第15話 想い人
シウォンから贈られた巨大な花束は、結局、置き場がないという理由により、芥屋の商品となった。
苦労して持ってきた司楼と顔を見合わせる泉だが、提案した店主は「じゃあ捨てるかい?」と笑う。受け取るつもりはないものの「さすがにそれは……」と濁したなら、「どっちも変わらないと思うんだけどねぇ」と返されて言葉を失った。人間の身体は慮っても心を考えないワーズが、元より気遣わない人狼の心を汲むようなことを口にしたせいで、余計気まずくなる。
そうして泳いだ目が再び司楼と合ったなら、泉の反応と花の行方、どちらも芳しくないことに一つ息をついた彼は、「とにかく仕事は終わったんで」とだけ述べて帰っていった。
何ともなしにその背を追い、姿が見えなくなった後も、青果棚へ赤い花を並べるワーズを横目に、泉は店の外を眺め続け――……
「泉嬢?」
名を呼ばれると同時にガラス戸が閉まる。
ねこだましのようなそれに目を瞬かせたなら、顎がくいっと掬われた。
「あ……」
斜め上、口づけするような先には、へらりと笑う白い面。
再来する火照りを感じ、逸らそうとした額が冷たく硬い物に遮られた。
前髪が滑る。
「あーあ。やっぱり赤くなってる。タオルで冷やすから、ソファに寝て?」
銃を携える親指の腹に撫でられ、潤んだ瞳が小さく頷いた。
離れて数歩、少しだけ覚束ない足取りに、黒い腕が支えとして現れる。ただし、支え自体がふらふらしているため、別の具合を味わう羽目になったが。
倒れ込むようにソファへ寝転べば、皺くちゃの黒コートが掛けられた。
「待っててね」
白い大きな手に軽く頭を撫でられる。
子どもに接するような扱いを受け、多少の不満が過ぎった。
そんな珍妙な自分の思いを払うべく、泉は別の話題を水の流れる音へ向けた。
「シウォンさん、まだ諦めてなかったんですね、猫のこと」
手紙の内容は、いつぞや猫を自由に操らんがため、泉を妻にと望んだ時と変わらず――否、アレよりだいぶ濃い文章で形成されていた。
掻い摘めば、泉への愛を存分に語った後で、叶えられない想いゆえに他で重ねてしまった事柄を懺悔、最後は縋るように逢いたいという想いが綴られており、
(これ、本気だったらすっごく――重い)
ぞぞぞと粟立つ背筋とは裏腹に、相変わらずの艶めかしい文才へは赤面した泉。
それでも最初から決まっている答えを返すべく、司楼へ伝言を頼もうとしたなら、「返答は手紙でお願いします」と言われ、ワーズに代筆を頼んだ。
シウォンの手紙、その返事はもちろん、
”あなたの願いを叶えるつもりはありません”
――猫に何かを頼む気はない。
そういう思いを書いて貰った泉。
けれど、司楼ばかりかワーズまでもが「うわぁ……」と言いたげな顔つきになったのは気になった。
ひんやりとしたタオルが額に落ちる。
礼を言おうとしたなら、椅子の背を前にして座る、件の顔つきを笑いの中に浮かべたワーズが視界に入った。
誰かに対する同情を思わせるソレ。
まるで、嘲るような感覚に襲われ、泉は潤む瞳でムッとした表情を作る。
「……あの、さっきから何なんですか、その顔は。私、変なこと言っていますか?」
些か強めの口調で問えば、苦笑の面持ちが銃口でこめかみを小突いた。
言葉を探す素振りが数秒続き、
「んー……泉嬢ってさ?」
「はい?」
「恋腐魚の効果が残っている状態で聞くのもなんだけど、誰かを好きになったことある? もちろん、恋に分類されるような好きって意味で」
尋ねられた事柄に、まず生じたのは絶句。
ワーズの口から色恋云々が吐かれる日が来るとは思わなかった。
次いで思い返される、過ぎ去った日々。
長い沈黙。
――経て。
「…………………………わ、ワーズさんは?」
逆に問うことで逃げた。
ファーストキスは、ある意味間接的にワーズから受けるずっと前、元居た場所で経験していた泉。しかして、詳しい状況は未だに一切思い出せないでいる。
相手のことすら――。
しかも、それ以外に恋の感触を知らないと来れば、返せる答えも当然知らず。
「ボク?……たぶん、あるよ」
「!」
思いがけない言葉と柔らかな混沌の眼差しに、泉の息が詰まった。
まさかあるとは思わなかった――失礼極まりない話だが、泉はワーズをそういう目で見ていた。特別に見つめる存在など彼にはいない、と。
「そう、ですか……。でも、たぶん……?」
上擦る声、震える喉に、恋腐魚の効果のせいで自分はショックを受けていると判断する。仮初の患う想いが、ワーズの言葉を認めたくないと、恋しい人の他方へ向けられる想いを拒否しているのだと。
自分自身の想いと、この動揺は関係ない。
至らせた結論に泉は知らず知らず、己が手を握り締めた。
そんな彼女へ、ワーズは僅かに柳眉を寄せ、静かに俯いた。
一瞬だけ見てしまった寂しげな微笑に泉の瞳が開かれても、ツバの陰に隠れた混沌は何も捉えはしまい。
低い声音が血色を秘めた薄い唇を割る。
「たぶん……なんだ。ある、っていうより、あった、だから。……でも、そう、たぶんボクは」
ふと、上がった顔。
なのに泉にはその表情が見えなかった。
伸びてくる白い手の輪郭さえぼやける。
額のタオルが少しだけ重みを増して、下にずれた。
乗じて閉じられた瞳から、温かいモノがじわりとタオルへ滲んだ。
暗い中、軽い圧迫を感じる眼球の外で、耳朶に響く音がある。
「今でも彼女が好き……なんだろうねぇ?」
どくり、無機質に穿たれる心音。
耳を塞ぎたい衝動に駆られる熱は、しかし払われ、泉の意思でぎこちなく動いた両手は、タオルの上にある手へ重ねられる。
ビクッと震えが伝われば、自然、泉は口にしていた。
「ごめんなさい、ワーズさん。訊いてしまって……想い、出させてしまって」
うわ言のように、繰り返し繰り返し。ワーズへ謝罪の言葉を綴る。
泉の耳が、小さく吐かれた息を捉えるまで。
「ねえ、泉嬢?」
呼ばれて噤む唇。下唇を薄く噛めば、泉の両手を擦り抜け、タオルから頬へ滑る手が、やんわりと自虐を制す。
「彼女はさ、とても唄が好きだったんだ」
驚くほど温かな声音に、身体から力が抜けた。タオルはそのまま、両手だけ下ろしたなら、席を立つ音の後で黒いコートの内へと招かれる。
傍らに膝をつく人の気配。
ふんわり撫でられる髪に涙が零れた。
すると、コレを吸い取ったタオルが外される。
闇に慣れた視界は、歪んだ光を映し。
「だから君はなるべく……特に、ボクと猫がいないところでは、絶対――」
唄わないで?
その声は、音として届かず、光景として泉の脳裏に焼きついた。
酷く穏やかな混沌の眼は、己の意思と意思に寄らぬ熱の合間で疲弊し、眠りに落ちる寸前の彼女へ告ぐ。
まじないのように。
もう、唄ってはいけないよ。
もう、ささやかな音色さえ、奏でられる安全な場所はないから。
あれだけ騒ぎ続けて、気付かない『ヤツ』じゃない。
『アレ』は今でも君を忘れていないんだ。
『アレ』は今も、君を探しているんだ。
『アレ』はなおも、君を望んでいる。
だから、ねえ?
唄わないで。
君の唄は招いてしまうから。
誰も望まない『禍』を。
――でも。
憶えておいて?
ボクのキミ。
キミの唄は嫌いじゃないんだ。
だけど。
嫌いじゃないけど。
キミが唄ったなら。
ボクらは決して、キミを守れない。
だって。
ダッテ、ね?
仕方がナイんだよ。
守れるハズもないんだ。
だってサ。
だって。
ぼくハ。
キミを。
必ズ――……
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