第二節 : 旅は道連れ世は遇われ

第1話 明瞭な第一声

 ある日、目覚めと共に彼女の意識はクリアになった。

 最初は素直に喜んだ。何にも囚われない、制限のない思考は自由そのもの。

 しかし直後、過ぎ去りし日々が勝手に脳内再生されたなら、堪えきれないほどの羞恥に襲われ、彼女はしばらく部屋に引き籠もることを選択する。

 それでも、店主手製のスプラッタ料理はもう食したくなかったのだろう。

 朝、昼、晩。

 人知れず、食卓に料理が並ぶようになった。

 台所には血飛沫一滴残っていないため、誰が作ったのかは明白。

 ともすれば、怪奇現象のような状況を前に、彼女と同じ従業員の少年は言う。

「……靴屋の小人みたいだな」

 あえて用いたメルヘンな表現は、彼女の心情を諸々汲んだゆえか。


 それから幾日か経ち、ようやく部屋から出てきた彼女の第一声は――。


「……お礼?」

 朝の挨拶をすっ飛ばした言葉は、きょとんとしたワーズの顔に迎えられた。

 芥屋一階居間の階段近く、ばったり出くわしたのは、何の因果かワーズ。心の準備が間に合わず、顔も合わせないで要件だけをぶつけた泉は、遅れて見たワーズの表情に小さく頷いた。

「その……幽鬼の時も、人魚の時も、色んな人に助けて貰って。でも私、まだちゃんとお礼ができていないと思ったんです。だから――」

「んー……別にいいんじゃない?」

 今日も今日とて、携えた銃で自身のこめかみを掻いたワーズは、立ち話もなんだからと椅子へ座るよう促した。

 いつもであればソファーに座るところだが、そこは現在、竹平が寝所としており、当の彼は毛布を被って眠っていた。

 引き籠もると同時に、部屋の所有権が自動的に戻った泉は、つい部屋の方が寝やすいのではと思うのだが、こちらの方が竹平にとっては都合が良いらしい。

 何でも、隣室のワーズに加え、二階補強跡の壁向こうに住む、いかがわしい学者の存在が頭にちらついて、部屋では落ち着けなかったとか。ずっと部屋に籠もっていた泉が、何故そんなことを知っているのかと言えば、引き籠もり中、嬉しそうな声で階下の彼が言っていたのだ。

 ――安全つっても、不気味な奴らがいる二階より、常に閑古鳥が鳴く状態の一階の方が安心できるだろ。

 芥屋に居候している身で中々の発言だが、声音は真を帯びていて、部屋で過ごしていた彼の心労がひしひしと伝わってきた。

 ソファーを占領していたことを謝りたくなるほどに。

 そんなソファー近くの椅子へ座れば、向かいの席についたワーズは言う。

「お礼なんかしなくていいよ」

「…………へ?」

 「いい」と言われ、てっきり「お礼をするのは良いことだ」と思っていた泉は、裏切るような発言に目を丸くした。

「どうしてもしたいって言うなら、史歩嬢とスエ博士ぐらいで良いんじゃない?」

「え……と、史歩さんは分かるとして…………何故にスエさん?」

 二人以外を切り捨て、へらりと笑うワーズに混乱しつつ、泉は疑問を口にする。

 袴姿の神代史歩には、なんやかんやで世話になった憶えはあるが、いかがわしい学者、スエ・カンゲから世話になった憶えはない。

 ――逆に被害を受けた憶えはある。

 なんともなしに背後、ソファーで寝腐る竹平を見た。顔の半分まで毛布を被っている赤髪の少年は、泉が見つめる意を汲んでか、整った眉を不愉快そうに歪める。

 きっと、あまり芳しくない夢を見ているに違いない。

 どうか安らかな眠りを……、とまで思った泉。それでは危険だと思い直し、視線をワーズに戻す。未だ馴染みのない形の黒い衣を纏う彼は、白い面を傾げて、赤い笑いのまま眉を寄せていた。

「何故にって、そりゃ、役に立ったんでしょう? スエ博士のパンツ」

「……絶妙に嫌な響きですね」

「まあ、最初聞いた時は、ボクもビックリしたけどね。スエ博士なのに、他人の役に立ったりするんだーって」

(スエさんって……やっぱりそういう感じの人なんだ)

 人間好きのワーズにさえ、他人のために役立つとは思われていなかった学者。

 泉は嘆息しつつも、指摘されればそうかもしれないと、脳内のお礼リストにスエの名を並べた。場合によっては、竹平の精神が崩壊しかねなかった役の立ち方は、さておき。

 となれば、そんな道具を図らずも有効活用した、功労者である竹平にもお礼をすべきであり……。

「うーん。これなら、お礼より挨拶回りの方が良いのかも。今更、だけど」

 呟いた泉の脳裏に過ぎる、今まで出会った者たちの姿。

 名も知らぬ、身に危険を覚えた者たちを除き、目だけを上に向けて指を折る。

 と、ワーズが呆れたように食卓へ頬杖をついた。

「ご挨拶って、泉嬢……そんなに外に出たいの?」

「いえ、はっきり言って、奇人街の外には出たくないですけど。その……解いておきたいじゃないですか」

「何を?」

「ご、誤解、とか」

「何の?」

「う…………」

 へらりと笑う眉間に、またも生じる薄い皺。

 本気で訊いているのかも分からず、泉は頬を赤らめつつ言った。

「今までのアレは恋腐魚のせいで、もう回復しましたって。じゃなかったら……ワーズさん、困るでしょう?」

「何で?」

 ワーズの顔が四十五度まで傾いだ。

 異様な姿にはワーズという要素から、驚かない泉。

 更に顔を赤くしては、言いにくそうに口を動かした。

「だってワーズさん――」

 言いかけ、はっとして止める。

 ばつが悪そうに余所を向けば、視界の端で白い面が今度は逆方向へ傾いていく。

(……ワーズさんには好きな人がいるのに、今でもその人のこと好きなのに、なんて。……言えないじゃない)

 たとえ本人が全く気にしていなかったとしても。

 嫌なのだ。

 彼の話では過去形となってしまった相手を、不用意にワーズに想い出させてしまうのが。これを他が聞けば、嫉妬と勘違いされてしまいそうだが、泉の中にあるのは違う感傷だった。

 彼が「彼女」と称した相手をどれくらい好きだったかなど、泉に推し量れるものではない。けれど、あんなに優しく語れる、寂しそうに笑むワーズに、彼女を想い出させるのは酷だと思った。

 それがどんなにか、幸せな記憶だったとしても。

 現状が見合わなければ、辛いだけ、だから。

 過ぎるのは、幼少のみぎり、まだ何も知らなかったあの日々――……。

「泉嬢?」

 名を呼ばれ、我に返っては、いつの間にか俯いていた顔を上げた。

 不思議そうな顔がそこにあり、泉は照れくさそうに笑って誤魔化した。

「と、とにかく、お礼、じゃなかった、挨拶回り、したいんです! もちろん、人間以外の人たちも含めて。……駄目、ですか?」

 ワーズへ確認を取るのは、奇人街という場所柄、気軽に出歩けないためだ。

 人間の小娘が一匹、単身で夜の奇人街に出ればどうなるか。

 辛苦を好き好むような性癖はないため、今までを思い出して身震い一つ。

 改めてワーズを見やったなら、へらり顔が吐息をつく。

「んー、駄目って聞いといてさ。駄目って言われたら、どうするつもりだい?」

「そ、それは、その……」

 考えていなかったわけでもないため、少々気まずい思いで目を逸らす。

 そんな泉の様子に、ワーズは肩を竦めて笑う。

「大方、頼みやすい奴が来た時にでも頼むつもりだろ? ボクの返事がどうだろうと、結局、君は行くつもりなんだから」

「うっ」

 図星を差された泉は、悪戯がバレた子どものように身を竦ませる。

 恐る恐る、伺う瞳でワーズを見たなら、常ではソレと気づかない美貌がふんわり笑んでいた。

「だったら、違う、よねぇ? 駄目ですかって聞くの、可笑しい、でしょう?」

「あぅ……」

 見透かす混沌の眼差しに、自分の狡さを射られ、恥ずかしさから泉の顔が紅潮した。手持ち無沙汰の手が、上目遣いの泉の胸の前で落ち着かない動きをする。

「そ、その…………じゃあ、一緒に行って貰っても、良いですか?」

「はい、よくできました」

 自然な動作で伸びた手が泉の頭を撫でた。

 幼子を褒める時のような言葉と手つき。仕舞いに二回、軽く弾んだ頭を押さえた泉は、席を立つワーズの動きを追い、へらへらした笑みを睨んだ。

「ワーズさん……何だか性格、悪くなっていません?」

「そお? ワーズ・メイク・ワーズは元からこうだけどねぇ。――泉嬢?」

 泉の背後まで回ったワーズは、泉のふわふわした長い褐色のクセ毛を一つに纏める。ほとんどされるがままの泉は、膨れっ面を前へ向けつつ、頬を赤らめた。その内、柔らかく梳かれる感触が届いたなら、勝手に高鳴る胸。

 人間好きのワーズ相手、一度でも頭を振ればそこで終わるはずなのに、抵抗しようとも思わないのは、終わったはずの恋腐魚の名残か、それとも恋腐魚の影響下で慣れてしまったためか。

 どちらにせよ、あまりよろしくない可能性に、肌の赤みは増すばかり。

 これを察する気配もないワーズは、泉の髪を弄りながら続けた。

「あのね、ワーズ・メイク・ワーズは人間が好きでしょ? だからさ、尋ねるんだったら、願望をちゃんと口にして欲しい。駄目で元々って言葉はあるけど、最初から駄目? って聞かれたら困るんだよ? 駄目って言って欲しいんじゃないか、って思っちゃう」

「…………」

 ワーズの困惑を受け、いくらか熱の取れた泉は、一理あると頷きかけ、

「察して欲しいって言われても、困る。ワーズ・メイク・ワーズにゃ、そういう高尚な行動はできないからねぇ? だから、泉嬢が何かして欲しい時は……そう、史歩嬢やスエ博士みたいに、何かしろって命令してよ」

「…………はい?」

 命令という怪しい響きに、泉は思わず背後を仰ぎ見た。

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