチケットくれたの、牧が歌詞を書いてるバンドの友達なんだよね?」
「そうだよ」
「じゃあ、牧が書いた歌も聴けるのかな?」
「あいつらだから、頼まれなくても面白がってセトリに入れてるだろうさ。二人で来るって知ってるから尚更」
「せとり?」
「セットリストの略。演奏する順番のこと」
「なるほど。牧はみんなに愛されてるのね」
愛されていると言えば聞こえはいいが、要は弄られ役なだけだ。
どうしてこんな立ち位置になってしまったのかと、牧は窓を見るともなく眺める。
目の前には窓に薄っすらと映った自分の姿があり、その隣で同じように外に視線を置いている紗貴の姿も視界に入る。
二人で並んでいるのに、その間にある関係性はまだ『幼馴染』のままだ。
大学生にもなって、男と女が二人で出掛けて、それをお互いにデートだと呼んでいて、それなのにこの繋がりは恋人と呼べないでいる。
牧だって理解している。その関係性の呼び方を引っ繰り返すのに必要なのは、たった一言なのだと。
「紗貴」
「なに?」
牧は紗貴を呼んだ唇がやけに乾いて、それに喉の奥も張り付いたように動かなくて、次の言葉が繋げない。
それでも紗貴は気を悪くした様子もなく、真っ直ぐに窓の外に視線を固定して牧の言葉を待ってくれている。
「紗貴」
「はい」
また名前を呼んだだけで牧は声がつっかえてしまった。
去年の秋に繰り返し脳内イメージを固めて伝えようとした言葉だ。その言葉は牧の中に燻って煙を立てている。風を吹き込めば見事に燃えるはずだ。
それなのに、牧は何度も言葉が詰まる。
「牧」
今度は逆に紗貴から名前を呼ばれた。
牧は情けない顔をして瞳を揺らし、紗貴に向き合う。
紗貴が牧を見上げようとして。
紗貴の丸っこい目と、牧の目が合うその前に。
紗貴の小柄な体が膝から崩れて床に転がった。
「紗貴……?」
牧は理解が及ばなくて呆然と倒れる紗貴を見下ろしている。
紗貴の体の下から赤い液体が広がっていく。
牧は意味も分からずに怖くなって、紗貴の側に跪いてその体を抱き上げる。
「紗貴! 紗貴! 紗、貴っ……」
牧の手に生暖かくぬめった感触が伝わった。
抱き寄せた紗貴の腹にナイフが刺さっている。血はそこから止めどなく流れ落ちていく。
どうして。何故。何があった。どれも牧には分からなかった。
余りにも唐突だった。
牧はどうすればいいのかも分からなくて懸命に紗貴の名前を、泣きそうな声で呼び続ける。
『牧』
何処かから牧の名前が呼ばれた。
けれどそんなものには構ってられない。牧は今、世界で一番大切な相手を失うかもしれないのだ。
『牧、牧』
煩い。誰だ、こんな時に。
牧は頭の上から呼びかけてくる声に苛立ちながら、紗貴の体を強く抱き締める。そんな事をしても紗貴から流れ出ていく血も命も留められない。
『牧! ねぇ、牧ってば!』
嫌だ。紗貴を離すものか。
そんなに呼ぶなら、紗貴を助けてくれ。
牧は悲痛な想いで自分を呼ぶ声から目を背ける。
「紗貴! 俺は、お前と――」
牧の必死の声は途中で押し潰されて。
「牧! 今日、紗貴とデートでしょ! もう起きないと間に合わないよ!」
牧が体を横たえているのは自宅のソファの上だった。
現実の質感が牧の五感へと染み込んでいって、
「……騅?」
「大丈夫? 具合悪いの?」
騅は顔色も悪く冷や汗も浮かべている牧の体調を心配した。
寝起きで頭が上手く働かない牧は、兎に角体が重くてソファに沈む。
「いや。夢見が、悪かっただけだよ……たぶん」
「どんな夢見たの?」
騅は気遣わし気に眉を下げる。
牧は少しでも騅を安心させようとさっきまでの恐ろしい夢を、夢だったと笑い飛ばそうとして。
「あ……どんな……夢だったっけ……」
夢の内容が全く思い出せなくて自分の額を手で押さえた。
騅は暫し、牧の顔を見詰めた後に、つんと鼻先を突く。
「思い出せないならいいんじゃないのかな。どうせ良くない夢だったんでしょ。忘れられて何よりだよ」
牧が突かれた鼻を指で擦っている間に、騅はキッチンからスポーツドリンクを注いだコップを持って来てくれた。
牧はそれを一気飲みすると、喉を通る冷たさで目も覚めてきた気がした。
「それより、デート遅れるよ」
騅が指差した時計を見ると、待ち合わせの駅に向かうのにギリギリの時間で牧は一気に血の気が引いた。
「やっば! ありがとう、騅!」
牧はソファから飛び起きてデートの支度のために自室へと駆け込んだ。
慌てる牧は数分も掛けずに荷物と上着を引っ掴んで、バタバタと玄関から飛び出していく。
「……わたし、夢は食べてあげられないんだよなぁ」
騅は風のようにいなくなった牧の背中を見送ったままに玄関を見詰めて、ぽつりと呟く。
いつだって騅が食べて忘れさせてしまうのは、良くない思いじゃなくて大切な想いばかりだ。
そんな自分に溜息を吐いてから、騅も牧の後を追って家を出た。
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